歪で、甘い 1
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そっと、至近距離にあるセルジュの目元に手を伸ばす。
彼のことは怖いのに。
ひどいと思うのに。
静かに落ちて来る彼の涙は、美しくて暖かいと思ってしまった。
何が真実で嘘なのか。
何もかも理解できない夫の、だけどこの涙だけは、まぎれもなく本物だ。
まるで口にできない言葉を涙にして落としているように、はらはらとシャルリーヌの上に落ちて来る。
涙が一つ、また一つと落ちてくるたびに、そこにある透明な彼の言葉が、シャルリーヌの中にしみこんでいくようだった。
一年放置したことは許せない。
閉じ込めたことも許せない。
何も教えてくれないことも許せない。
さっきの乱暴な口づけだって、許せない。
だけどたぶん、この涙が美しいと思った時点で負けなのかもしれない。
セルジュが言った「愛している」の一言。
今ならばその言葉を、ほんの少しだけなら、信じてもいいような気になるから。
セルジュの顔がゆっくりと近づく。
シャルリーヌは静かに目を閉じると、今この一時は、すべての思考を放棄しようと、思った。
☆
「あー、ひどい顔だわ」
夜明け前。
ベッドから抜け出したシャルリーヌは、浴室に明かりを灯して、鏡に映った自分の顔に苦笑せざるを得なかった。
化粧したまま泣いてそのまま眠ったのだから、こうなるのは当たり前だが、化粧が中途半端に落ちてひどい顔になっている。
セルジュもよく、こんな顔の女にキスをしようと思ったものだ。
「……はあ。自分が一番わからないかもしれないわ」
シャルリーヌはそっと己の唇に指先を這わせる。
顔を洗って化粧を落とすと、メインルームに移動して暖炉に火を入れた。
薪に火をつけるのにはコツがあるのだが、一年使用人に放置されていたシャルリーヌは、その間に暖炉に上手に火をつける方法を覚えた。今ではすぐに火をつけることができる。
セルジュはまだ寝室で眠っているが、顔を洗ったこともあり、シャルリーヌの目はすっかり冴えてしまった。
ハーブティーでも飲みながら、少し考え事がしたい。
結婚してはじめて一緒のベッドで眠った夫は、まるで妻が消えることを恐れるかのごとく、先ほどまでシャルリーヌを抱きしめて眠っていた。
腕が緩んだ隙に抜け出したが、ベッドを出る前、セルジュは悪い夢でも見ているかのような、苦悶の表情を浮かべていた。
(セルジュ様は、わたしの知らない何を知っているというの?)
セルジュが何の理由もなくオールポート伯爵にあれほどの敵意を向けるのはおかしい。
不貞を疑ったような口ぶりだったけれど、あれはシャルリーヌが他の男性と一緒にいたというよりは、オールポート伯爵と一緒にいたから過剰に反応したように見えた。
セルジュとオールポート伯爵の間には、何か因縁があるのだろうか。
それとも、オールポート伯爵はディアーヌを排斥しようとしている貴族たちの一人で、何かきな臭い情報でもあるのだろうか。
(だけど、ディアーヌ様はそれほど警戒していなかったわ)
警戒はしていたが、本当に危険人物であるならそもそも控室には入れないだろう。
シャルリーヌはディアーヌの表情や反応から、彼女がオールポート伯爵を自陣に招き入れたいように見えた。敵にするのではなく味方にと考えているようだった。だからこそ、セルジュのあの過剰な反応が解せない。
(ディアーヌ様も知らない情報を持っているのかしら? たとえばアロイス殿下側は把握していて、あえてディアーヌ様に伏せている情報がある? だとしたら、余計にあの反応はおかしいわ)
あからさまな態度を取れば、聡いディアーヌは何かあると気づくだろう。
シャルリーヌだって怪しんだほどだ。
セルジュがそのような単純なミスをするはずがない。
そして、昨夜、シャルリーヌに向けられたセルジュの激情。
怒っているのは間違いなかった。
だけど同時に、ひどく悲しんでいるようでもあり、傷ついているようでもあった。
