第27話 俺も呪われた
目を覚ました時、最初に見えたのは知らない天井だった。白い天井。細かな彫刻が入った梁。窓からは朝の光が差し込み、分厚いカーテンがゆっくり揺れている。
「……どこだ?」
身体を起こそうとして、右腕に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
そこで昨日のことを思い出した。領主の娘、セレナ。母親の形見だというペンダント。そこから身体へ入り込んでいた呪い。そして《浄化》を使った瞬間、逆流してきた黒いもの。ノアは慌てて右腕を確認した。
「……残ってる」
手の甲から肘の少し上まで、黒い筋が走っている。昨日ほど濃くはない。寝ている間にも《聖護の首飾り》と《呪耐性Ⅰ》が働いていたのかもしれない。それでも完全には消えていなかった。自分が呪われている。その事実だけなら怖い。だが、第七呪物保管庫で呪いには何度も触れてきた。身体に入った経験もある。何も分からないわけではない。
「まず自分からだな」
ノアはベッドの上で座り直した。《魔力循環Ⅱ》。胸の奥から魔力を流し、《浄化》を身体の中へ巡らせる。いつものように胸から腹、腰、脚、背中、肩、腕へ。右腕へ流れた瞬間、焼けるような痛みが走った。
「ぐっ……!」
黒い筋が僅かに動く。白い《浄化》とぶつかり、皮膚の下で黒いものが蠢いた。
「効いてる」
ノアは歯を食いしばって循環を続けた。急いで消そうとしない。昨日、それで失敗した。強い《浄化》を一気にぶつけた結果、セレナの身体に入り込んでいた呪いが暴れ、自分へまで流れ込んできた。なら、少しずつ。右手から手首、前腕へ。時間をかけて黒い筋を押し戻していく。しばらくすると、手の甲から黒い色が消えた。
「……遅いな」
以前なら、身体に入った程度の呪いはもっと早く消せた。今回は違う。ただの残留した呪いではない。何かが身体の奥へ食い込もうとしている。ノアは《魔力感知Ⅰ》も使った。
「ここか」
右腕だけではない。肩。さらに胸の少し手前。薄いながらも濁った魔力が残っている。昨日、見た目では腕だけが黒くなっていた。だが実際には、それより深くまで入り込んでいたらしい。
「危なかったな……」
そのまま気を失ったのだから、あと少し無理をしていたらどうなっていたか分からない。ノアは《浄化循環》を弱めた。全部を今すぐ消す必要はない。自分の魔力も回復していない。まず身体を休ませる。そう判断したところで、部屋の扉が静かに開いた。
「お目覚めになられましたか」
昨日、馬車まで迎えに来た黒服の男だった。
「あ、はい」
「具合はいかがでしょう」
「呪いが残ってます。でも昨日よりはましです」
男の表情が曇った。
「医師をお呼びしております」
「医者じゃ治らないと思います」
「それでも、お身体の状態だけでも確認させてください」
「分かりました」
男は少し安心したように頭を下げた。
「それから、領主様がずっと心配しておられます。お会いになれますか?」
「娘さんは?」
ノアが先に聞くと、男はすぐ答えた。
「昨夜より明らかに安定しております。熱も少し下がりました」
「黒い筋は?」
「首からは消えています。胸と右腕にはまだ残っておりますが、昨日より薄くなったと医師が」
「そうですか」
それを聞いて、ようやく少し安心した。自分まで呪われたが、完全な失敗ではなかった。
「領主さん、呼んでください」
◇
しばらくして、領主グラハムが部屋へ入ってきた。昨日よりさらに疲れた顔をしていた。ほとんど眠っていないのかもしれない。
「ノア君」
「おはようございます」
「起きて大丈夫なのか?」
「起きるくらいなら」
グラハムの視線が、ノアの右腕へ落ちた。黒い筋。まだはっきり残っている。
「……本当に、申し訳ない」
「何がです?」
「娘を助けるために呼んだ君まで、こんな状態にしてしまった」
「領主さんが呪ったわけじゃないでしょう」
「それでもだ。もう十分だ。依頼は中止する」
ノアは少し驚いた。
「中止?」
「ああ。君が危険を冒してまで続ける必要はない。娘の容態は昨夜より安定した。それだけでも十分だ」
「でも、呪いはまだ残ってますよね」
「残っている。だが――」
「俺にも残ってます」
グラハムが黙った。ノアは自分の腕を見た。
「昨日、呪いがこっちに入ってきました。そのおかげで、少し分かるようになったんです」
「何がだ?」
「この呪い、一気に消そうとすると暴れます」
セレナの身体へ入り込んだ呪いと、ペンダント。両方が深く繋がっている。外から《浄化》するだけでは、表面を削ったところでペンダントから補充される。かといってペンダント本体を強引に浄化すると、身体に入り込んだ呪いが一斉に反応する。
「昨日はまとめて消そうとしたから、失敗しました」
