第16話 揺れる
恭介は去っていく朝比奈の背を睨んでいた。
”私は、認めない。この家を守るためには、認めることはできない”と言われたも同然だ。
朝比奈が去ったあと、本邸の空気はどこかざわついていた。
初夏の光は変わらないのに、廊下の空気だけが妙に冷たい。
灯りはいつも通りなのに、光と影の境目が不安定に揺れて見える。
ヴァレリーが恭介の肩に飛び乗り、耳をぴんと立てた。
「……恭介。影の末端が揺れている」
「揺れてる?」
「お前の“整えない”という意思と、朝比奈の“整えろ”という命令。二つの矛盾が影に伝わった」
その瞬間——
——コツ。
廊下の奥で、何かが“落ちたような音”がした。
恭介とヴァレリーは同時に振り向く。
「……今の、何だ?」
「影の末端が“整えようとして失敗した”音だ」
ヴァレリーの声は低く、鋭かった。
恭介は廊下を進み、音のした部屋の前に立った。
近づくほどに、空気がざらつくような感覚が強くなる。
ドアを開けると——
そこは、小さな書庫だった。
普段は整然としているはずの棚が、今日は違っていた。
一部の帳簿が、“中途半端に”引き出されている。
乱れているのに、乱れきっていない。
整えようとした痕跡と、整えきれなかった痕跡が混ざっている。
(……これが、影の揺らぎ?)
ヴァレリーが棚に飛び乗り、帳簿の位置を確認する。
「影の末端は、“整えるべきかどうか”で迷っている。お前の意思と朝比奈の意思がぶつかって、影が判断できなくなっている」
恭介は棚に触れ、わずかにずれた帳簿の背表紙を見つめた。
「……これが、古い悪習の正体か」
「そうだ」
ヴァレリーは静かに言った。
「影は“当主の意思を代行する存在”。だが、長い年月の中で、“整えること”が目的になってしまった。本来は違う。影は“当主の意思を映す鏡”だ」
恭介は息を呑んだ。
(……鏡?)
「当主が揺れれば、影も揺れる。当主が嘘をつけば、影も嘘をつく。当主が真実を曲げれば、影も曲げる。それが“一条寺の悪習”だ」
恭介の胸に、重いものが落ちていく。
(つまり……俺が揺らげば、影は暴走する)
ヴァレリーが恭介の足元に戻り、小さく囁いた。
「恭介。影の末端は今、“どちらの当主に従うべきか”で揺れている。お前か、朝比奈か。どちらの意思が“本物”かを見極めようとしている」
恭介は拳を握りしめた。
(……俺が決めなきゃいけない)
すーっと息を吸い、気持ちを落ち着かせる。
棚の前に立ち、恭介は静かに言った。
「何も整えるな。真実はあるがままに」
その瞬間——
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
揺れていた影が、恭介の言葉に反応するように、ゆっくりと形を整え、静止した。
ヴァレリーが満足げに頷く。
「……影は、お前を“当主”として見始めた」
だが次の瞬間、廊下の奥から別の影が揺れた。
今度は——先ほどよりも大きく、荒々しく。
「……これは?」
ヴァレリーの表情が険しくなる。
「影の末端の“暴走の兆し”だ。古い悪習が壊れ始めた時に起きる現象。影は、どちらの当主に従うか決めるために——“試し”に来る」
恭介は息を呑んだ。
(……試し?俺を?)
ヴァレリーが低く言った。
「恭介。次は……朝比奈との対決だ」
影が揺れ、本邸全体が静かに軋むような気配を放つ。
古い悪習が、崩れ始めていた。