シャルリーヌの何があれほどセルジュを追い詰めたのか――わからない。
謎は解けるどころか、ますます複雑に絡み合っていく。
その絡み合った謎はシャルリーヌ自身もがんじがらめにして、身動きが取れなくなりそうだ。
一つ一つ仮定を立てても、それを証明できない。
シャルリーヌが立てる仮定のすべてに対して、セルジュの行動は矛盾を抱えている。
ふう、と入れたばかりのハーブティーに息を吹きかけて冷ます。
秋も深まり、朝晩は冷えるようになった。
優しいカモミールの香りが鼻孔をくすぐる。
その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、そういえば、一つだけ確かなことがあるなと思った。
(セルジュ様が、わたしに気を配ってくれているところ……)
生活面は、信じられないくらいに向上した。
伯爵夫人としてこれが当たり前と言われればそうかもしれない。
だけど、一年放置されたシャルリーヌにとっては劇的な変化だ。
セルジュはシャルリーヌの好きなものでこの部屋の中を溢れさせて、不便がないように、快適に過ごせるように、心を砕いてくれている。
このハーブティーだって、セルジュが用意してくれた。「夜は紅茶よりハーブティーだろう?」と言って。何故シャルリーヌがハーブティーを好んでいると知っているのかは、やはりわからない。
セルジュは、「好みの種類まではわからなかったから」と言って、二十種類にもおよぶハーブティーの茶葉を用意してくれた。それらはティーセットともに棚に並べられている。
ひとつひとつ思い返せば、この一か月と少し、セルジュがものすごく多くをシャルリーヌに与えてくれたのかがわかる。
理不尽に閉じ込められてはいるが、それを除けば、セルジュは模範的な――いや、それ以上の夫だと言えるだろう。この一か月と少しは、だが。
常にシャルリーヌを気遣い、少しでも表情が曇れば体調を心配してくれる。
セルジュがあんなにもまめまめしい人だなんて思わなかった。
(でもわたしは、ディアーヌ様の役に立たなければいけないから)
もし、ディアーヌの駒としての働きを期待されないのであれば、セルジュの用意したこの甘い檻の中ですごすことも悪くはないのかもしれない。
外出できないわけではない。
昨日のパーティーのように、セルジュが一緒ならば外に出してもらえるだろう。
多少の不便さはあるけれど、だからと言ってものすごく不便でもない。
ソブール国の実家にいた時はもっと不便で苦しくてつらかった。
それを考えると、ただ自由に出歩けないだけであとは恵まれているこの現状は、天国のようなものだろう。
けれど、シャルリーヌにとってもっとも優先されることが、ディアーヌの役に立つことなのだ。
だから彼の腕の中で、何も考えずに微睡むなんてできない。
(……ああでも、ディアーヌ様に身の回りに警戒しろと言われたわ)
ディアーヌを排斥しようと動いているものたちは、ディアーヌ本人ではなく彼女の周囲の人間を狙う算段を立てているらしい。
ならば、しばらくの間は、セルジュに囚われたままでいた方が安全なのだろうか。その方が、ディアーヌの役に立つのだろうか。
シャルリーヌは気づかない。
自分が、少しでも長くこの場所に留まる方法を考えていることに。
逃げたいと思っていた気持ちが、昨夜のうちに綺麗に霧散していることに。
逃げたい気持ちよりも、セルジュのあの涙の理由の方が気になっていることに。
程よく冷めたカモミールティーに口をつける。
暖炉の前でちびちびとカモミールティーを飲んでいると、ガチャリと大きな音を立てて寝室の扉が開いた。
驚いて振り返ると、焦ったような顔のセルジュが立っていてシャルリーヌは目を丸くする。
「おはようございます、セルジュ様」
何をそんなに焦っているのかと不思議に思っていると、セルジュはシャルリーヌを見てくしゃりと顔を歪め、そのままその場にしゃがみ込んだ。
「……よかった」
(よかった?)
