第28話 領主の恩人
翌朝、ノアは目を覚ますと、最初に自分の右腕を確認した。昨日セレナから引き受けた呪いは、まだ手首から肘のあたりまで黒い筋となって残っている。ただ、《呪耐性Ⅱ》へ成長してからは、以前ほど強い痛みはなかった。
「まず俺の分からだな」
ベッドの上で身体を起こし、《魔力循環Ⅱ》を使う。一つ目の流れは《浄化》。胸から肩を通り、右腕へ。黒い筋が残る場所へ白い魔力をゆっくり巡らせていく。無理に押し流そうとはしない。三日間、何度も呪いを受けて分かった。大量の《浄化》を一気にぶつければいいわけではない。呪いが身体のどこへ入り、どこに溜まっているのかを《魔力感知Ⅰ》で確認しながら、少しずつ削った方が効率がいい。黒い筋が手首から消える。次に前腕。最後に肘の近くへ残っていた濁った魔力を浄化すると、皮膚が元の色へ戻った。
「よし」
右腕を曲げ伸ばししてみる。痛みはない。身体の中を《魔力感知Ⅰ》で確認しても、昨日まであった嫌な濁りは消えていた。これなら最後の浄化へ行ける。ただし、その前にやることがある。
「腹減った」
昨日より身体が楽になった途端、急に空腹を感じた。ちょうどその時、扉が叩かれ、使用人が朝食を運んできた。今日も量が多い。焼いた肉と卵、柔らかい白パン、野菜の入った温かいスープ。それに果物まで付いている。最初の日なら、こんなに食べていいのかと確認していただろう。今日は聞かなかった。
「いただきます」
肉を食べ、パンをスープにつける。昨日までの数日で、この屋敷での食事にも少し慣れてきた。残した方が失礼なのか、全部食べた方がいいのかも最初は分からなかったが、食べきれば普通に次の食事が出てくる。それどころか、足りなければ追加まで頼める。まだ妙な感じはする。けれど今は、遠慮して腹を減らす理由もなかった。
「今日は魔力使うしな」
しっかり食べる。食後は水を多めに飲み、しばらく休んだ。その間に《蓄魔の腕輪》へ魔力を送り込む。昨日の夜にも貯めておいたため、すでにかなり蓄えられている。そこへ今朝の分を足し、限界近くまで満たしておく。
「これでいい」
自分の魔力と腕輪に蓄えた魔力。《呪耐性Ⅱ》と《聖護の首飾り》もある。必要な準備はすべて整っていた。
◇
セレナの部屋へ入ると、領主グラハムはすでにベッドの横にいた。
「おはよう、ノア君」
「おはようございます」
「身体は?」
「俺の呪いは全部消しました」
グラハムの表情が少し緩んだ。
「そうか……よかった」
「娘さんは?」
「夜の間は安定していた。熱もさらに下がっている」
ノアはベッドへ近づいた。最初の日とは、かなり違う。セレナの顔色はまだ青白いものの、苦しそうに眉を寄せることはなくなっていた。呼吸も穏やかだ。右腕にあった黒い筋は、ほとんど消えている。残っているのは胸元。ペンダントの周囲だけだった。
「今日で終わらせます」
グラハムが息を呑んだ。
「できるのか?」
「やってみないと分かりません。でも昨日より条件はいいです」
ノアは椅子へ座り、《魔力感知Ⅰ》を使った。ペンダント。青い宝石。その中心に、黒く濁った小さな魔力。そこから何本もの細い流れがセレナの身体へ伸びている。昨日までとは違い、今は一本一本がかなりはっきり分かる。
「やっぱり中だ」
「ペンダントの?」
「はい。あの宝石の中に、呪いの中心があります」
問題は、その中心をいきなり浄化できないことだった。最初の日、それをやろうとして呪いが暴れた。今回は順番を変える。
「先に娘さんとペンダントを切り離します」
「外せるのか?」
「今なら、たぶん」
ただし、まだ無理やり外すわけにはいかない。先に残っている呪いの根を減らす。ノアは右手をセレナの胸元へ向けた。
「始めます」
