第17話 影の試し
廊下の奥で揺れていた影は、まるで呼吸をするように脈打っていた。
先ほどまでの小さな揺れとは違う。
本邸全体の空気が、じわりと沈んでいく。
初夏の朝の光は変わらず差し込んでいるのに、その光が影に飲まれていくように見えた。
ヴァレリーが恭介の横で毛を逆立てた。
「……来るぞ。影の“試し”だ」
恭介は息を呑んだ。
(試し……俺を?)
影はゆっくりと形を変えながら、廊下の奥から迫ってくる。
音はない。
ただ、空気の密度だけが重く、濃くなっていく。
床の木目が歪み、光と影の境界が曖昧になり、まるで廊下そのものが深い水底に沈んでいくようだった。
「恭介、落ち着け。影は“心の匂い”に反応する」
ヴァレリーの声は低く、恭介に注意と心の在りようを促す。
影が近づくほど、恭介の胸の奥にある“不安”が疼き始める。
それは影が恭介の心を覗き込み、揺らぎを増幅させている証拠だった。
(……怖い。俺は本当に、当主としてやっていけるのか?整えないことで、誰かが傷つくんじゃないか?
朝比奈の方が正しいんじゃないか?)
影が恭介の足元に触れた瞬間、その迷いが形を持ったように胸を締めつけた。
全身を押しつぶすような恐ろしいほどの圧。
迷いの隙間に忍び寄るかのように、影が囁く。
——整えろ。
——真実は重い。
——お前には背負えない。
恭介は歯を食いしばった。
(……違う。俺は……)
影はさらに形を変え、恭介自身の影を模倣した。
影の恭介が、同じ声で囁く。
「お前は当主に向いていない。整えないことで、家を壊すのはお前だ」
胸の奥が冷たくなる。
影は恭介の“最も痛い部分”を突いてくる。
ヴァレリーが恭介の肩に飛び乗り、鋭く叫んだ。
「恭介!影は“お前の弱さ”を映しているだけだ!影は鏡だ!揺れれば揺れるほど、影は強くなる!」
影の気配が、恭介の心臓の鼓動に合わせて脈打つように揺れた。
影の恭介が一歩近づく。
本物の恭介の影と重なりそうになる。
「整えろ。そうすれば、誰も傷つかない。朝比奈の言う通りにすればいい」
恭介の心が揺れた瞬間、廊下全体が軋むような音を立てた。
ヴァレリーが恭介の頬を爪で軽く引っかいた。
「恭介!しっかりしろ!影は“お前の迷い”を餌にしている!」
恭介は目を見開いた。
(……そうだ。影は鏡。俺が揺れれば、影は暴走する。俺が決めなきゃいけないんだ)
影の恭介が、もう一歩近づく。
「整えろ。それが一条寺のやり方だ」
恭介は拳を握りしめた。
(俺は……違う)
影が恭介の胸元に触れようとした瞬間、恭介は逆に一歩、踏み込んだ。
「整えない!」
影がびくりと震えた。
恭介は影の目をまっすぐに見据えた。
「俺は整えない。当主として、真実を曲げない。影は鏡だ。なら、俺の意思を映せ!」
影が大きく揺れた。
廊下の灯りが一瞬だけ明滅する。
恭介はさらに言葉を重ねた。
「俺は逃げない。朝比奈のやり方は継がない。俺は俺のやり方で、この家を守る!」
影が裂けるように震え、影の恭介の姿がゆっくりと崩れ始めた。
ヴァレリーが低く呟く。
「……影が、お前の意思を受け入れ始めた」
影は恭介の足元に集まり、まるで跪くように形を整えた。
空気が静まり返る。
恭介は息を吐いた。
全身からどっと汗が噴き出した。
(……終わった?)
だが次の瞬間——
影が静まったのはほんの一瞬だった。
その静けさの奥に、さらに深い“何か”が潜んでいる気配があった。
廊下の奥で、別の影が大きく揺れた。
先ほどの影よりも濃く、荒々しく、まるで怒りを孕んだような揺れ方だった。
ヴァレリーの表情が険しくなる。
「……これは、“末端”じゃない。もっと上位の影だ。古い悪習の核に近い存在……」
恭介は息を呑んだ。
(……核?……影の中心……一条寺家の闇の根……)
ヴァレリーが低く告げる。
「恭介。次は——“朝比奈”が来る」
影が揺れ、本邸全体が静かに軋む。
古い悪習が、本気で抵抗を始めていた。




