第26話 呪われた令嬢
Cランクへ昇格した翌日、ノアは少し遅めに冒険者ギルドへ向かった。昨日は昇格審査で《鉄背大猿》を倒し、素材まで売ったため、しばらく仕事をしなくても生活には困らない。それでも宿で一日中寝て過ごす気にはならなかった。金があるうちに休めばいい。そういう考え方も、今では少しずつ分かるようになっている。だがスラムで育ったノアには、何もしない日というものがまだ落ち着かなかった。今日食べる物があるからといって、明日もあるとは限らない。そんな生活を長く続けてきたせいで、身体が動くなら働いた方が安心する。
「Cランクの依頼、見てみるか」
ギルドへ入り、新しく見ることができるようになった掲示板へ向かおうとしたところで、受付から呼び止められた。
「ノアさん。少しいいですか?」
「はい」
「依頼を選ぶ前に、こちらへ来てもらえますか」
いつもの受付係だった。声は落ち着いているが、普段より少しだけ硬い。ノアは掲示板を見るのをやめて受付へ向かった。
「何かありました?」
「今朝、領主様のお屋敷から使いの方が来ました」
「領主?」
一瞬、自分には関係のない話だと思った。ベルツを治める領主がいることくらいは知っている。しかし、ノアにとって貴族は遠い存在だった。スラムにいた頃なら、領主の顔を見るどころか、屋敷の近くへ寄る理由さえなかった。
「俺が何かしました?」
「していません」
「じゃあ、なんで?」
「指名依頼です」
「……俺に?」
「はい」
受付係が一枚の依頼書を出した。普通の討伐依頼とは違い、依頼人の欄には領主家の紋章が押されている。
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《緊急指名依頼》
依頼主:ベルツ領主家
依頼内容:原因不明の異常についての調査、および可能であれば除去
対象:領主令嬢
報酬:応相談
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「令嬢?」
「領主様の娘さんです」
「病気ですか?」
「それが、病気なのかどうかも分からないそうです」
受付係によれば、領主の娘は数日前から高熱を出して寝込んでいるらしい。最初は普通の病気だと思われていた。だが薬が効かない。治癒魔法も効かない。神殿から聖職者を呼んで祈祷や浄化まで試したが、症状は悪化している。
「それで俺?」
「娘さんの身体に、黒い痣のようなものが広がっているそうです」
「黒い痣……」
少しだけ気になった。
「神殿の方からも、普通の病気ではない可能性があると言われたそうです。それで領主家が、ベルツ周辺で呪いに詳しい人間を探したところ……」
「俺の話が出た?」
「そういうことです」
ノアは眉を寄せた。第七呪物保管庫については詳しく話していない。だが旧処刑場の浄化や、呪われた家の依頼など、ギルドを通して受けた仕事はいくつもある。全部を隠しているわけでもない。
「でも俺、医者じゃないですよ」
「承知しています。治療ではなく、まず呪いかどうか確認してほしいとのことです。もしノアさんの手に負えないものであれば、それを伝えるだけでも構わないそうです」
「見に行って、無理なら帰っていい?」
「はい」
それなら受けてもいい。何より。黒い痣。薬も治癒魔法も効かない。神殿の浄化でも改善しない。少なくとも、普通ではない。
「分かりました。行きます」
「助かります。領主家の馬車が外で待っています」
「もう?」
「かなりお急ぎのようです」
ノアは依頼書を受け取った。報酬欄には金額が書かれていない。
「これ、いくらなんです?」
「成功した場合は領主様と直接相談してください」
「……分からないのか」
「少なくとも安くはないと思いますよ」
「じゃあ行ってきます」
結局、最後には金の話になった。
◇
ギルドの外には、二頭立ての馬車が待っていた。ノアは一瞬だけ立ち止まった。
「これに乗るの?」
「ノア様でしょうか」
馬車の横に立っていた男が頭を下げた。年齢は五十歳くらい。黒い服をきっちり着込み、姿勢が妙に良い。
「はい」
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
「……様はいらないです」
「領主家からお招きしたお客様ですので」
「客?」
「はい」
その言葉に少しだけ違和感があった。客として扱われる。ノアにはまだ慣れない。馬車へ乗り込むと、座席には柔らかな布が張られていた。腰を下ろした瞬間、身体が少し沈む。
「……柔らか」
宿のベッドにも慣れたと思っていたが、これはさらに違う。馬車が動き出す。窓からベルツの街並みを眺めながら、ノアはぼんやりと昔を思い出した。スラムにいた頃、馬車とは避けるものだった。道を歩いていて貴族や商人の馬車が来れば、端へ寄る。邪魔をすれば怒鳴られるし、下手をすれば蹴られる。乗る側になるなど、考えたこともなかった。