《浄化》。白い光を弱く、狭く使う。一本目。ペンダントからセレナへ伸びる黒い魔力。そこだけを狙う。黒い筋が揺れた。セレナの身体が少しだけ強張る。ノアはすぐ力を弱めた。
「大丈夫。ゆっくりやる」
黒い流れを少しずつ削っていく。すると、昨日までと同じように黒い靄がノアの右手へ流れ込んできた。手の甲に細い黒線が浮かぶ。グラハムが顔色を変えた。
「ノア君」
「これくらいなら大丈夫です」
《呪耐性Ⅱ》のおかげで、昨日までより明らかに楽だった。黒いものが入ってきても、すぐ身体の奥へ広がろうとはしない。一つ目の魔力の流れで自分の身体を《浄化》し、二つ目をセレナへ送る。《魔力循環Ⅱ》のおかげで二つを同時に維持できた。一本目の黒い筋を消したら少し休み、二本目を削る。流れ込んできた少量の呪いは自分の中で浄化し、さらに三本目へ進む。焦らず、一度に全部を消そうとはしない。時間だけが過ぎていき、グラハムも使用人たちも、もう誰も口を挟まず二人を見守っていた。やがて――
「あと一本」
ペンダントとセレナを繋ぐ黒い流れは、最後の一本だけになった。これまでで一番太い。胸の奥へ深く入り込んでいる。
「これが一番きつそうだな」
ノアは一度手を下ろした。水を飲む。自分の魔力を確認する。まだある。《蓄魔の腕輪》にも十分残っている。
「続けます」
最後の流れへ《浄化》を当てる。黒い魔力が激しく揺れた。
「う……」
セレナが小さく声を漏らす。グラハムが動こうとした。
「大丈夫です。まだ止めなくていい」
ノアは《魔力感知Ⅰ》から目を離さない。黒い流れ。太い。だが削れている。少しずつ細くなる。その分、大量の呪いがノアの腕へ流れてくる。
「ぐっ……!」
右手から手首、前腕へ。黒い筋が一気に増えた。それでも止めない。《呪耐性Ⅱ》で耐える。《浄化循環》で侵入したものを削る。
「まだ……いける」
黒い流れは半分ほどまで減り、さらに細くなった末、ふっと消えた。
「切れた」
ノアはすぐに手を下ろした。
「今です」
女性使用人に頼み、ペンダントの留め具へ触れてもらう。以前は動かなかったという留め具。今日は。
「……外れます」
小さな音を立て、銀の鎖が開いた。ペンダントがセレナの首から離れる。少女の身体は苦しまない。
「離してください」
使用人はすぐにペンダントを布の上へ置き、ベッドから離した。ノアは《魔力感知Ⅰ》でセレナを確認する。
「……ない」
黒い流れ。消えている。身体の中に残っている呪いも、ほんの僅か。
「娘さんの方は、もうほとんど終わりです」
「本当か?」
「はい。でも」
ノアは床に置かれたペンダントを見た。
「こっちが残ってます」
青い宝石。すでに半分近く黒く染まっている。そこに、今までで一番濃い呪いが集まっていた。
「ここからは娘さんに関係ない」
ノアは立ち上がった。
「なら、遠慮しなくていい」
◇
人を巻き込む心配がなくなった。ノアはペンダントから数歩離れ、右手を向ける。
「《浄化》」
白い光。強い。今度は削る量を気にしない。ペンダント全体を包む。直後、黒い宝石から大量の靄が噴き出した。
「下がって!」
グラハムたちを離れさせる。黒い霧が床を這い、ノアへ向かって広がってくる。
「やっぱり暴れるか」
《聖護の首飾り》が光った。身体へ触れる前に呪いを弱める。残ったもの。《呪耐性Ⅱ》で耐える。さらに《浄化循環》。身体に入ったものをすぐに消していく。
「最初の日なら、これで倒れてたな」
それでも楽ではない。黒い霧は次々に噴き出す。《浄化Ⅲ》で消しても、宝石の中から新しい呪いが湧いてくる。魔力の消費も激しい。
「まだあるのかよ」
腕が重くなる。額から汗が流れる。それでも《魔力感知Ⅰ》では分かる。中心。確実に小さくなっている。
