表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高橋 なぎ
第7章 初夏の影
PR
76/86

第18話 一条寺家

その日、恭介の周りは張り詰めた静寂に包まれていた。

ヴァレリーだけがいつもと変わらず、食事の後、執務室の窓辺で悠然と前足で顔を洗っていた。

机に置かれた紅茶は初夏の陽を受けて、きらきらと光を反射させていた。


「お前は変わらないよな……」


耐えかねた恭介がぽつりと零した。


「ふん…いまさらだな。人間は往生際が悪すぎる」


「いや、往生際っと言われてもだな、こうデリケートな…」


「お前にデリケートという言葉は似合わん」


ヴァレリーに一刀両断された。


「お前……」


いつもの軽口。

恭介の緊張が薄れた。


(そうだな……もう決めたんだったな……)


執務室のドアが、藤堂により静かに開いた。

藤堂の向こう、廊下の奥の影が音もなくすっと割れた。

まるで深い水面を切り裂くように、黒い幕が左右に開く。

そこから現れたのは、ゆっくりと歩みを進める朝比奈だった。

朝比奈の姿は、先ほどまでの“影を従える者”ではなかった。

むしろ、影の揺れに押されるように、静かに、しかし確かな足取りで恭介の前に現れた。


「……千束」


低く、しかし揺らぎのない声だった。

恭介は姿勢を正し、朝比奈を見据えた。

影の試しを越えた身体はまだあの時の震えを覚えていた。

だが、その震えは恐怖ではなく、覚悟の余韻だった。

朝比奈は恭介の背後の影を見やり、そしてゆっくりと恭介の顔へ視線を戻した。

朝比奈は、しばらく恭介を見つめていた。

その瞳には、これまで一度も見せたことのない色が宿っている。


かつて——

実淳が若き当主として立った日も、朝比奈は同じようにその前に立っていた。

あの日、実淳は迷いなく「整える必要はない」と言い切った。

だが、時代はそれを許さず、実淳は孤独な戦いを強いられた。

朝比奈はその背中を支えながらも、“整える”という古い方法に戻らざるを得なかった。

その記憶が、恭介の姿と重なる。

驚きでも、怒りでもない。

ただ——

認める者の静かな光。


「……ああ、実淳様の血だな」


その言葉は、恭介の胸に深く染み込んだ。

祖父・実淳の名を、朝比奈がこういう形で口にするとは思わなかった。

恭介は息を整え、影という存在を見た。

揺れていた影は、もう揺れない。

恭介の意思を受け取り、新しい“当主の影”として静かに従っている。


(……これでいい。これが、俺の選んだ道だ)


朝比奈はゆっくりと背筋を伸ばし、恭介の前に立った。


「恭介様。古い悪習を断つというのなら、その責任はすべて貴方が背負うことになる」


「分かってる。整えないということは、全部、白昼に晒し、自分の手で受け止めるってことだろ」


朝比奈はわずかに目を細めた。

その表情は、これまでのような厳しさではなく、どこか安堵にも似ていた。


「……ならば、見届けましょう。“整えない当主”が、どこまで家を守れるのか」


その言葉には、もはや試す響きはなかった。

ただ、新しい当主を支える者の覚悟があった。

恭介は無言で、深く頭を下げた。

朝比奈は何も言わず、ただ一礼して執務室を去っていった。

その背中は、これまでのような圧ではなく、どこか軽くなっていた。

藤堂により執務室のドアが閉じられた。

部屋にはヴァレリーと恭介の二人が残された。

ヴァレリーが恭介の横で尻尾をゆっくり揺らす。


「……やっと、当主らしくなったな」


「あの時のお前の爪が痛かっただけだ」


「それも必要な刺激だ」


ヴァレリーはふんと鼻を鳴らした。

恭介は執務室を見渡した。

初夏の光が、これまでよりも奥まで差し込んでいるように見える。


(……本当に、変わるんだな)


ヴァレリーと執務室を出る。

本邸の空気は、まるで長い冬が終わった後のように澄んでいた。

使用人たちが遠巻きにこちらを見ている。

その視線には、恐れよりも期待が混ざっていた。

恭介はゆっくりと歩き出した。

影が静かに従う気配がした。

ヴァレリーが肩の上でバランスを取りながら、軽く尻尾を揺らす。


「恭介、まずは何をする?」


「……帳簿だ。橋詰さんが残した異変を、全部洗う」


「整えない当主の最初の仕事か」


「そうだ。整えないなら、全部自分で見るしかない」


ヴァレリーは満足げに頷き、ニヤリとした。


「そうか…全部自分で見るのか」


「あっ、そういう意味じゃなくて、できれば、お前の力を借りたい」


「ほう、できればだな」


「すみません、力を貸してください」


ヴァレリーが恭介の肩から飛び降りた。

恭介はヴァレリーと本邸の奥へと歩を進めた。

いつものようにヴァレリーは恭介の前を歩く。

初夏の風が廊下を抜け、庭の青葉の匂いを運んでくる。

その風は、どこか新しい始まりを告げているようだった。


(ここからだ。俺が変われば、家も変わる。影も変わる。一条寺家は……変われる)


恭介は拳を軽く握りしめた。

影は鏡だ。

ならば、映すべきものは——

揺れではなく、意思。

初夏の光が差し込む廊下で、恭介は静かに息を吸った。

古い影は揺れを止め、新しい影が彼の足元に従う。


——ここから、一条寺家は変わる。

17:50にエピローグを投稿して、第7章は完了と成ります。お読みいただければと思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