「Cランクになった次の日に領主か」
自分でも妙な気分だった。ただし遊びに行くわけではない。人が死ぬかもしれない仕事だ。ノアは右手首に装着した《蓄魔の腕輪》へ意識を向けた。昨夜、宿でかなりの魔力を蓄えてある。胸元には《聖護の首飾り》。《清流の指輪》も装着している。呪いが相手なら、今の装備で対応できないものはそう多くないはずだった。
「……たぶん」
第五地下区画のようなものが出てこなければ。
◇
領主館はベルツの北側にあった。高い石塀。大きな鉄門。その向こうには広い庭があり、手入れされた木々の間を石畳の道が続いている。
「でかいな」
屋敷そのものが、ノアの知っている建物とは違った。三階建て。窓が多い。壁は白い石で作られ、入口の上には領主家の紋章が飾られている。馬車を降りると、先ほどの男に案内されて中へ入った。
「……」
思わず足元を見る。床が光っている。汚れているわけではない。磨かれているのだ。絨毯、壁の絵、天井から吊るされた魔石灯。廊下を歩いている使用人たちの服まで、ノアが普段見ている冒険者より綺麗だった。
「何か問題がございますか?」
「いや。床が綺麗だなって」
「毎日手入れしておりますので」
「《浄化》いらないな」
思ったことをそのまま言うと、案内役の男が一瞬だけ目を瞬いた。それから、ほんの少し笑った。
「確かに、お屋敷の掃除をお願いする必要はなさそうです」
長い廊下を抜け、二階へ上がる。奥の部屋の前には、何人もの使用人がいた。全員、表情が暗い。
「こちらです」
扉が開く。中には数人の人間がいた。最初に目に入ったのは、ベッドの横に立っている男性だった。四十代半ばほど。銀混じりの茶髪。上等な服を着ているが、顔には疲れが出ている。
「君がノアか」
「はい」
「ベルツ領主のグラハムだ。急な依頼を受けてくれたことに感謝する」
領主。ノアは少し迷ってから頭を下げた。
「先に言っておきます。俺は医者じゃありません」
「ああ、聞いている。娘が呪われている可能性があると知り、君を呼んだ。無理なことをしろとは言わない。まず見てほしい」
「分かりました」
視線をベッドへ向ける。少女が眠っている。ノアより少し年上だろう。十七、八歳ほど。長い金髪が枕へ広がっている。顔色は悪い。額には汗。呼吸も浅い。
「セレナだ。私の一人娘だ」
ノアはベッドへ近づいた。その瞬間、ぞわり。《危険察知Ⅰ》。反応した。
「……ある」
「何か分かるのか?」
「まだです」
まず《魔力感知Ⅰ》。二つ目の魔力の流れを技能へ向ける。領主。使用人。部屋にいる人々。それぞれに小さな魔力がある。そしてセレナ。
「……濃い」
明らかにおかしい。本人の魔力だけではない。別の何かが混ざっている。黒い。そう見えるわけではない。だが第七呪物保管庫で何度も触れてきた、濁った魔力と似ていた。
「服、少し見てもいいですか?」
領主が女性の使用人を見る。使用人がベッドへ近づき、セレナの首元を少しだけ開いた。
「……」
黒い筋、首から鎖骨、胸元。さらに右肩へ。細い根のように広がっている。
「いつから?」
「最初は三日前です」
領主が答えた。「右手首に小さな黒い痣が出た。その日の夜には腕へ広がり、翌朝には熱を出した。今朝になって首まで……」
「右腕も見ていいですか」
袖をまくってもらう。
「うわ……」
肘から手首にかけて黒い筋がかなり多い。だが――
「変だな」
見た目だけなら、黒い筋は右腕から首へ繋がっているように見える。だが《魔力感知Ⅰ》で追うと流れは逆だった。起点は胸で、そこから腕へ広がっている。
「首に何かつけてます?」
「え?」
女性使用人が布を少しずらした。細い銀の鎖。その先には、小さな青い宝石がついたペンダント。ノアの《魔力感知Ⅰ》が強く反応した。
「これ」
間違いない。濁った魔力の中心がそこにある。
「このペンダント、いつからつけてるんですか?」
領主の表情が変わった。
「……妻の形見だ」
「奥さんの?」
「十年前に亡くなった。セレナが十七になったら渡すつもりで保管していた。誕生日が五日前で、その日に渡した」
「症状が出たのは?」
「二日後だ」
ノアはペンダントを見る。
「たぶん、これです」
「これが?」
「かなり強い呪いがあります」
領主が言葉を失った。
「だが、それは妻がずっと身につけていたものだ。妻には何も……」
「いつ呪われたかは分かりません。奥さんが亡くなったあとかもしれないし、ずっと保管している間かもしれない」
ノアにも原因までは分からない。
「外します」
「待ってくれ」
「何です?」
「昨日、神殿の者も同じことを言った。だが外せなかった」
