第21話 二つの流れ
翌朝、ノアは《第七呪物保管庫》へ向かった。昨日受けた《オーク集落掃討》では、《浄化》を身体の中へ循環させたまま、他の技能へ魔力を流す練習をした。最初は剣を振るだけで《浄化》が途切れていたが、最後には三つの流れを九秒ほど維持できるようになっている。ただし、九秒だ。第四地下区画で何かに襲われた場合、戦闘が九秒で終わる保証などない。
「だから今日は三階」
ノアは歩きながら、自分の身体へ薄い《浄化》を巡らせる。胸から腹へ。腰から脚へ。背中を通って肩、腕。そして再び胸へ。もう、この程度ならほとんど意識しなくても続けられるようになった。その流れを保ったまま、《俊足Ⅱ》へ少しだけ魔力を送る。足取りが軽くなる。二つなら問題ない。次に《身体強化Ⅱ》。
「……まだきついな」
三つ目を加えた途端、流れが不安定になる。昨日よりはましだが、長時間は無理だった。ノアは《身体強化Ⅱ》への魔力を止めた。
「三階なら、失敗してもすぐ死なない」
第四地下区画で練習する気はない。前回、一歩入っただけで《危険察知Ⅰ》が強く警告した場所だ。失敗する可能性があることを、わざわざ一番危険な場所で試す必要はない。第三地下区画の赤指定区域。そこなら危険ではあるが、今のノアなら撤退できる。失敗するなら、逃げられる場所ですればいい。
◇
《第七呪物保管庫》へ着いたのは昼前だった。丘の裏へ回り込み、黒鉄の鍵を使って入口を開ける。鉄扉の奥から、冷たい空気が流れてきた。以前なら、この空気だけでも嫌な感覚があった。今は。
「平気」
《聖護の首飾り》。《呪耐性Ⅰ》。そして身体の中を巡っている《浄化》。三つが重なっている。第一地下区画。第二地下区画。そのまま通り過ぎる。第三地下区画へ続く階段を降りても、身体にほとんど変化はなかった。以前はここへ来るだけで、《浄化》を何度も外へ放たなければならなかった。
「ずいぶん変わったな」
第三地下区画へ入る。薄暗い石造りの通路。壁際には古い魔石灯の残骸があり、天井には黒ずんだ染みが残っている。それでも、以前ほど空気が重くない。ノア自身が変わったのだ。《月銀の剣》を抜く。今日は呪物を大量に持ち帰ることが目的ではない。まず。《魔力循環Ⅰ》を鍛える。そして、第四地下区画でも《浄化循環》を維持できるようにする。
「行こう」
前回とは別の通路へ入った。
◇
第三地下区画には、まだ未探索の場所がかなり残っていた。赤指定区域へ入ってからも、左右には封印された保管室がいくつも並んでいる。
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《保管番号三九一》
《赤》
《接触禁止》
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通過。
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《保管番号三九四》
《赤》
《夜間開封禁止》
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「夜じゃないけど、やめとこ」
今日は呪物を開けるのが目的ではない。さらに奥。廊下が曲がっている。ノアが角へ近づいた時だった。ぞわっ。《危険察知Ⅰ》。
「……いる」
ノアはすぐ壁際へ寄り、《隠密Ⅰ》へ魔力を流した。《浄化循環》と《隠密Ⅰ》の二つは、どちらも安定している。気配を抑えたまま、ゆっくり角から覗いた。
「……骨?」
通路の奥を何かが歩いていた。犬――いや、犬の骨だ。肉はほとんど残っておらず、黒ずんだ骨が四本の脚を形作り、その隙間を黒い靄が埋めている。頭部だけは大型犬より一回り大きく、長い牙が並んでいた。一体だけだ。
「……いや」
奥からもう一体出てくる。二体。片方が床へ鼻先を近づけた。肉も鼻もないのに、匂いを嗅ぐような動き。
「見つかるかな」
ノアは動かない。《隠密Ⅰ》。魔力を少し強める。足音、呼吸、装備が擦れる音。抑える。だが――
「カタ……」
骨の犬が顔を上げた。
「カタカタカタ……!」
「駄目か」
二体とも。こちらを見る。
「ガァァァァッ!」
骨の顎が開いた。走る。
「速い!」
ノアは《隠密Ⅰ》を切り、代わりに《俊足Ⅱ》を使った。《浄化循環》との二つを維持したまま横へ避ける。一体目の飛びかかりをかわした直後、すぐ後ろから二体目が迫った。
「っ!」
《危険察知Ⅰ》。三つ目。魔力が乱れる。胸を巡っていた《浄化》が、一瞬だけ弱くなった。
「まず――」
爪を避けきれず、左腕を切り裂かれた。
ガッ!