「では、どうする?」
「少しずつやります」
「少しずつ?」
「娘さんから少しだけ呪いを抜く。それを俺が引き受けて、自分の身体で《浄化》する。それを何回か繰り返します」
グラハムの顔色が変わった。
「待て。それでは君がさらに呪われるだけではないか」
「だから少しずつです」
「危険だ」
「危険です」
ノアも否定しなかった。
「でも俺には《呪耐性》があります。それに、身体の中で《浄化》を回せます。昨日は一度に入ってきすぎただけです」
「それでも――」
「途中で無理だと思ったら止めます」
ノアははっきり言った。死ぬつもりはない。娘を助けるために自分まで死ぬ、という話でもない。
「俺、死にたくないので」
グラハムはしばらくノアを見ていた。
「……君は妙なところではっきりしているな」
「よく言われます」
「本当に続けられるのか?」
「自分の呪いをもう少し祓ってから、一回だけ試します。それで無理ならやめます」
領主はすぐには答えなかった。だが最後には、深く息を吐いた。
「分かった。ただし、少しでも危険だと思ったら中止してくれ」
「はい」
「それから、完治するまでこの館に滞在してほしい。毎日町と館を往復する必要はない」
「ここに?」
「ああ。この部屋を使ってくれ。食事も必要なものもすべてこちらで用意する」
ノアは改めて部屋を見回した。広い。普段泊まっている宿の部屋が、二つは入りそうだった。ベッドも大きい。机、椅子、棚。さらに隣には湯を使える小部屋まであるらしい。
「……お金取られません?」
グラハムが目を瞬いた。
「取るわけがないだろう」
「ならいいです」
領主が初めて少し笑った。
◇
昼までかけて、ノアは自分の身体に残った呪いを浄化した。完全には消えない。だが右腕の黒い筋は、肘から手首の少し上まで後退した。魔力もある程度戻った。食事も運ばれてきた。
「……多いな」
焼いた肉、柔らかいパン、野菜のスープ、果物。さらに甘い焼き菓子まで付いている。普通に一日分ありそうな量だった。
「全部食べて大丈夫ですか?」
料理を運んできた使用人が少し驚いた。
「もちろんでございます」
「じゃあ食べます」
ノアは遠慮しなかった。昨日からほとんど何も食べていない。魔力も使った。身体も呪いと戦っている。腹が減っていた。肉を食べ、パンをスープへ浸し、野菜も残さない。食べ終わった頃、使用人が戻ってきた。
「足りませんでしたでしょうか?」
「いや、かなり食べました」
「追加もお持ちできますが」
「追加?」
「はい」
ノアは少し迷った。
「……じゃあパンだけもう一個」
「かしこまりました」
使用人が普通に頭を下げて出ていく。
「すごいな、領主の家」
食べ物を追加しても怒られない。昔なら、一切れ余分に取っただけで殴られることもあった。今は「もう一つ」と言えば運ばれてくる。奇妙だった。だが悪くない。食事を終え、少し休んだ後。ノアは再びセレナの部屋へ向かった。
◇
セレナはまだ眠っていた。昨日と比べれば呼吸は安定している。首にあった黒い筋は消えたまま。右腕と胸元には残っているが、少し薄くなっている。グラハムと医師、それから女性の使用人が部屋にいた。
「始めます」
ノアはベッドの横へ椅子を置いた。
「昨日みたいに一気にはやりません」
まず《魔力感知Ⅰ》。ペンダント。そこから何本もの黒い魔力がセレナの身体へ伸びている。昨日より見える。いや。《魔力感知Ⅰ》に慣れてきたのかもしれない。
「右腕からやります」
最も外側。細い流れ。そこだけ。ノアは右手を向けた。
「《浄化》」
ノアは弱く、狭い範囲だけを狙って《浄化》を使った。黒い筋が少し薄くなり、ペンダントにも反応が出る。ただし昨日ほど強くはない。
「もう少し」
《浄化》。ほんの少しだけ強める。セレナの右手首から、黒い靄が滲み出した。それが白い光へ触れる。そして、ノアの右手へ。
「……来た」
「ノア君!」
「大丈夫。これくらいなら」
黒い筋、手の甲、一本。増えた。ノアはすぐ自分へ《浄化循環》を強める。一つの魔力の流れは自分。もう一つはセレナ。《魔力循環Ⅱ》。二つを維持する。
「ゆっくり」
娘から自分へ少しだけ呪いを移し、入ってきた分を自分の中で消す。それを繰り返した。昨日のような激しい逆流は起きていない。
「できる」
十分ほど。それ以上は続けなかった。
「今日は一回目、ここまで」
グラハムがセレナの腕を見る。
「……薄くなっている」
手首。昨日まで黒かった場所。かなり薄い。
「全部やろうとしない方がいいです」
ノアは自分の右腕も見た。黒い筋。少し増えた。
「俺はこれを消します」
「痛くないのか?」
「痛いです」
「……」
「でも、我慢できないほどじゃないです」
嘘ではない。痛い。身体が熱い。腕が重い。ただ、昨日のように意識が飛びそうなほどではない。ノアは客室へ戻った。
