第19話 見えない獣
ぺた。ぺた。何もいないはずの通路から、足音だけが近づいてくる。ノアは《月銀の剣》を両手で構えたまま、動かなかった。第三地下区画の深部。周囲に並ぶのは赤指定の呪物を収めた保管室ばかりだ。空気には薄い呪いが漂い、《聖護の首飾り》と身体の中を巡らせている《浄化》がなければ、立っているだけでも少しずつ侵される。そんな場所で、姿の見えない何かがこちらへ向かっている。
「透明なのは面倒だな……」
ノアは《魔力循環Ⅰ》を使い、巡らせていた魔力の一部を《危険察知Ⅰ》へ流した。ぞわり。右前。まだ遠い。足音だけを頼りにするより、ずっと分かりやすい。ぺた。ぺた。少しずつ速くなる。
「来る」
危険の方向が変わった。右前から、正面。次の瞬間。ノアは《俊足Ⅱ》へ魔力を切り替え、横へ跳んだ。ブンッ!何も見えない空間から、何かが振り抜かれた。外套の端が切れる。
「っ!」
ノアはそのまま距離を取った。
「そこ!」
反撃。《月銀の剣》を横へ振る。手応え。あった。何か柔らかいものを斬った。だが。
「ギャアアッ!」
姿は見えない。悲鳴だけが通路へ響いた。
「斬れるならいい」
完全に実体がないわけではない。それなら倒せる。そう思った直後。ぞわっ!今度は背後。
「速い!」
振り返る余裕はない。ノアは前へ飛んだ。背中のすぐ後ろを、鋭い何かが通り抜ける。着地し、振り向く。いない。
「……見えないの、やっぱり嫌だな」
自分が《隠密Ⅰ》で相手の背後へ回る時には便利だと思う。敵にやられると。かなり面倒だった。
◇
ノアは無理に剣を振らなくなった。見えない相手へ適当に攻撃しても、体力を消耗するだけだ。まず位置を知る。《危険察知Ⅰ》へ魔力を流す。右。後ろ。また右。
「動き回ってる」
足音は聞こえる。だが、地下通路では反響する。位置がずれる。
「音だけじゃ駄目か」
ノアは周囲を見る。石床。埃。いや。
「埃……」
思いついた。右手を床へ。
「《浄化》」
白い光が広がり、周囲の床だけを綺麗にする。埃も。砂も。古い汚れも。全部消した。そこへ《遠征用収納鞄》から水袋を取り出す。
「もったいないけど」
少量。床へ撒く。石床の上に薄く水が広がった。ぺた。足音。ノアは水面を見る。
「……」
小さな波紋。一つ。次。何もいない場所に、水の跡だけがついた。
「見つけた」
四つ足。人間ではない。前脚。後脚。細長い身体。そして。速い。水面に残る足跡が一気にノアへ向かってきた。ぞわっ!
「そこ!」
横へ避ける。すれ違う瞬間。《身体強化Ⅱ》。《剣術Ⅱ》。魔力を一気に切り替える。ザシュッ!
「ギャアアッ!」
今度は深い。目には見えない。だが、空中から黒い血のようなものが飛んだ。
「血は見えるんだ」
床へ落ちる。黒。そこから。輪郭が少しだけ浮かんだ。
「……狼?」
いや。もっと大きい。大型犬より一回り大きく、四肢は異様に長い。姿は透明なままだが、傷口から漏れ出す黒い靄だけが身体の形を教えてくれる。怪物が低く唸った。
「グルルル……」
「分かれば戦える」
ノアは剣を構え直した。
◇
怪物が走る。水。足跡。《危険察知Ⅰ》。そして。《俊足Ⅱ》。ノアは以前よりずっと早く攻撃へ反応できた。真正面から避ける。すれ違う。一撃。ザシュッ!今度は前脚。傷。だが。
「……塞がってる?」
さっき斬った胴体の傷。黒い靄が集まり、少しずつ塞がっていた。
「また再生するやつか」
第三地下区画で倒した黒い怪物と似ている。呪いで身体を維持しているのだろう。剣だけでは。時間がかかる。
「なら」
怪物が再び走る。ノアは避けた。今度は追いかける。《俊足Ⅱ》。速い。だが。ノアも以前とは違う。透明な怪物の足跡を追う。前脚を踏み込む位置。そこへ。剣。ザンッ!手応え。怪物が崩れる。
「《浄化》!」
すぐに右手。傷口があるはずの場所へ、白い光を叩き込んだ。
「ギャアアアアッ!」
輪郭が浮かぶ。白い光の中だけ。透明だった身体が黒い影となって現れた。
「見えた!」
四足。長い脚。痩せた胴体。頭部には目らしいものがなく、大きな口だけ。全身を薄い黒い膜が覆っている。《浄化》を当てられた部分から、その膜が剥がれていた。
「透明にしてるのも呪いか」
だったら。剥がせる。ノアは《浄化》を広げた。怪物全体へ。だが相手も動く。
「グギャッ!」