「痛っ!」
《影隠しの外套》を裂き、爪が腕をかすめる。浅い。しかし。
「……?」
傷口から黒い筋が皮膚の内側へじわりと広がっていく。
「呪い?」
すぐに《俊足Ⅱ》への魔力を切る。全身の《浄化循環》を強めた。
「《浄化》」
身体の中の白い力を腕へ集めると、黒い筋の広がりが止まり、少しずつ消えていった。
「やっぱり」
第二種呪染防護。資料に書かれていた。侵入した呪いを継続して排出、もしくは無害化する。今。《浄化》が弱くなった瞬間。呪いが入った。
「止めたら駄目なんだ」
骨犬が再び来る。
「分かったよ」
ノアは剣を構え直した。
◇
二体のうち片方だけなら、それほど苦戦しないかもしれない。だが同時に相手をするなら、一体を見ている間にもう一体が横へ回る。《危険察知Ⅰ》も《俊足Ⅱ》も必要だし、攻撃するなら《身体強化Ⅱ》と《剣術Ⅱ》も使いたい。全部を同時に扱う必要がある。
「多すぎ」
今までは。一つずつ切り替えていた。危険を感じたら《危険察知》。避ける時は《俊足》。攻撃する瞬間に《身体強化》と《剣術》。だが、今は《浄化》も絶対に切れない。一体目。右。二体目。左。
「ガァッ!」
「来る」
《危険察知Ⅰ》。右が先。ノアは《俊足Ⅱ》へ切り替える。その瞬間、危険察知が弱くなる。
「っ!」
右からの攻撃を避けた直後、左からもう一撃が来た。気づいた時には近く、ノアは剣で受け止める。
ガンッ!
「重っ!」
骨だけとは思えない力。ノアの身体が後ろへ押される。その間にも。《浄化循環》。
「消えるな」
胸から腹、脚、背中、腕へと魔力を巡らせ、その流れを維持する。一体がまた飛びかかってきたため、今度は《身体強化Ⅱ》で横へ押し返し、《剣術Ⅱ》で前脚を狙った。
ザンッ!
骨を一本斬る。
「やった」
落ちた骨。しかし、黒い靄。伸びる。切断された脚と身体を繋ぐ。
「戻るのかよ」
前回の呪影獣と同じ。呪いで身体を維持している。
「《浄化》!」
白い光を傷口へ集中させると黒い靄は消えた。だが、脚の感覚は戻らない。
「一緒だ」
斬ってから浄化すれば倒せる。そう判断した瞬間、背後から気配が迫った。
ぞわっ!
「しまっ――」
二体目の攻撃には間に合わない。ノアは身体を捻ったが、牙が肩を掠めた。
ガリッ!
「ぐっ!」
《黒鉄の胸甲》の端。噛まれる。胸甲そのものは耐えた。だが、隙間。牙が少しだけ肩へ届く。黒い筋。また。
「離せ!」
《身体強化Ⅱ》。剣。骨犬の頭部へ叩きつける。
ガンッ!