◇
午後、自分を浄化、夕方、もう一度セレナを浄化、夜、また自分。一日目は、それだけだった。二日目も同じ。朝、自分の状態を確認する。黒い筋が消えた分だけ、セレナから少し受け取る。休む。食べる。浄化。また休む。魔力が足りなくなれば《蓄魔の腕輪》から少しだけ補う。腕輪も使い切らない。何か起きた時のために必ず残す。セレナの呪いは少しずつ減っていった。右手、前腕、肘。黒い筋が一日ごとに後退していく。一方でノアの身体には、何度も呪いが入った。そのたびに《聖護の首飾り》が侵入を弱め、《呪耐性Ⅰ》で耐え、《浄化循環》で消していく。楽ではない。だが――
「慣れてきた」
自分でも分かった。最初は呪いが入るたび、身体が強く拒絶していた。今は違う。どこへ入ったか。どれくらいの量か。どこから浄化すれば早く消せるか。《魔力感知Ⅰ》も使いながら、少しずつ分かるようになってきた。
三日目の朝。ノアは客室で右腕を見ていた。昨日の夜、セレナから引き受けた呪い。手首から肘まで、黒い筋が残っている。
「今日は結構入ったな」
《浄化循環》で胸から肩、右腕へ白い魔力を流す。黒い筋はいつものように抵抗した。だが――
「……?」
少し違った。痛みが弱い。
「なんで?」
昨日までなら、呪いへ《浄化》が触れた瞬間にかなりの痛みが走っていた。今日は耐えられる。それどころか、黒い筋が消えていく速度も明らかに速い。
「もしかして」
その瞬間――
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《呪耐性Ⅰ》の熟練度が規定値に到達しました。
《呪耐性Ⅰ》は《呪耐性Ⅱ》へ成長しました。
────────────
「……上がった」
ノアは思わず右腕を見つめた。
────────────
《呪耐性Ⅱ》
────────────
「今なのか」
何度も呪われ。何度も身体の中から祓った。その結果。耐性そのものが成長した。
「試してみよう」
《浄化循環》を少し弱めて様子を見る。以前なら黒い筋はじわじわ広がろうとしたが、今はその場から動かない。
「違う」
明らかに身体が呪いへ強くなっている。再び《浄化》を使うと、黒い筋はみるみる薄くなった。
「これなら」
今までより。もう少し、多く。引き受けられる。もちろん、無茶はしない。だが、娘を治す。速度。上げられる。
◇
ノアがセレナの部屋へ入ると、領主グラハムがすぐに立ち上がった。
「どうした?」
「技能が上がりました」
「技能?」
「《呪耐性Ⅱ》になりました」
グラハムにはそれがどれほどのことなのか、完全には分からなかったらしい。それでもノアの表情を見て理解した。
「つまり、昨日より……」
「やれます」
ノアはセレナの横へ座った。《魔力感知Ⅰ》で確認する。
「……減ったな」
最初は身体中へ根を張っていた黒い筋が、今では右腕からほとんど消え、首にも残っていない。まだ残っているのは胸と、ペンダントの周囲だけだった。
「もう本体の近くだけ」
グラハムが息を呑んだ。
「治るのか?」
「たぶん」
「たぶん、か」
「絶対とは言いません」
ノアはペンダントを見る。青い宝石。今は、少し黒く濁っている。
「でも、ここまで来ました」
今日。無理に全部はやらない。ペンダント周辺。少しだけ。
「《浄化》」
白い光が胸元へ広がると、黒い筋が動き、ノアの方へ流れ込んできた。
「っ……」
痛い。だが、昨日までとは。全然違う。
「大丈夫」
《呪耐性Ⅱ》で呪いに耐えながら、《浄化循環》で削っていく。セレナの胸を走っていた黒い筋はさらに薄くなり、最後にはペンダントの周囲へ集まる太い流れだけが残った。
「これが最後か」
ノアは《魔力感知Ⅰ》へ集中し、ペンダントの内部を探った。
「……ん?」
青い宝石の奥に、小さいながらはっきりした何かがある。散らばっていた呪いが、すべてそこへ集まっているように見えた。
「中に何か入ってる」
「中?」
グラハムが聞く。
「ペンダントの中です。たぶん、これが呪いの中心です」
ノアは手を下ろした。
「今日はここまでにします」
「もう少しではないのか?」
「だから止めます」
昨日まで。何度も。分かった。最後だから、あと少しだから、それで欲張ると危ない。
「明日、これをやります」
ペンダントの中に呪いの中心がある。それを消せば、おそらくすべて終わる。ベッドの上のセレナは、最初の日とは比べものにならないほど顔色が良く、呼吸も落ち着いていた。まだ目は覚まさないが、確実に回復している。ノアは自分の右腕を見る。そこには黒い筋が、また少し浮かび始めていた。
「まず、俺の分を消してからだな」
明日。最後に、そのために。今日。休む。ノアは椅子から立ち上がった。今度は、倒れなかった。