跳ぶ。天井近くの壁へ張り付く。
「そこまで行くのかよ」
視界から再び消える。でも。黒い膜が薄くなった場所だけは、完全には消えなかった。歪み。空気の揺れ。
「さっきより見える」
ノアは《危険察知Ⅰ》へ魔力を戻す。頭上。
「来る」
怪物が落ちてくる。ノアは半歩だけ動いた。《俊足Ⅱ》。ほんの一瞬。それで攻撃を外す。直後。《身体強化Ⅱ》。足から腰。肩。腕。そして《剣術Ⅱ》。最短。一閃。ザンッ!前脚が一本、落ちた。
「ギャアアアアアッ!」
「《浄化》!」
落ちた脚と傷口を同時に白い光で包む。黒い靄が消える。今度は。戻らない。
「やっぱりこれだ」
斬る。浄化。再生させない。怪物の動きが大きく崩れた。
◇
ここからは、ノアの方が有利だった。相手はまだ速い。姿も完全には見えない。だが。足跡。黒い血。《危険察知Ⅰ》。そして《浄化》で剥がした輪郭。見つける方法はいくつもある。何より。ノアは魔力を一つの技能へ固定しなかった。敵が動く。《危険察知Ⅰ》。方向を読む。《俊足Ⅱ》。避ける。間合いへ入った瞬間。《身体強化Ⅱ》。《剣術Ⅱ》。斬る。直後。《浄化Ⅲ》。魔力を次々に流し替える。最初は宿の部屋で一つずつ試していた。今は。戦いながら。必要な技能へ。必要なだけ。流せる。
「次」
怪物が横へ跳ぶ。ノアは追わない。待つ。ぞわっ。
「左」
飛び込んでくる。避ける。後脚。ザシュッ!
「《浄化》!」
二本目。黒い怪物が倒れる。もう姿を隠す余裕もなくなったのか。残った黒い膜が揺れ、身体全体が薄く見える。
「グルル……」
「もう終わり」
ノアは正面へ行かない。弱っていても。最後の一撃ほど危ない。怪物が口を大きく開いた。突進。《危険察知Ⅰ》。真っ直ぐ。ノアは最後まで待った。直前。《俊足Ⅱ》。横。怪物の身体が通り過ぎる。その首。《身体強化Ⅱ》。《剣術Ⅱ》。《月銀の剣》を振り抜いた。ザンッ!首が大きく裂ける。
「《浄化》!」
白い光。怪物の身体を包んだ。
「ギャ――」
悲鳴。途中で消える。黒い膜が崩れ。透明だった身体が。完全に姿を現した。灰色の獣。そして。その身体も。灰のように崩れていった。
「……」
ノアは剣を構えたまま待った。一呼吸。二呼吸。《危険察知Ⅰ》。反応なし。
「倒した」
ようやく剣を下ろした。
◇
灰の中。硬い物が転がった。コロン。
「ん?」
ノアが近づく。大きい。拳ほどもある黒紫色の魔石だった。
「魔石」
拾う前に《浄化》。表面に付着していた黒い汚れだけが消える。魔石そのものは変化しない。呪物ではないらしい。
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《呪影獣の魔石》
品質:上質
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「上質」
ノアの顔が明るくなった。装甲オーガの魔石より、明らかに大きい。色も濃い。
「これ、高いだろ」
危険な場所へ潜った。強い敵を倒した。その報酬が何もなければ嫌だった。だが。これなら。
「帰ったら売ろう」
《遠征用収納鞄》へ。かなりの金になるはずだ。しかも。終わりではない。ノアは振り返った。怪物が現れた場所。すぐ近くにある保管室。
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《保管番号三八八》
《赤》
《消える靴音》
《保管室内で単独行動を禁止》
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「これが原因かな」
扉へ近づく。《危険察知Ⅰ》。先ほどほどではない。ただし。中には強い呪いがある。
「開けるよ」
ゆっくり。扉。中。石台の上に、小さな木箱。鎖で固定されている。ノアは入口から右手を向けた。
「《浄化》」
白い光。木箱から。黒い靄が噴き出した。
「やっぱり強い」
赤指定。簡単には終わらない。ただし。先ほどの《清流の指輪》を浄化した時とは違う。今は《魔力循環Ⅰ》の使い方にも慣れている。身体を守る《浄化》は最低限。残りを右腕へ。《浄化》。休む。循環。また。《浄化》。少しずつ。黒い靄を削る。
◇
一時間ほどかかった。最後。
「《浄化》」
白い光が木箱を包む。パキッ。固定していた黒い鎖から呪いが抜けた。寒気。消える。
