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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高橋 なぎ
第7章 初夏の影
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第16話 揺れる

恭介は去っていく朝比奈の背を睨んでいた。

”私は、認めない。この家を守るためには、認めることはできない”と言われたも同然だ。

朝比奈が去ったあと、本邸の空気はどこかざわついていた。

初夏の光は変わらないのに、廊下の空気だけが妙に冷たい。

灯りはいつも通りなのに、光と影の境目が不安定に揺れて見える。

ヴァレリーが恭介の肩に飛び乗り、耳をぴんと立てた。


「……恭介。影の末端が揺れている」


「揺れてる?」


「お前の“整えない”という意思と、朝比奈の“整えろ”という命令。二つの矛盾が影に伝わった」


その瞬間——


——コツ。


廊下の奥で、何かが“落ちたような音”がした。

恭介とヴァレリーは同時に振り向く。


「……今の、何だ?」


「影の末端が“整えようとして失敗した”音だ」


ヴァレリーの声は低く、鋭かった。

恭介は廊下を進み、音のした部屋の前に立った。

近づくほどに、空気がざらつくような感覚が強くなる。

ドアを開けると——

そこは、小さな書庫だった。

普段は整然としているはずの棚が、今日は違っていた。

一部の帳簿が、“中途半端に”引き出されている。

乱れているのに、乱れきっていない。

整えようとした痕跡と、整えきれなかった痕跡が混ざっている。


(……これが、影の揺らぎ?)


ヴァレリーが棚に飛び乗り、帳簿の位置を確認する。

「影の末端は、“整えるべきかどうか”で迷っている。お前の意思と朝比奈の意思がぶつかって、影が判断できなくなっている」


恭介は棚に触れ、わずかにずれた帳簿の背表紙を見つめた。


「……これが、古い悪習の正体か」


「そうだ」


ヴァレリーは静かに言った。


「影は“当主の意思を代行する存在”。だが、長い年月の中で、“整えること”が目的になってしまった。本来は違う。影は“当主の意思を映す鏡”だ」


恭介は息を呑んだ。


(……鏡?)


「当主が揺れれば、影も揺れる。当主が嘘をつけば、影も嘘をつく。当主が真実を曲げれば、影も曲げる。それが“一条寺の悪習”だ」


恭介の胸に、重いものが落ちていく。


(つまり……俺が揺らげば、影は暴走する)


ヴァレリーが恭介の足元に戻り、小さく囁いた。


「恭介。影の末端は今、“どちらの当主に従うべきか”で揺れている。お前か、朝比奈か。どちらの意思が“本物”かを見極めようとしている」


恭介は拳を握りしめた。


(……俺が決めなきゃいけない)


すーっと息を吸い、気持ちを落ち着かせる。

棚の前に立ち、恭介は静かに言った。


「何も整えるな。真実はあるがままに」


その瞬間——


部屋の空気が、ぴたりと止まった。

揺れていた影が、恭介の言葉に反応するように、ゆっくりと形を整え、静止した。

ヴァレリーが満足げに頷く。


「……影は、お前を“当主”として見始めた」


だが次の瞬間、廊下の奥から別の影が揺れた。

今度は——先ほどよりも大きく、荒々しく。


「……これは?」


ヴァレリーの表情が険しくなる。


「影の末端の“暴走の兆し”だ。古い悪習が壊れ始めた時に起きる現象。影は、どちらの当主に従うか決めるために——“試し”に来る」


恭介は息を呑んだ。


(……試し?俺を?)


ヴァレリーが低く言った。


「恭介。次は……朝比奈との対決だ」


影が揺れ、本邸全体が静かに軋むような気配を放つ。

古い悪習が、崩れ始めていた。

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