「効いてる」
ノアは一度《浄化》を弱めた。自分の魔力。かなり減っている。なら。
「腕輪」
《蓄魔の腕輪》へ意識を向ける。宿で何度も貯めてきた魔力。それを身体へ戻す。腕輪から熱が流れ込むような感覚。
「……これ、本当に助かるな」
魔力が戻る。すぐに右手へ集める。
「もう一回」
《浄化》。白い光がさらに強くなる。黒い霧と白い光が部屋の中央でぶつかった。宝石が震える。小さな音が続けて鳴った。カチ。カチ。
カチッ。
「割れる?」
宝石ではない。その中で、黒い核。《魔力感知Ⅰ》で見えるものに、亀裂が入っている。
「あと少し」
黒い霧がノアへ襲いかかる。右腕に黒い筋。首にも少し、浮かぶ。身体が熱い。頭も重い。それでも、昨日とは違う。倒れない。三日間。この呪いを何度も自分の身体へ入れた。そのたびに消した。その結果、《呪耐性Ⅱ》まで得た。
「三日も付き合ったんだ」
ノアは右手を前へ出した。
「もう終わりにしよう」
残っている魔力を流す。
「《浄化》!」
白い光が部屋いっぱいに広がり、黒い霧を押し返していく。宝石の内部に見えていた黒い核へ亀裂が入り、少しずつ広がった。そして――
パキンッ。
乾いた音がした。黒い核が砕けた。次の瞬間、部屋を満たしていた黒い霧が、風に吹かれた煙のように一気に薄くなる。白い《浄化》の光へ触れ、すべて消えていった。
「……終わった」
ノアは手を下ろした。ペンダント。青。最初に見た時よりも澄んでいる。もう黒い魔力は感じない。《危険察知Ⅰ》に反応はない。
「終わりました」
振り返る。その直後だった。
「……お父……様?」
小さな声。全員がベッドを見る。セレナの目が開いていた。
「セレナ!」
グラハムが駆け寄る。少女はまだぼんやりしている。
「お父様……どうして……」
「もう大丈夫だ。もう大丈夫だ……!」
グラハムが娘の手を握る。声が震えていた。ノアは少し離れたところから《魔力感知Ⅰ》で確認した。呪い。ない。ほんの僅かに残っていた濁りも、ペンダントの核が消えたことで急速に薄くなっている。
「呪いは消えました」
グラハムが振り返る。
「本当か?」
「はい。ただ、ずっと寝てたし、高熱も出てたから、すぐ元気にはならないと思います」
ノアは医師を見る。
「そこから先は俺じゃ治せません」
《浄化》は呪いを消せる。汚れも、不純物も取り除ける。でも体力までは戻せない。
「後は医者にお願いします」
「もちろんだ」
グラハムは立ち上がった。そしてノアの前まで来る。
「本当に……ありがとう」
頭を下げた。
「……」
ノアは一瞬、どうすればいいか分からなかった。領主が。自分に。頭を下げている。
「頭、上げてください」
「いや。君は娘の命を救ってくれた」
「仕事なので」
「それでもだ」
グラハムはしばらく頭を下げたままだった。ノアは妙に落ち着かなくなり、自分の右腕へ視線を落とした。
「あ」
「どうした?」
「俺の方、まだ残ってた」
腕、真っ黒、首にも細い筋。グラハムの顔から一気に血の気が引いた。
「医師を!」
「これは俺がやります」
「だが!」
「さっきより全然少ないです」
もう呪いの元は消えた。新しく入ってくるものもない。あとは自分の身体に残った分を《浄化》すればいい。
「少し寝ます」
「客室を使ってくれ。必要なものがあれば何でも用意する」
「じゃあ、水お願いします」
「そんなものでいいのか?」
「喉乾いたので」
ノアは自分の右腕を見ながら部屋を出た。
◇
完全に呪いが消えたのは昼を大きく過ぎた頃だった。何度か休みながら《浄化循環》を続け、最後に首元へ残っていた黒い筋まで消す。《魔力感知Ⅰ》でも異常なし。
「今度こそ終わり」
