第23話 見えない魔力
第四地下区画の暗闇から、「カツ」と乾いた音が響いた。ノアは《月銀の剣》を構えたまま動かず、携帯灯の光が届く範囲を慎重に見回す。姿は何も見えない。それでも《危険察知Ⅰ》の反応は消えず、身体の奥がざわついたままだった。
「いる」
右――いや、違う。今度は正面だ。《危険察知Ⅰ》の反応する方向が一定しない。第三地下区画で戦った《呪影獣》なら、姿が見えなくても床についた足跡や黒い血から位置を探れたが、今回はそれすらない。再び「カツ」と音がして、今度は左から聞こえた。ノアは《危険察知Ⅰ》へ意識して魔力を流す。同時に、身体の中では《魔力循環Ⅱ》による別の流れが《浄化》を巡り続けていた。《浄化》で呪いを防ぎながら、《危険察知Ⅰ》で敵を探る。この二つを同時に維持できるようになったことが、今は大きな助けになっている。次の瞬間、背筋を強い悪寒が走った。
「後ろ!」
ノアは《俊足Ⅱ》を発動し、迷わず前へ跳んだ。その直後――
ブンッ!
長い黒い腕が、さっきまで頭があった場所を横切った。
「……!」
振り返ると、そこにいた。背丈はノアの倍近い。人のように二本脚で立っているが、身体の比率がおかしい。細い胴体に長い脚、そして膝より下まで届く異様に長い腕。顔には目も鼻もなく、大きく裂けた口だけがあった。
「気持ち悪いな」
「ァ……」
口が開いた。
「ァァァ……」
低い声は人間のものに似ていた。ノアは剣を握り直す。保管番号四一一、《黒》《封印損傷》。おそらく、こいつが保管室の中から出てきたのだ。
「黒指定か」
これまで赤指定は浄化してきたが、黒指定には手を出していない。だが今回は、向こうから出てきた。
「逃げようかな」
一瞬、本気で逃げることを考えた。第四地下区画の黒指定で、相手の能力も分からない。わざわざ戦う理由はない。ただ、出口へ戻るには目の前の怪物がいる通路を抜けなければならなかった。
「……邪魔」
なら、倒すしかない。
◇
怪物が消えた。
「え?」
いや、消えていない。それどころか速い。《危険察知Ⅰ》が右からの攻撃を告げた。
「っ!」
ノアは剣を上げた。
ガンッ!
長い腕の爪が《月銀の剣》へぶつかる。
「重い!」
《身体強化Ⅱ》で腕、肩、腰へ力を乗せて押し返す。怪物が一歩下がった。今だ。《剣術Ⅱ》で首を斬る。
ザシュッ!
「……硬っ」
刃は入ったが浅い。黒い皮膚の下から滲んできたのは血ではなく、さらに黒い靄だった。
「やっぱり呪いでできてる?」
怪物が口を大きく開き、「ァァァァッ!」と濁った声を上げた。
怪物の左右の腕が同時に動いた。
「うわっ!」
ノアは後ろへ《俊足Ⅱ》。一撃、二撃、三撃と長い腕が次々に飛んでくる。攻撃が壁や床を叩き、石が砕ける。
「速いし強い」
正面から打ち合う相手ではない。ノアはいったん距離を取り、《危険察知Ⅰ》へ意識を集中させた。反応は右、次の瞬間には左へ移る。
「……分かりにくい」
怪物が動くたびに《危険察知Ⅰ》が示す方向も変わる。速すぎて、危険を察知できても相手の位置そのものを追い切れない。
「何かないか」
周囲には石壁と鉄扉、そして黒い霧がある。水を撒いても相手の姿は見えているため、隠れているわけではない。問題は速さだ。ノアは無理に攻撃せず、避けながら観察し、距離を取り、また攻撃をかわした。
「動く前に分かれば……」
危険が迫ってからでは遅い。相手が動く前に、何をしようとしているのかを読む必要がある。
「……魔力?」
黒い怪物をよく見ると、攻撃の直前だけ身体を覆う黒い靄が一瞬、腕へ集中している。
「今」
怪物の右腕を覆う黒い靄が濃くなった。次の攻撃は右から来る。そう判断したノアは、相手が動くより先に身体をずらした。
ブンッ!