離れる。ノアも後退。
「また入った」
ノアは《浄化循環》を強め、身体に浮かんだ黒い筋を消していった。
「……これじゃ駄目だ」
怪物は倒せる。だが、何度も。《浄化》へ戻さなければならない。もし。第四地下区画なら、一瞬の途切れ。もっと大量の呪いが入る。
「ずっと《浄化》しながら……」
一体が走る。ノアも走る。
「他の技能を……」
《俊足Ⅱ》と《浄化循環》の二本までは問題ない。そこへ《危険察知Ⅰ》を加えて三つにすると、魔力の流れが乱れた。
「違う」
一つの魔力を三方向へ分けようとするから、流れが絡まるのだ。
「だったら」
ノアは走りながら胸の中の魔力を意識した。今までは一つの大きな流れから必要な技能へ枝分かれさせていた。
「分けるんじゃなくて」
《浄化》。胸、腹、脚、背中、腕、胸。
「これは、これだけ」
《浄化》の流れを一つの輪として完全に閉じる。外へ出さず、他の技能にも回さない。《浄化》だけを身体の中へ巡らせ続ける。
「もう一個」
胸の奥に、これまで《浄化》へ流していた経路とは別の魔力を作る。身体の中央から脚へ送り、《俊足Ⅱ》を起動した。
「……!」
できた。《浄化》は止まっていない。それでも《俊足Ⅱ》を使える。
「二本」
骨犬。正面。
「ガァッ!」
敵が来る。戦闘用の魔力を《俊足Ⅱ》から《危険察知Ⅰ》へ切り替えた。
「右」
分かる。《浄化》。まだ巡っている。
「これだ」
◇
一体が右、二体目が後ろから来る。ノアは《浄化》の流れだけは固定し、絶対に切らない。もう一つの戦闘用の流れで、《危険察知Ⅰ》により方向を読み、《俊足Ⅱ》で移動し、《身体強化Ⅱ》で踏み込み、《剣術Ⅱ》で斬る。
「……っ!」
今までとは違う。技能を切り替えても、《浄化》の流れがほとんど揺れない。
「できる!」
骨犬。右脚。
ザンッ!
斬った直後、すぐ右手を向ける。
「《浄化》!」
これは身体の内側を巡らせている流れとは別だ。外へ放つ《浄化》を使うと少しだけ乱れる。それでも、身体の中の循環そのものは残っている。
「もっと」
二体が。同時に来る。
「ガァァッ!」
《危険察知Ⅰ》が正面と左後ろを示す。《俊足Ⅱ》で前へ出て一体目とすれ違い、《身体強化Ⅱ》で腰、肩、腕へ力を乗せ、《剣術Ⅱ》で首を斬った。
ザンッ!
骨。半分。
「《浄化》!」
白い光で黒い靄を削っていると、背後からもう一体が迫った。《危険察知Ⅰ》が知らせる。ノアがしゃがむと、牙が頭上を通過した。
「そこ」
《身体強化Ⅱ》と《剣術Ⅱ》を重ね、腹部の骨を狙う。
ザンッ!
二本、三本と脚を斬るうち、骨犬の身体が崩れていく。
「《浄化》!」
黒い靄が消え、骨犬はもう立ち上がれなかった。
「一体」
ノアは止まらない。魔力の流れを二つに分け、一つは全身を守る《浄化》へ、もう一つはその時必要な戦闘技能へ送る。
「これなら」
頭が。混乱しない。川を。三本も四本も作る必要はない。一つは。ずっと同じ場所を回る。もう一つだけ。動かす。
「簡単だ」
そう思った瞬間、身体の中で何かがすっと整った。
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《魔力循環Ⅰ》の熟練度が規定値に到達しました。
《魔力循環Ⅰ》は《魔力循環Ⅱ》へ成長しました。
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「……上がった」
魔力の流れが変わった。今までは二本の流れを意識し、必死に維持していたのに、それが急に自然になる。一つは《浄化循環》として身体の中を半ば自動的に回り続け、もう一つは戦闘用として自由に動かせる。
「すごいな」
残った骨犬。
「ガァァッ!」
怪物が突進してくる。ノアは笑わず、油断もしない。ただ、以前よりずっと楽に対応できていた。《危険察知Ⅰ》の反応へ意識を向ける。
「右」
《俊足Ⅱ》で半歩避け、《身体強化Ⅱ》で踏み込み、《剣術Ⅱ》で首を斬った。
ザンッ!
