第9話 家令
寝静まった屋敷のデッキ。
漆黒に沈んだ庭園の中で、月明かりだけがガーデンチェアに座る人物の輪郭を浮かび上がらせていた。
藤堂は何をするでもなく、ただ座っていた。
テーブルの上には、一冊の古い帳簿。
ひた……ひた……
背後から近づく気配。
「……どうするつもりだ、藤堂」
「ヴァレリー様……」
藤堂は振り返らない。
ただ、金色の瞳が背中に刺さるのを感じていた。
ヴァレリーは静かに歩み寄り、藤堂の横に座るでもなく、距離を保ったまま立つ。
「この家を守るのが、私の仕事です」
「そうだな」
「朝比奈様も、それは同じでございます……ただ……」
藤堂は言葉を選ぶように口を閉ざした。
ヴァレリーはため息をひとつ吐いた。
「やれやれ。人間は実に面倒くさい」
「その通りでございます……恭介様に嫌われましたね」
「その割には楽しそうだな」
藤堂は、ほんのわずかに笑みを刷いた。
「これも家令の仕事でございますから」
その笑みは、“覚悟”と“諦め”と“誇り”が入り混じった、藤堂という男の本音の一端だった。
ヴァレリーはその表情を見逃さなかった。
「……藤堂。お前は“整える側”か、“見届ける側”か」
藤堂の笑みが、わずかに揺れた。
「それを決めるのは……恭介様でございます」
月明かりが、古い帳簿の表紙を静かに照らしていた。
本邸の一室。
灯りは落とし、窓ガラス越しの月明かりだけが机の上の帳簿を照らしていた。
恭介はゆっくりと椅子に腰を下ろす。
ヴァレリーはクッションの上で丸くなり、金色の瞳だけがこちらを見ている。
恭介は帳簿に触れることを一瞬、躊躇い、何かを振り切る様にぐっと力を入れた。
「……開けるぞ」
「好きにしろ」
恭介は古い帳簿の表紙に触れた。
紙のざらつきが指先に伝わる。karei
ぱら……
静かな音を立てて、帳簿が開いた。
最初の数ページは、ただの古い記録だった。
日付、名前、簡単な出来事。
(……普通だな)
だが、ページをめくるごとに、恭介の眉がわずかに寄っていく。
「……なんだ、これ」
「気づいたか」
ヴァレリーが尻尾を揺らす。
「日付が……飛んでる」
「飛んでいるのではない。正確には“抜かれている”だ」
恭介は息を呑んだ。
次のページには、墨の濃淡が不自然に揃っている部分があった。
「……書き直した跡?」
「違う。“写した”跡だ」
「写した……?」
「影の古い手口だ。都合の悪い記録だけを抜き、残りを“整える”」
恭介はページをめくる手を止めた。
そこには、一行だけ、妙に浅い筆跡があった。
「……これだけ、筆圧が違う」
「癖だ」
ヴァレリーの声が低くなる。
「古い影の“末端”がよくやる書き方だ。力を入れず、痕跡を残さないように書く」
恭介の背中に冷たいものが走った。
「じゃあ……橋爪が見つけたのは……」
「“影の続き”だ」
恭介は帳簿を閉じた。
その重さが、さっきよりもずっと重く感じる。
「ヴァレリー……お前は知っていたのか?」
「お前よりは、この家に長くいるからな」
「……分かった。癖を追う」
ヴァレリーの瞳が細められた。
「それが、当主としての初仕事だな」
恭介は深く息を吸った。
「影の末端……見つけてやるよ」
月明かりが、閉じられた帳簿の表紙を静かに照らしていた。
帳簿を閉じたあとも、恭介の指先には、あの浅い筆跡の感触が残っていた。
(……あの書き方。あの抜き方。あの“整え方”。)
机の上の帳簿を見つめながら、恭介はゆっくりと立ち上がった。
「……おい、行くぞ、ヴァレリー」
クッションの上で丸くなっていた黒猫が、億劫そうに金色の瞳を片方だけ開ける。
「どこへだ」
「決まってんだろ。“癖”を確かめに行く」
ヴァレリーは前足に顔を乗せたまま尻尾を一度だけぱたりと打った。
「夜の別邸か。人間は本当に面倒くさい」
「お前が言うなよ」
「猫だからな、文句をいう権利がある」
軽口を叩きながらも、恭介の胸の奥には、冷たい緊張がじわりと広がっていた。
ヴァレリーのいつもの口調が救いだった。
帳簿に残された“癖”は、ただの書き方ではない。
影の末端が残した“生きた痕跡”だ。
それを確かめるには、現場に戻るしかない。
恭介は上着を羽織り、玄関へ向かった。
廊下は静まり返っている。
屋敷全体が眠りについたような静けさ。
だが——
ヴァレリーがふと立ち止まった。
「……気をつけろ、恭介」
「なんだよ」
「“癖”を追うということは、“癖の持ち主”に近づくということだ」
恭介は息を呑んだ。
「……来るのか?」
「来るとも。影は“見られる”のを嫌う」
月明かりが廊下を照らす。
その光の中で、恭介は拳を握った。
「上等だよ。逃げる気はねぇ」
ヴァレリーは満足げに尻尾を揺らした。
「ならば行こう。影の“癖”を追う旅路へ」
恭介は玄関の扉を開けた。
夜風が、帳簿の紙の匂いを運んでくる。
その匂いは、確かに“続き”へと繋がっていた。