「留め具が壊れてる?」
「違う。触れた瞬間、セレナが苦しみ始めた」
ノアはペンダントをもう一度見る。
「……なるほど」
ノアは《魔力感知Ⅰ》へ意識を集中させた。ペンダントから細い魔力の流れが伸び、首から胸、肩、腕へと繋がっている。
「繋がってる」
「何が?」
「呪いです。ペンダントから娘さんの身体に入ってる」
根。その言葉が一番近かった。黒い魔力が身体の中へ何本も伸び、絡みついている。無理やり引き剥がせば。
「たぶん痛いです」
「外すことはできるのか?」
「分かりません。先に少し浄化してみます」
領主が頷いた。ノアはベッドから少し距離を取った。
「苦しみ始めたら止めます」
「頼む」
右手を向ける。まずは身体。ペンダントそのものではない。右腕の黒い筋。
「《浄化》」
白い光が広がった。
「……!」
部屋にいた人間たちが息を呑む。黒い筋。薄くなる。セレナの右手首、黒、灰色。そして一部。肌色へ戻る。
「消えた……」
領主が呟いた。「まだです」
ノアは止めずに《浄化Ⅲ》を続け、腕からゆっくり上へ向かって黒い筋を削る。少しすると、セレナの呼吸が深くなった。
「お嬢様……」
使用人の一人が泣きそうな声を出した。効く。
「これなら――」
治せる。そう思った瞬間、《魔力感知Ⅰ》で見ていたペンダント内部の反応が大きく動いた。
「え?」
青い宝石が黒く染まる。直後、セレナの胸元から黒い筋が一気に広がった。
「ぐっ……!」
セレナの身体が跳ねた。
「セレナ!」
「触らないで!」
ノアは領主を止めた。黒い筋、首、肩、右腕。さっき消した場所へ。戻る。
「戻ってる?」
違う。戻っているだけではない。さらに、増えている。
「《浄化》!」
白い光を強め、腕と胸へ広がる呪いを押さえ込む。
「う……ぁ……」
セレナ。苦しそう。ノアは歯を食いしばった。
「元を止めないと駄目だ」
原因はペンダントだ。ノアはそこへ右手を向けた。
「《浄化》!」
白い光が宝石へ当たる。その瞬間――
「――っ!」
次の瞬間、何かが逆流した。右手に焼けるような痛みが走る。
「ノア?」
領主の声は聞こえる。それでも返事ができない。右手には黒い筋が走っていた。
「……俺?」
手の甲に浮かんだ黒い筋が、ものすごい速さで腕を這い上がってくる。
「ノア君!」
「大丈夫……じゃない」
呪いが《浄化》を逆流するように、こちらへ流れ込んできた。胸元の《聖護の首飾り》が白く光り、《呪耐性Ⅰ》が身体への侵入を抑える。ノアはすぐに《浄化循環》を強めた。
「消えろ」
身体の中、白い魔力、右腕、黒い筋。ぶつかる。少し、止まった。
「よし」
消せる。なら、まだやれる。
「もうやめろ!」
領主。ノアの腕を見ている。
「君まで同じものが!」
「まだ娘さんに入ってる」
「それでも!」
「今止めたら、さっきより増えたままです」
セレナ、黒い筋、首、顔。少し、伸びている。
「そこだけ」
顔や頭へは絶対に入らせない。理由は分からないが、強烈に嫌な予感がした。
「《浄化》!」
ノアはもう一度セレナを見た。首を走っていた黒い筋へ白い光を押し込むと、顔へ伸びていた筋の動きが止まった。
「……っ!」
自分の右腕も痛む。黒い筋はすでに肘を越えていた。
「ノア!」
「大丈夫……」
嘘だ。全然大丈夫ではない。《魔力循環Ⅱ》で一つ目に自分の《浄化循環》、二つ目にセレナへ向けた《浄化Ⅲ》を維持する。魔力の減りが速い。
「腕輪」
《蓄魔の腕輪》。貯めた魔力を引き出す。一気に。身体。満ちる。
「まだ……」
右腕へ入った呪いは自分へ《浄化》を使って消し、同時にセレナの首へも《浄化》を流す。《魔力循環Ⅱ》があるから、二つを同時に維持できる。
「もう十分だ! 止めてくれ!」
「あと少し」
セレナの顔に浮かんだ黒い筋が戻り、首の辺りから少しずつ薄くなっていく。
「ここまで」
せめて命にすぐ関わりそうな場所だけでも先に消す。ノアはそこへ意識を集中した。
「《浄化》!」
白い光が強くセレナの首を包み、黒い筋を少しずつ鎖骨から胸へ押し戻していく。
「……よし」
呼吸、安定、顔、黒い筋。ない。
「今日は……これで……」
言った瞬間、足、力。抜けた。
「ノア!」
床へ近づいたところで、誰かが受け止めた。右腕は真っ黒で、胸も苦しい。それでも《浄化循環》はまだ動かせる。
「自分の……呪い……」
消さないといけない。そう思っても魔力がうまく流れない。視界が暗くなり、周囲の声も遠のいていく。
「医師を呼べ!」
「すぐに!」
「ノア君! 聞こえるか!」
聞こえる。だが、返せない。最後に見えたのは、ベッドの上で少しだけ穏やかになったセレナの顔だった。
「……少しは……効いた」
それだけ確認して。ノアの意識は途切れた。




