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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高橋 なぎ
第8章 夏の三毛猫
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プロローグ 平和というのは

本日より、新章を始めさせていただきます。お読みいただけたら嬉しいです。

その夜、天空には赤茶けた月が昇っていた。

古来より赤い月は天変地異や戦乱の兆しと恐れられていたが、現代では大気の影響や皆既月食などの自然現象に過ぎないと思われていた。


ガッシャーン!!


何かが割れる音が響いた。


「たかが、毛が付いていたくらいなによ。払えばすむことでしょ」


「たかが?毎回毎回ついてるんだぞ」


「だから何よ。怒るほどでもないじゃない。小さい男ね」


三毛猫を抱えた妻が侮蔑を含んだ目で夫を見た。


「その猫が俺のメンツより大事なのか!」


「当たり前じゃないの。あなたよりみけちゃんの方が上よ」


妻の台詞は、いまさら何をと言っているかのようだった。


「あなたの朝のコーヒーなんてみけちゃんの朝ごはんの(つい)でよ」


夫は頭の血が逆流した。

だから、行動を止めることも加減することもできなかった。

妻を力任せに突き飛ばす。

妻の身体がスローモーションのように後ろへ倒れていく。

テーブルの角に頭をぶつける妻の姿を何の感情もなく見ていた。

ガンという音。

三毛猫は妻の腕から飛び降りていた。

目を見開いたまま動かない。

夫は恐る恐る近づき、動かない妻の横に膝をついた。

震えながら伸ばした手で息を確かめる。

呼吸していない――

夫の脚から力が抜け、ぺたんと座り込んだ。

(どうする……)

夫はじっと漆喰の壁を見つめていた。

暫くして、部屋に音がした。


ガサガサ。

ガン。

ガン。

ガン。

ペタ。

ペタ。

ペタ。


部屋の隅で、三毛猫だけがそれを見ていた。

黄色い目が、暗闇の中で静かに光る。


数か月後、その家は売りに出された。




千束恭介は自分の机に座り、事務所の中に視線を巡らせた。

スチール製のキャビネット、来客用のソファーセット。年季の入った壁。

古いながらも居心地の良い慣れ親しんだ場所。

家賃滞納で失うかと思ったときの恐怖は忘れられない。


「……良かった…追い出されずに済んだ……」


恭介は小さく息をついた。

相変わらず好き勝手に跳ねる黒髪、洗いざらしのシャツとデニム。以前と違うのは洗いざらしのシャツにはきちんとアイロンがかけられていた。

それが藤堂の仕事だと、恭介はよく知っている。

安堵する恭介を呆れた目でヴァレリーは見る。

指定席のソファーには夏用のブランケットが敷かれていた。

その上で寝そべる姿はこの事務所の主のように堂々としていた。


「おい、仕事をしろ、恭介」


ヴァレリーが督促をする。


「もう少し、この幸せに浸らせてくれ」


「そう言って、もう一時間は経つぞ」


恭介は書類の山を恨めしげに眺める。

中身の確認はヴァレリーが予めしているので、サインするだけだとは分かっているが、量が半端ない。

ヴァレリーの肉球で済むんじゃないかと、恭介は最近本気で思っている。

恭介の苦手な物、猫とお化けと事務仕事。

苦手な仕事を前に恭介は内心逃げ出したい。


(今なら、どんな仕事でも喜んでやるんだがなぁ···幽霊退治だってやるぞ)


そんなことを思ったのが、良かったのか、悪かったのか。

その答えを知るのは、数日後のことになる。

ヴァレリーが欠伸をした。


「平和というのは退屈だな」


「このまま、平和でいてくれ」


恭介はしぶしぶペンを動かす。


「無理だな。兎角、この世は騒がしくできている」


リンリンリンーー


電話が鳴った。

恭介が顔をしかめる。

ヴァレリーはゆっくり目を開いた。


「ほらな」














本日は二話投稿となります。

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