第3話 選ばされる側
「——恭介様」
静かに呼ぶ。
「俺は当主だよな、一応」
「では、お尋ねいたします」
一歩、距離を詰める。
「こちらの空白を、“問題”と見なされますか?」
「は?」
予想外の問いに、恭介は眉を寄せた。
「問題って……そりゃ問題だろ。記録が抜けてるんだぞ?」
「では、その“抜けていること”自体が問題でございますか」
「……どういう意味だよ」
藤堂は答えない。
代わりに、ゆっくりと帳簿に手を伸ばした。
しかし触れはしない。
距離を保ったまま、空白を見つめる。
「記録とは、本来“残すためのもの”でございます」
「当たり前だろ」
「はい。ですが同時に、“残さないためのもの”でもございます」
沈黙。
恭介は顔をしかめた。
「意味分かんねえよ」
「必要なものだけを残す」
藤堂は静かに言った。
「それが、記録でございます」
その言葉に、空気がわずかに冷えた気がした。
「……じゃあ何か?」
恭介の声が低くなる。
「これは“消された”んじゃなくて、“残されなかった”ってことか?」
「そのように解釈することも可能でございます」
肯定とも否定とも取れない言い方。
「ふざけんな!」
恭介は帳簿を閉じた。
乾いた音が、書庫に響く。
「そんな都合のいい話あるかよ」
「都合、でございますか」
「記録ってのはな、“あったこと”を書くもんだろ」
「はい」
「じゃあなんで“なかったこと”みたいにするんだよ」
藤堂は、ほんの一瞬だけ沈黙した。
それは、これまでで一番長い間だった。
「——必要であったからでございます」
その声は、わずかに低かった。
恭介は何も言わない。
言えなかった。
その“必要”が何なのか、聞くべきかどうか。
分からなかった。
「……誰が決めた」
ようやく出た言葉。
藤堂は答えない。
代わりに、視線をわずかに外した。
ほんのわずか。
だが、それで十分だった。
「……ああ、なるほどな」
恭介は小さく息を吐いた。
「今のは言えないって顔だ」
「申し訳ございません」
謝罪はする。
だが、引かない。
「恭介様には、まだ早うございます」
その一言が、静かに落ちた。
書庫の空気が、また一段重くなる。
「……またそれかよ」
恭介は苦笑した。
だが、笑えていない。
「“まだ”ってなんだよ。俺は当主だぞ」
「はい」
即答。
「ですので、“いずれ”お分かりになります」
「今じゃダメな理由は?」
「ございます」
間を置かずに返る。
「今は、“選ばされる”からでございます」
その言葉に、恭介は眉をひそめた。
「選ばされる?」
「はい」
藤堂は静かに言った。
「誰かの意図の中で」
その瞬間。
ヴァレリーの尻尾が、ぴたりと止まった。
「……ほう」
小さく、呟く。
恭介はそちらを見る。
「なんだよ」
「いや」
ヴァレリーは目を細めた。
「面白くなってきたな」
「面白くねえよ」
「そうか?」
軽く言う。
だがその目は、どこか遠くを見ていた。
「匂いが強くなった」
「だから何の匂いだよ」
「古い匂いだ」
同じ言葉。
だが、今度は少しだけ重い。
「そして」
ほんのわずか、間を置く。
「まだ“動いている匂い”だ」
その一言で、
恭介の背筋に、薄く何かが走った。
「……は?」
「過去ではない、ということだ」
ヴァレリーは静かに言った。
「これは、“今も続いている”」
沈黙。
書庫の奥で、何かが軋んだ気がした。
気のせいかもしれない。
恭介は背中がぞくりとした。
「……やめろよ」
恭介はぼそりと呟く。
「そういうの」
「事実だ」
「確認できねえだろ」
「できる」
即答。
恭介は顔を上げた。
「どうやって」
ヴァレリーは、ゆっくりと振り返る。
その目は、まっすぐだった。
「探せばいい」
単純な言葉。
だが、逃げ道はない。
恭介はしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……分かったよ」
帳簿を持ち直す。
「やるしかねえんだろ、これ」
「ようやく理解したか」
「うるせえ」
軽く言い返す。
だがその声は、さっきより少しだけ固かった。
「藤堂」
呼びかける。
「はい」
「これ、借りるぞ」
帳簿を軽く持ち上げる。
藤堂は一瞬だけ目を細めた。
ほんのわずかに。
「……かしこまりました」
そして、静かに頭を下げた。
その動作の中に、ごく微細な“ためらい”が混じっていた。
恭介はそれに気づかない。
しかし、ヴァレリーは見ていた。
「……」
何も言わない。
ただ、尾をゆっくりと揺らす。
書庫を出ると、廊下の空気は軽かった。
それでも、背中にはあの冷気が残っている。
「なんか……疲れた」
「何もしていないだろう」
「精神的にだよ」
恭介はぼやきながら歩く。
帳簿の重さが、紙のそれではないように感じられた。
その後ろを、ヴァレリーが静かについてくる。
「なあ」
「なんだ」
恭介は帳簿を軽く叩いた。
乾いた音が、やけに廊下に響く。
「どこまで続いてると思う?」
ヴァレリーはわずかに考え、
「分からん。……短くはないな」
とだけ言った。
「おい」
思わず声を上げるが、返事はない。
黒猫はすでに前を歩いている。
「お前ってそういうヤツだよな……」
ため息とともに肩を落とす。
その肩に、まだ書庫の冷たさが残っていた。
同じ頃。
陽の差し込まない静かな一室。
ヴヴヴッ
机の上の端末が、短く震えた。
画面に浮かぶのは、ただ一言。
『書庫』
やがて通話が接続される。
「……藤堂でございます」
低い声が落ちる。
『動いたか』
応じる声は、乾いていた。揺れがない。
藤堂は、ほんのわずかに目を伏せる。
「はい。予定通りに」
短い沈黙。
『ならば、よい。家が乱れぬうちにな』
それだけ告げて、通話は切れた。
静寂が戻った。
書庫の奥。
誰もいないはずの棚の間で、紙がかすかに揺れた。
そこには、何も書かれていない。
ただの空白。
だが、それは確かに、新しく作られた空白だった。