まさか、シャルリーヌが消えたと思ったのだろうか。
部屋から抜け出せたとしても、使用人たちはセルジュの味方なのだから、シャルリーヌが簡単にこの邸から逃げられるはずがないだろうに。
あきれつつも、そんな彼の様子が少しだけ可愛いと思えてしまうのはどうしてだろう。
「セルジュ様も飲みますか? カモミールティーですけど」
「あ、ああ。もらおう。……いや、俺がする。シャルリーヌがお湯で火傷をしたら大変だ」
セルジュはどれだけシャルリーヌが不器用だと思っているのだろうか。これでもそこそこ器用な方なのだが。
気を取り直したように立ち上がったセルジュが手際よくハーブティーを用意した。
シャルリーヌにもお代わりを入れてくれる。
そして暖炉の前には一人がけのロッキングチェアが一つしかないことに気づいた彼が、ティーカップをサイドテーブルに置いて悩みだす。
「どうぞ。わたしは温まりましたから」
座る場所を探しているのだろうと思って席を立てば、何を思ったのか、セルジュに持っていたティーカップを奪われた。
セルジュはシャルリーヌのティーカップもサイドテーブルの上に置く。
何がしたいのだろうときょとんとしているうちに、ふわりと体が浮いて、シャルリーヌは悲鳴を上げかけた。
セルジュがシャルリーヌを横抱きにして、そのままロッキングチェアに腰を下ろしたのだ。
「セルジュ様⁉」
「こうすれば二人で座れる。はい、ハーブティー」
「あ、ありがとうございます……?」
礼を言うのは何か違うような気がしたが、ティーカップを手渡してもらったのでとりあえず口にしておく。だがこの体勢は許容できない。恥ずかしすぎる。
「セルジュ様、下ろしてください。わたしはソファに移動しますから」
「別に重くないし、この方がいい」
重い重くないの問題ではない。
それに、この方がいいとはどういうことだ。
セルジュがよくてもシャルリーヌはまったくよくない。
それなのにセルジュの腕はしっかりとシャルリーヌの腰に回って、逃がさないと言わんばかりに密着された。
顔が近くなると、否が応でも昨日の口づけが思い出されてしまう。
気を紛らわせようとティーカップに口をつけていると、セルジュが小さく笑って自分のティーカップを手に取った。
「カモミールは好き?」
「え? そ、そうですね。好きです」
「他には? フレーズ・デ・ボア、マロウ、ミント、ローズ、ジャスミンとかいろいろあるけど、何が好き?」
「ええっと、そうですね……。マロウとかローズとか、あとは、ラベンダーとか、レモンとミントがブレンドされたものも美味しかったです。さすがにまだ買っていただいたものを全部試したわけじゃないですけど……」
「ああ、そうだな。シャルリーヌは気に入ったものがあったらヘビーローテーションするタイプだから」
くすくすと笑われて、シャルリーヌはよく見ているものだと驚いた。確かに、同じようなハーブティーばかり飲んでいた。
「お茶のほかは? なんでもいい。君の好きなものが知りたい」
もう充分にシャルリーヌの好みを把握しているくせに、セルジュがそんなことを言う。
その言葉に、シャルリーヌのことを何でも知っていそうなセルジュは、けれどもすべてを把握しているわけではないのだと知って安堵した。
シャルリーヌの中でずっとセルジュは得体が知れなくて――、シャルリーヌのことを何でも見通しているようで怖かったから、知らないこともあるのだとわかってホッとしたのだ。
不思議だ。
この一か月と少し。
結婚してからは一年と少し。
セルジュにこんな風に自分のことを話すのははじめてのはずなのに、何故か懐かしいような気になって来る。
「ドライフルーツのチョコレートが好きです。ビターなものより甘いものが。紅茶は、少し甘めのもの。お肉よりお魚が好きです。あとは……」
促されるままに、ぽつりぽつりと答えていく。
セルジュの手が遠慮がちにシャルリーヌの頭に伸びて、髪を梳くように撫でていく。
その手つきはまるで、愛おしいと言っているようで、シャルリーヌはくすぐったくなった。
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