「やっぱり」
左腕の傷口から靄が漏れる。
「左」
避ける。
「見れば分かる」
ただ、周囲は暗い。怪物の身体も霧も黒いため、ひどく見えにくかった。
「もっと分かればいいのに」
ノアは《魔力循環Ⅱ》を意識した。自分の魔力が《浄化》《俊足》《身体強化》へどう流れ、身体のどこへ送られているのか。今ではかなり細かく分かる。
「自分だけ?」
相手にも魔力はある。
「感じられないかな」
怪物が動く。ノアは攻撃を避けながら意識を外へ向けた。探るのは自分の魔力ではなく、周囲と怪物の魔力だ。
「……」
何も分からない。
「もう一回」
攻撃を避けながら意識を集中し、怪物を覆う黒い靄へ狙いを定める。
「これも魔力……?」
ほんの少しだけだが、冷たい感覚があった。第四地下区画に満ちる呪い。その中で、怪物の周囲だけ、さらに濃い。
「そこ?」
目ではなく魔力の流れを探す。怪物は壁際へ走り、暗闇へ姿を消した。だが――
「……いる」
左奥に冷たい魔力の塊を感じ、ノアは剣を構えた。同時に《危険察知Ⅰ》がぞわっと反応する。左奥の魔力が、一気にこちらへ近づいてきた。
「来る!」
ノアが《俊足Ⅱ》で横へ跳んだ直後、怪物が暗闇から飛び出してきた。
「見えた」
今までとは違う。目で追っているのではなく、相手の中にある何かを感じ取っている。
◇
怪物が走り、ノアも追う。その最中、黒い魔力が腕へ集まっていくのがはっきり分かった。
「右」
攻撃の前兆が分かる。ノアは避けながら《身体強化Ⅱ》と《剣術Ⅱ》を重ね、横腹を狙った。
ザンッ!
「ァァァッ!」
斬れる。だが傷口へすぐ黒い靄が集まり、塞ごうとしていた。
「《浄化》!」
ノアは白い光を傷口へ流し込み、集まってきた黒い靄を消した。
「ァァァァァッ!」
怪物が暴れる。ノアは離れる。
「再生は同じ」
第三地下区画で戦った呪影獣や呪骨猟犬も、目の前の怪物も、呪いで身体を維持している。なら戦い方は同じだ。斬ってから浄化する。ただし相手は強い。先に位置を読まなければならない。ノアは右脚へ集まる魔力を見た。
「来る」
怪物が踏み込んだ時には、ノアはすでにその軌道から外れていた。
「遅い」
さっきまでとは逆だった。これまでは攻撃が始まってから反応していたのに、今は相手へ魔力が集まった時点で次の動きが分かる。そこへ《危険察知Ⅰ》の警告まで重なり、攻撃の兆候を二重に捉えられていた。
「これ、便利」
怪物が腕を振る。ノアはかわし、空いた脇へ《身体強化Ⅱ》で踏み込み、《剣術Ⅱ》を使った。
ザシュッ!
右腕を狙い、深く斬り込む。
「《浄化》!」
腕の付け根を覆う黒い呪いが白い光に消され、怪物の右腕が落ちた。
「ァァァァァァッ!」
「一つ」
怪物、後退、魔力、左腕。
「次」
怪物が突いてくる。ノアはそれを避け、《月銀の剣》で左膝を斬った。そのまま《浄化》を流し込む。
「二つ」
怪物が膝をつく。
「終わり」
怪物の首へ魔力が集まっていく。
「……?」
違う。危険なのは口だ。そこに大量の呪いが集まっている。
「まずい」
ノアはすぐ横へ跳んだ。怪物が大口を開き、通路いっぱいに黒い霧を吐き出す。
「うわっ!」
ノアは《俊足Ⅱ》で走り、追ってくる霧から距離を取る。《浄化循環》を強め、《聖護の首飾り》で呪いを弱めた。
「《浄化》!」
ノアは白い光を身体の外へ広げ、押し寄せる黒い霧を消していった。
「それも呪いなら」
ノアの方が相性がいい。
「《浄化》!」
白い光を通路いっぱいに広げ、黒い靄を削っていく。やがて怪物の姿が見えたが、まだ動けないようだった。
「今!」
《身体強化Ⅱ》と《俊足Ⅱ》を使って一気に距離を詰め、《剣術Ⅱ》で首を一閃した。
ザンッ!
