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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高橋 なぎ
第7章 初夏の影
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第1話 書庫

書類の束の上に、沈黙が落ちた。


「……これ、俺のじゃないよな」


恭介はもう一度、その決裁書類を見直した。

紙質は同じ。書式も同じ。印影も違和感はない。

だが――空白だけが、妙に浮いている。


「混ざった、という感じでもないな」


ヴァレリーが淡々と言う。

机の上に前足を揃え、書類を覗き込んでいる。


「じゃあ何だよ」


「最初から、そこにあった」


「いやいや、そんなわけ――」


言いかけて、止まる。


“そんなわけがない”


と、言い切れない。

恭介は小さく息を吐いた。


「……藤堂に聞くか」


「やめておけ」


即答だった。

恭介が顔を上げる。


「なんでだよ」


「今のあれは、“知らないふりをしている顔”だ」


「……」


言われて、思い返す。

いつもと変わらない無表情。

だが、ほんの一瞬――何かを測るような間があった。


「……見間違いじゃないのか」


「お前は、人間を見るのが下手だな」


「猫に言われたくない」


ヴァレリーは小さく鼻を鳴らした。


「匂いがする」


「またそれか」


「新しくない。……古い」


その言葉に、恭介はわずかに眉を寄せた。


「古い?」


「お前の知らない“家の匂い”だ」


さらりと言われる。

だが、その一言だけが、妙に引っかかった。


――知らない。


当主になってから、しばらく経つ。

それでもなお、“知らない”と言われるものがある。


「……気持ち悪い言い方すんな」


「事実だ」


ヴァレリーは尻尾を一度だけ揺らした。


「探すか?」


「何を」


「その空白の、元をだ」


恭介は書類に視線を落とす。

空白。

書かれていないはずなのに、

何かが“あった”としか思えない空白。


「……あるのか?」


「ある」


即答。


「こういうものは、突然生まれたりしない」


ヴァレリーはゆっくりと机から降りた。


「積もる。残る。繰り返す」


扉の方へ歩き出す。


「おい、どこ行くんだ」


「決まっている」


振り返りもせず、言う。


「一番古いところだ」




屋敷の奥。

普段はほとんど使われない廊下は、昼だというのに薄暗い。

足音が、やけに響く。


「こんなとこあったっけ……」


「お前が来ないだけだ」


「当主なんだけど俺」


「だからだ」


意味が分からない。

恭介は小さく舌打ちした。

廊下の突き当たり。

重たい扉がある。


「ここか?」


ヴァレリーは答えない。

ただ、扉の前で止まった。

しばらく、動かない。


「……どうした」


「……濃いな」


低く、呟く。


「何がだよ」


「時間だ」


ヴァレリーが、ゆっくりと扉に前足をかけた。


「開けろ」


「はいはい、開けますよ……なんで俺がこれをやるんだよ」


「当主の仕事だからだ」


足元で黒猫――ヴァレリーが、当然のように言った。

鍵尻尾がゆらりと揺れる。


「当主って便利な言葉だよな……」


「便利に決まっている。人間は言葉で自分を縛る生き物だ」


「怖ぇこと言うなよ」


恭介は鍵を回しながら小さくぼやいた。

金属の擦れる音が、静かな廊下にやけに響く。

恭介は書庫の扉に手をかけた。

書庫の扉はなぜか重い。

扉を押し開けると、ひんやりとした空気が流れ出た。

書庫特有の古い紙の匂いが鼻をくすぐる。


(……なんか、冷たくねぇか?)


恭介は肩をすくめた。

中は思ったより広い。

棚がいくつも並び、帳簿や書類が整然と収められている。

埃は少ない。

管理はされている。


だが――


「……なんか、落ち着かないな」


理由は分からない。

ただ、静かすぎる。


「当然だ」


ヴァレリーが中へ入っていく。


「ここは、“残す場所”だからな」


「残す?」


「忘れないために」


その言い方が、妙に引っかかった。

ヴァレリーは棚の間を迷いなく進む。

まるで、場所を知っているかのように。

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