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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高橋 なぎ
第7章 初夏の影
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第8話 選択

本邸の玄関に足を踏み入れた瞬間、空気がわずかに張りつめたように感じられた。


(……なんだ、この感じ)


恭介は靴を脱ぎながら、背中にまとわりつくような違和感を振り払おうとした。

ヴァレリーは玄関の板間に座り、黒い鼻をひくりと動かす。


「……匂うな」


「またそれかよ」


「“動いた匂い”だ。影が、だ」


恭介が返事をする前に、ポケットのスマートフォンが震えた。

画面には、見覚えのない番号。


(……来たな)


通話を取る。


「……千束です」


『——戻ったか』


低い声。

乾いていて、揺れがない。

朝比奈継信の声だ。


「……あんた、どこから見てんだよ」


『見てはいない。だが“動けば分かる”』


恭介は息を呑んだ。


『橋爪の件——お前は“整えなかった”な』


その言い方は、叱責でも、怒りでもなかった。

ただの“確認”だった。


「整える気はねぇよ」


『そうか』


朝比奈の声が、わずかに低くなる。


『ならば、選べ』


「……選ぶ?」


『家を守るか。真相を守るか』


恭介は言葉を失った。

『両方は守れん。どちらかが必ず傷つく』


「……脅しかよ」


『違う。これは“当主の仕事”だ』


恭介は記録板を握りしめた。

指先が白くなる。


『お前が整えぬと言うなら——その結果を、家が背負う』


「家が……?」


『そうだ。お前の判断は、家の判断となる』


恭介の胸がざわつく。


『覚悟を問うているのだ、恭介』


通話が切れた。

静寂。

ヴァレリーが、ゆっくりと恭介を見上げた。


「……今のは“試し”じゃない」


「……」


「“選ばせた”んだ。当主としての責任を」


恭介は息を吐いた。


「……分かってるよ」


その声は、さっきより少しだけ低かった。



廊下の奥から、足音のしない足音が近づいてくる。

藤堂だった。


「……恭介様」


「なんだよ」


藤堂は恭介の手元の記録板に視線を落とした。


「その記録板……お預かりいたします」


恭介は一歩、後ろへ下がった。


「渡さねぇよ」


藤堂の表情は変わらない。

だが、わずかに目が細められた。


「恭介様。これは“家”のためでございます」


「家のためって……朝比奈の言葉そのまんまじゃねぇか」


藤堂は静かに頭を下げた。


「わたくしは、家に仕える者。その務めを果たすだけでございます」


「務めって……“整える”ことか?」


藤堂は答えない。

恭介は記録板を胸に抱えた。


「触るな」


藤堂の手が、空中で止まった。


「……恭介様」


「これは俺が調べる。…整えさせねぇ。俺が決める」


藤堂の瞳が、ほんのわずかに揺れた。

それは、藤堂という“影の継承者”が初めて見せた揺らぎだった。


「……かしこまりました」


藤堂は深く頭を下げた。

その動作の中に、ごく微細な“ためらい”が混じっていた。

ヴァレリーはその揺れを見逃さなかった。


「……一つ、動いたな」


恭介は息を吐いた。


「動かしたんだよ。俺が」


その声は、もう迷っていなかった。



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