第2話 封印された棚
ヴァレリーは迷いのない足取りで中を歩いていった。
「おい、なんで分かるんだよ」
「匂いだ」
「便利だなそれ……」
「不便でもある」
短く答える。
棚が並ぶ奥の方で、藤堂が静かに待っていた。
背筋を伸ばし、手には古い鍵束。
「お待ちしておりました」
「……なんでそんなに早いんだよ」
「仕事でございますので」
相変わらずの無駄のなさだ。
恭介は内心でため息をついた。
藤堂が鍵束から一本を選び、書庫のさらに奥――封印されていた棚の前に立つ。
「こちらでございます」
「ここ、前に開けたことあったっけ?」
「ございません。先代様のご意向で、長らく閉じられておりました」
恭介は眉をひそめた。
(じいさんの……?)
ヴァレリーが棚の前に歩み寄り、鼻先をわずかに動かした。
「……匂うな」
「またそれかよ。何が匂うんだよ」
「古いものだ。お前の知らない“家の匂い”だ」
「オカルトはやめてくれ」
恭介はぞくりとした。
寒さではない。
胸の奥を指でなぞられたような、妙な感覚。
藤堂が鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
金属が軋む音が、書庫の静寂に沈んだ。
「開きます」
扉がわずかに揺れ、長い間閉ざされていた空気が、ふっと漏れ出した。
古い紙の匂い。
埃の匂い。
そして――
(……なんだ、この感じ)
恭介は思わず息を呑んだ。
ヴァレリーが低く言う。
「ようやく、始まるか」
恭介は意味がわからず、ただ棚の奥を見つめた。
そこには、古い帳簿が静かに眠っていた。
古い帳簿が並んでいる。
背表紙は擦り切れ、年代を感じさせる。
恭介が一冊を引き抜く。
重い。
思った以上に。
「いつのだ、これ……」
表紙を開く。
整った筆跡。
古い日付。
そして――
ページをめくる。
その途中で、指が止まった。
「おい」
声が、少し低くなる。
「なんだ」
「これ……」
そこには、不自然な空白があった。
書かれているはずの場所に、何もない。
だが――
ただの空白ではない。
消されたような、最初から“抜けている”ような、妙な違和感。
「……同じだな」
ヴァレリーが言う。
恭介は何も言わない。
ただ、ページを見つめている。
「しかも」
ヴァレリーの尻尾が、ゆっくり揺れた。
「癖まで同じだ」
「癖……?」
「人間はな」
静かに言う。
「消し方に、癖が出る」
恭介は息を呑んだ。
「じゃあ、これ……」
「一度ではない」
即答だった。
「繰り返されている」
書庫の空気が、わずかに重くなる。
恭介はゆっくりと帳簿を閉じた。
「……いつからだ」
ヴァレリーは答えない。
ただ、静かに言った。
「お前の知らない頃からだ」
「その帳簿は」
藤堂が立っていた。
いつもの無表情。
いつもの立ち姿。
けれど、ほんのわずかに、目が細められている。
静かな声。
「先代様の、さらに前のものでございます」
恭介は帳簿を握ったまま言った。
「なあ、藤堂」
「はい」
「これ、なんだ?」
一瞬の、間。
ほんのわずか。
だが、確かにあった。
「……さて」
藤堂は微笑んだ。
「少々、古い話になります」
藤堂の声は、いつもと変わらなかった。
静かで、揺れがない。
その“変わらなさ”が、かえって不自然に思えた。
「どのくらいだよ」
恭介は帳簿を持ったまま言う。
「先代様――実淳様の、さらに前でございます」
「……じいさんの、親父の代か」
「はい」
藤堂はある棚の前に移動した。
足音は、やはりしない。
「この辺りの記録は、すべてこちらに保管されております」
「全部、見てるのか?」
「職務でございますので」
淡々とした返答。
だが恭介は、その言葉の奥を測ろうとする。
「じゃあ、これも分かるだろ」
帳簿を開き、空白のページを示す。
「これ、なんだ?」
藤堂はすぐには答えなかった。
ほんのわずか、視線を落とす。
それだけで、十分だった。
「……やっぱり、知ってるんだな」
「“存じている”と言うべきか、“推測している”と言うべきか」
曖昧な言い方。
はぐらかしているわけではない。
だが、踏み込ませない距離を保っている。
「どっちでもいい」
恭介は短く言った。
「説明しろよ」
藤堂は、ほんの少しだけ目を細めた。
その表情は、いつもよりわずかに“人間的”だった。
「——恭介様」