「《浄化》」
白い光に黒い靄が消されると、骨犬の頭部が落ち、そのまま身体も崩れた。
◇
静かになった。ノアはすぐに剣を下ろさなかった。《危険察知Ⅰ》。周囲。反応なし。
「終わった」
そこでようやく、ノアは息を吐いた。身体の中では《浄化》がまだ巡っている。戦闘が終わっても循環は止まっていなかった。
「《魔力循環Ⅱ》」
確認。
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《魔力循環Ⅱ》
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「二つ同時に流せる」
ノアは完全に理解した。《浄化》を一つの流れとして固定し、もう一本を他の技能へ回す。それなら第四地下区画でも戦える可能性がある。足元の崩れた骨の中には、小さな魔石が一つ落ちていた。
「ある」
もう一体。そちらにも。
「二個」
灰黒色。第三地下区画の魔物。前回の《呪影獣の魔石》ほど大きくはない。それでも、普通のオークや牙猪の魔石より。明らかに質が良さそうだ。
「これも売れるな」
《遠征用収納鞄》へ。二つ。
「戦って強くなって、金も増える」
悪くない。いや、かなりいい。
◇
ノアは一度、第三地下区画の入口近くまで戻った。水を飲み、少し食べて、魔力の回復を待つ。すでに戦って怪我もしているのだから、このまま第四地下区画へ進む必要はない。今日は帰るという選択もできた。
「……」
だが、試したい。《魔力循環Ⅱ》。今なら、どこまで行けるのか。
「入口だけ」
無理なら、戻る。いつも通り。ノアは第三地下区画の奥へ向かった。
◇
石板。持ち上げる。その下には、階段。
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《第四地下区画》
《重度呪染区域》
《赤・黒指定保管区》
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以前はここまで来て一歩踏み込んだだけで、《危険察知Ⅰ》が「すぐ戻れ」と叫ぶように警告した。
「今回は」
《聖護の首飾り》、《呪耐性Ⅰ》、《浄化Ⅲ》、《魔力循環Ⅱ》。身体の中では一つ目の流れを《浄化》へ固定し、もう一つを《危険察知Ⅰ》へ回す。
「行く」
一段、二段、三段と冷たい。だが、前回より。ずっと楽。十段。階段の終わり。黒い霧、第四地下区画、一歩。入る。
「……」
ぞわりと《危険察知Ⅰ》が反応した。ただし、前回ここで感じた「すぐ戻れ」と叫ぶような強い警告に比べれば、今はかなり弱い。
「……平気だ」
頭痛はなく、胸の重さもほとんどない。身体の中では《浄化》がずっと巡っている。外から入ってくる呪いは、まず《聖護の首飾り》が弱め、残ったものを《呪耐性Ⅰ》で耐える。それでも身体へ入り込んだ分は、《浄化循環》が消していた。
「第二種」
ノアは少しだけ笑った。
「できてる」
ノアは一歩、二歩、三歩と慎重に前へ出た。問題なく歩ける。携帯灯を掲げると、第四地下区画の通路は第三地下区画より広く、左右には鉄扉が並んでいた。まず一つ目の扉を見る。
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《保管番号四〇一》
《黒》
《開封厳禁》
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「いきなり黒」
今は開けない。そこまで馬鹿ではない。ノアは隣の保管室へ目を向けた。
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《保管番号四〇二》
《赤》
《接触禁止》
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さらに――
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《保管番号四〇三》
《黒》
《破損時、区画封鎖》
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「……怖」
第三地下区画の赤指定は、それでもまだ扱える物だった。だが、ここに並ぶ黒指定は明らかに違う。
「今日は見るだけ」
通路を少しずつ進む。十歩、二十歩、三十歩と歩きながら《浄化》を維持するが、今のところ問題はない。
「行ける」
ようやく第四地下区画を探索できる。ただし奥は暗く、携帯灯の光が届く先には赤や黒の札がついた保管室が大量に並んでいた。
「……」
ノアはしばらく第四地下区画を見渡した。第三地下区画へ初めて来た時と同じように、ここからまた探索が始まる。以前は入口に立つことさえできなかった場所に、今は普通に立っていられる。それだけでも、自分が強くなったことが分かった。
「入れた」
まだ何も手に入れてはいない。それでも今日は十分だった。ノアは左右に並ぶ赤指定と黒指定の保管室を見渡した。
「……次は、どれからやろう」