ベッドへ倒れ込む。疲れた。ただ、最初の日のように意識を失ったわけではない。魔力も少し残っている。腕輪にはほとんど残っていないが、また宿で貯めればいい。少し眠り、夕方に目を覚ました。
その頃にはセレナも粥を少し食べられるところまで回復していた。医師によれば、数日は安静が必要だが、命の危険はないらしい。
「よかった」
それを聞ければ十分だった。
◇
帰る前に、ノアは領主グラハムの執務室へ呼ばれた。机の上には、一つの大きな革袋が置かれていた。
「今回の報酬だ」
「はい」
ノアは袋を持ち上げる。
「……重い」
中を見る。
「え?」
思っていたよりずっと多い。Cランクの討伐依頼を一件こなした程度ではない。何件も。かなり危険な依頼を続けて、ようやく届くような額だった。
「こんなにもらっていいんですか?」
「娘の命の値段としては、むしろ安すぎると思っている」
「でも依頼ですよね?」
「依頼だからこそ、正当な報酬を払う」
ノアはもう一度袋を見た。断る理由はない。
「じゃあ、もらいます」
「ああ。それと、もう一つある」
グラハムが小さな封筒を差し出した。厚い紙。赤い封蝋。そこには領主家の紋章が押されている。
「これは?」
「私の紹介状だ」
「紹介状?」
「ベルツだけでなく、この領内の役所や商会で必要になった時に使うといい。私が君の身元と信用を保証する」
ノアは封筒を見た。
「何に使えるんです?」
「普通では入れない場所へ入る必要がある時や、高位の商人に会いたい時などだな。もちろん、何でも無理が通るというものではない」
「なるほど」
今すぐ使い道は思いつかない。それでも、価値がある。それくらいは分かる。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ」
最後に、浄化したペンダントも確認した。
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《月雫の護符》
等級:希少級
効果:精神干渉および呪いに対する抵抗を高める。
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「本当は娘を守る物だったみたいです」
「……そうか」
「これは返します」
ノアは迷わずペンダントを差し出した。
「君が浄化したものだ。望むなら――」
「奥さんの形見ですよね?」
「ああ」
「じゃあ娘さんの物です」
グラハムはしばらくペンダントを見つめ、それから静かに受け取った。
「ありがとう」
◇
館の前には、帰りの馬車が用意されていた。最初の日に案内してくれた黒服の男が扉を開けて待っている。ノアが乗ろうとしたところで、後ろから声がした。
「ノア君」
振り返る。グラハムだった。領主本人が玄関まで出てきている。
「本当に世話になった」
「はい」
「またベルツで困ることがあれば、遠慮なく私を頼ってくれ」
「分かりました」
ノアは少し考えた。
「本当に頼っていいんですよね?」
「もちろんだ」
「じゃあ困ったら来ます」
グラハムが笑った。
「そうしてくれ」
馬車へ乗る。ゆっくりと動き出した。窓から領主館が遠ざかっていく。大きな門、石壁、広い庭。数日前まで、自分があそこで寝泊まりすることになるとは思ってもいなかった。もっと前なら、スラムで暮らしていた頃なら、あの門の内側へ入ることさえなかっただろう。ノアは《遠征用収納鞄》へ手を入れた。大金、Cランクの冒険者証、領主家の紹介状。どれも、昔は持っていなかったものだ。掃除しかできないと笑われた《浄化》。廃品置き場で拾った呪われた剣。そこから始まった。
「……結構、上がってきたな」
馬車の窓から遠ざかる領主館を眺めながら、ノアは小さく呟いた。