深い。さらに――
「《浄化》!」
傷口を覆っていた黒い呪いが白い光に消されると、怪物の首が落ちた。
◇
身体が倒れる。
ドンッ。
ノアは剣を構えたまま、すぐには近づかなかった。一分ほど待ちながら《危険察知Ⅰ》の反応を確かめると、警告は少しずつ弱くなっていった。
「死んだ?」
怪物の身体から黒い靄が少しずつ抜け、皮膚や骨が崩れて灰になっていく。そして、その中から何かが転がり出た。
「魔石」
魔石は《呪影獣》のものより少し大きいかもしれない。色は濃い紫で、内部には黒い線が走っていた。
「高そう」
まず《浄化》で表面の黒い汚れを消す。だが、魔石の中心には黒いものが残っていた。
「……呪われてる?」
《危険察知Ⅰ》の反応は弱い。それでも、確かに何かがある。
「普通の魔石じゃないな」
ノアは直接触れず、もう一度《浄化》を使った。
「《浄化》」
白い光を魔石へ流すと、今度は内部の黒い線が動いた。
「やっぱり」
呪いはまだ残っている。
「だったら」
魔石へ《浄化》を重ねる。一回、二回、三回と続けるうちに、中から黒い靄が少しずつ漏れ出した。
「結構強い」
呪いは強いが、赤指定呪物ほどではない。自分の魔力にもまだ余裕があり、《蓄魔の腕輪》にはさっき試しに貯めておいた魔力が少し残っている。
「使ってみるか」
腕輪、意識、蓄えていた魔力。身体へ流れる。
「おお」
少し、回復。
「便利」
その魔力へ右手を向ける。
「《浄化》!」
白い光が魔石を包むと、内部の黒い線が大きく揺れた。そして――
パキッ。
音を立てて黒い靄が一気に噴き出し、そのまま空気へ溶けるように消えた。
「終わり」
紫色だった魔石は、透明に近い薄青色へ変わっていた。内部では小さな光がゆっくり動いている。そこへ文字が浮かんだ。
────────────
《魔導感覚の核》
等級:希少級
技能:《魔力感知Ⅰ》
────────────
「技能」
ノアはわずかに目を見開いた。続いて核から青い光が溢れ、身体の中へ入ってくる。
────────────
《魔力感知Ⅰ》を習得しました。
────────────
「……魔力感知」
その瞬間、世界。少し、変わった。
「うわ」
目で見えるわけではないが、感覚で分かる。胸の中には二本の魔力の流れがあり、一つは《浄化循環》、もう一つは戦闘用だ。腕につけた《蓄魔の腕輪》にも、少量の魔力が残っている。
「分かる」
携帯灯、魔石、小さな魔力、壁、鉄扉。その向こう。
「……ある」
第四地下区画の左右には保管室が並んでいる。その中から、大きいもの、小さいものを含め、いくつもの魔力反応を感じた。
「すごいな」
それが危険かどうかまでは分からない。《危険察知Ⅰ》とは違い、《魔力感知Ⅰ》で分かるのは、そこに魔力が存在するということだけだ。
「こっちが危険察知」
ぞわり。
「こっちが魔力感知」
右側の扉の中から、濃い魔力を感じる。
「別物だ」
かなり便利な技能だ。魔物や呪物、魔道具など、魔力を持つものなら探せる可能性がある。
「外でも使えるな」
使い道は倉庫の中だけではない。森での探索、隠れている魔物、魔法の察知など、いろいろな場面で役立ちそうだった。
◇
ノアは怪物が出てきた保管室へ戻った。
────────────
《保管番号四一一》
《黒》
《封印損傷》
────────────
今度は内部を《魔力感知Ⅰ》で探る。
「……」
反応は強い。まだ何かが残っている。
「怪物だけじゃない?」
ただし、問題は残っている。壊れた扉をわざわざ開けて中へ入る必要はない。そこから怪物が出てきたばかりだ。
「黒は後」
今、その判断が一番いい。ノアは怪物が残した灰を調べる。もう魔石はない。ほかに売れそうなものもない。
「でも技能もらったし」
十分どころか、かなり大きな成果だ。《魔力感知Ⅰ》を得ただけでなく、魔石を浄化した結果として新しい技能まで手に入った。
「今日は当たり」
《魔導感覚の核》そのものは技能を継承した後も。残っている。魔道具素材として。価値。ありそう。
「これも売れるかな」
収納鞄へ。
◇
第四地下区画から戻る途中も、ノアは《魔力感知Ⅰ》を試し続けた。今度は左側へ意識を向ける。
「小さい」
右側には赤指定。
「大きい」
さらに奥には黒指定がある。
「……すごいのあるな」
反応はかなり遠い。それでも、大きく黒い魔力をはっきり感じる。おそらく例の対象だろうが、少なくとも今触るようなものではない。
「知らなかった方が良かったかも」
少しだけ惜しいとも思ったが、先へ進むつもりはなかった。第五、第六と、まだ下の階層が残っている。ただ――
「そろそろいいかな」
第三、第四地下区画まで、かなり深く潜った。その間に装備も技能も手に入れた。《俊足》、《魔力循環》、《呪耐性》、《蓄魔の腕輪》、そして《魔力感知》。最初はただの古い鍵から始まったのだ。ここまでで十分だった。
「次来るなら」
もっと強くなってからでいい。《浄化Ⅳ》を覚えるか、あるいは冒険者としてさらに上へ進んでからでも遅くない。今ここで第四地下区画をすべて攻略する必要はなかった。入口で振り返ると、黒い霧の向こうには赤指定と黒指定の保管室がまだ大量に残っている。
「まだいっぱいあるな」
少し惜しい気もしたが、それでいい。まだ残っているから、また来る理由になる。
「もう一回だけ」
次に来た時は、第四地下区画をもう少し調べる。それが済んだら、しばらく第七呪物保管庫から離れるつもりだった。ノアは階段を上りながら、次にここへ来る時、自分がどれくらい強くなっているのかを少しだけ楽しみにしていた。