「終わった」
箱を開ける。中には。
「……靴じゃない」
銀色の小さな飾り。片方だけ。足首へ装着するような輪だった。長い間、黒い呪いに覆われて形さえ分からなくなっていたらしい。
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《静音の足環》
等級:希少級
効果:歩行時の足音を大幅に軽減
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「技能はなし」
だが。悪くない。《隠密Ⅰ》と合わせれば、さらに音を減らせる。今使うか。売るか。
「一応持って帰ろ」
収納鞄へ。技能がないから外れ。そんなことはない。希少級。普通に高価な魔道具だ。そのうえ呪影獣の上質魔石まである。
「今日は結構稼いだな」
第三地下区画。危険。でも。それだけ価値もある。
◇
ノアはさらに奥へ進んだ。第四地下区画へ再び挑むつもりはない。今日は十分戦った。魔力にも余裕はあるが。余裕があるうちに帰れるのが一番いい。ただ。第三地下区画の地図だけは、もう少し確認しておきたかった。先ほどの通路。さらに奥。何個かの保管室を通り過ぎる。そこで。
「……扉?」
呪物の保管室とは違う。普通の木製の扉。札。
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《第三管理室》
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「管理室」
ノアは少し迷ってから開けた。中。机。棚。古い紙。壁いっぱいに貼られた図面。
「……これ」
ノアは携帯灯を近づけた。施設の断面図。第一地下区画。第二。第三。
「第四」
さっき見つけた場所もある。そして。その下。
「五……」
さらに。
「六?」
ノアは数え直した。一。二。三。四。五。六。
「六階まであるの?」
第七呪物保管庫。地下六層。自分は。まだ第三地下区画を探索している途中だ。
「半分じゃん」
しかも。図面の横。各区画の用途が書かれている。
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《第一地下区画》低危険度保管区
《第二地下区画》中危険度保管区
《第三地下区画》高危険度保管区
《第四地下区画》重度呪染・赤黒指定保管区
《第五地下区画》自律型呪物隔離区
《第六地下区画》特別封印区
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「自律型?」
ノアは第五地下区画を見る。
「勝手に動くってこと?」
嫌な予感しかしない。第六。特別封印区。
「……もっと嫌だな」
でも。気になる。かなり。図面の端には、さらに注意書きがあった。
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《第五地下区画以下への進入には、第二種以上の呪染防護を必須とする》
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「第二種?」
知らない。《聖護の首飾り》が第一種なのか。そもそも別の分類なのか。また調べる必要がある。
「今はいいか」
まだ第四地下区画すらまともに歩けない。第五。第六。考えるのは早い。ノアは壁から図面を慎重に外した。かなり古い。破れないように丸める。《遠征用収納鞄》へ。
「持って帰って調べよう」
◇
保管庫を出た時には、外は夕方だった。鉄扉を閉める。鍵。ガコン。ノアは丘を下りながら、今日の収穫を考えた。上質の《呪影獣の魔石》。《静音の足環》。そして。地下六層まで描かれた配置図。
「まだ半分か」
思っていたよりずっと大きな施設だった。だが。嫌ではない。最初に来た時。第三地下区画へすら入れなかった。それが今は。赤指定の呪物を浄化できる。そこで暮らしていたような怪物まで倒せる。第四地下区画にも、一歩だけなら入れた。なら。強くなれば。また先へ進める。ノアは《遠征用収納鞄》へ手を置いた。
「まず、魔石売ろ」
強くなることも大事。だが。金になる物を持ち帰ったなら。売らない理由はなかった。




