表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高橋 なぎ
第7章 初夏の影
PR
73/86

第15話 朝比奈という男

広間での説明を終え、恭介はヴァレリーとともに廊下へ出た。

初夏の朝の空気は、ほんのり湿り気を帯びている。

庭の青葉が陽を受けて匂い立ち、障子越しの光はすでに夏の強さを帯びていた。

だが、本邸の空気はそれとは別の理由で落ち着かない。

広間を出てからずっと恭介は、背中にまとわりつくような“揺れ”をずっと感じていた。


(……影がざわついている?)


使用人たちが、何かを気にするように視線を交わしている。

すれ違う者は皆、恭介の表情をうかがうように一瞬だけ目を向け、すぐに伏せた。

廊下の空気は張り詰め、誰もが息を潜めているようだった。

恭介は歩きながら、広間での自分の言葉を反芻した。


(整えない……そうは言ったが……できるのか……)


胸の奥に、まだ小さな不安が残っている。

影は正直だ。

当主の迷いを、容赦なく映し出す。


(……俺は、本当に“整えない当主”になれるのか……言葉にしただけで、まだ“形”になっていない……)


そんな思いがよぎった瞬間、

屋内なのに、どこからか冷たい風が流れ込んでくるような感覚がした。

ヴァレリーが耳をぴくりと動かした。


「……来たな」


恭介は顔を顰めた。

その言葉と同時に、廊下の先の影が、ゆっくりと揺れた。

揺れは一度だけ。だが、それだけで十分だった。


(影の末端……)


恭介が足を止めた瞬間、背後から落ち着いた足音が近づいてきた。

その足音はゆっくりだが、確実にこちらへ向かってくる。

影の揺れと呼応するように、廊下の空気がさらに冷たくなる。


「千束」


振り返ると、一人の見知らぬ年配の男が立っていた。

皺一つない黒いスーツ。

乱れのない所作。

そして、冷たく揺れない瞳。

朝比奈 継信だった。

祖父と同年代なら八十に近いはずだが、

その立ち姿は矍鑠としていて、影に負けない存在感を放っている。

初夏の光を背負ったその姿は、年齢を感じさせない鋭さを帯びていた。

その瞳の奥には、“測るような光”が宿っていた。


「橋詰の件、聞いた」


恭介の横を通り過ぎ、朝比奈は揺れた影の前に立った。


「事故として扱う判断——悪くない」


恭介は眉をひそめた。


「……褒めるために来たのか?」


「違う」


朝比奈は影に視線を落としたまま言った。


「お前が“整えない”と言ったからだ。ならば、私は“最後の整え”をしに来た」


「最後……?」


朝比奈はゆっくりと恭介の方へ向き直った。


「橋詰の死は事故。だが、帳簿の異変は残る。影の末端は“整えるべきかどうか”で揺らいでいる」


恭介は息を呑んだ。


(……影が揺らぐ?)


朝比奈は続けた。


「影は当主の意思に従う。だが、お前の意思はまだ“形”になっていない。言葉だけでは、影は動かん」


ウゥ―ッとヴァレリーがめずらしく低く唸った。


「朝比奈……お前、何をする気だ」


「簡単なことだ」


朝比奈は影の末端に向かって、静かに手を伸ばした。


「——整えろ」


その瞬間、影がわずかに震えた。

恭介の腹の底から、焼けるような苦々しいものが込み上げる。


「待てよ。俺は整えないって言っただろ」


「言ったな。だが“言っただけ”だ」


朝比奈の声は冷静だった。


「当主の意思は、行動で示すものだ。影は“揺れている当主”には従わない。だから私は、揺れを止めに来た」


恭介は一歩前に出た。


「……それが、お前のやり方か」


「そうだ。古くからの一条寺のやり方だ」


朝比奈の瞳には、迷いも、悪意もなかった。

ただ——

“家を守るための冷徹な論理”だけがあった。

恭介は拳を握りしめた。


(……これが、古い悪習か)


影を整える。

事実を曲げる。

家のために、真実を隠す。

それが“一条寺の当主の仕事”だと、朝比奈は信じている。

だが——


(俺は……違う)


恭介は影の前に立ち、朝比奈の伸ばした手を遮った。


「整えるな」


影がぴたりと止まる。

朝比奈の瞳が、わずかに揺れた。


「……千束。お前は本気で“整えない当主”になるつもりか」


恭介は静かに頷いた。


「何度も聞くな。俺のやり方でやる。整えない」


朝比奈はしばらく恭介を見つめ、やがて手を下ろした。


「……ならば、見せてもらおう。“整えない当主”が、どこまで家を守れるのか」


その言葉は挑発ではなく、試すでもなく——

“覚悟を問う声”だった。

影の末端が、恭介の背後で静かに揺れた。

古い悪習と新しい意思が、初めて真正面からぶつかった瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