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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高橋 なぎ
第7章 初夏の影
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プロローグ 決裁書類

赤みがかった灰色の石を積んだ英国風の洋館は、今日もやけに立派だった。

庭ではバラと躑躅が競うように咲き誇り、目に痛いほど鮮やかだ。


(……こんな庭、誰が手入れしてんだよ)


豪奢でありながら無駄のない執務室には、窓越しに晩春の陽射しが差し込んでいる。

暖かい光は、書類の山と戦う当主にはあまりにも優しすぎた。


(春眠暁を覚えず……って誰の言葉だっけ)


上の瞼と下の瞼が仲良くなりかけるのを、恭介は必死でこらえた。

机の上には、今日も変わらず書類の山。

毎月処理しているはずなのに、なぜか減らない。


「手を動かせ」


窓際で日向ぼっこをしていた黒猫――ヴァレリーが、片目だけ開けて言った。


「なぁ……」


「サインをするだけにしてある」


文句を言う前に先手を打たれ、恭介は項垂れた。

これでも“減らしてある”という事実が、余計に心を折る。


祖父(じい)さん、どれだけこなしてたんだよ……)


想像するだけで背筋が寒くなる。


(やっぱ、慣れねぇ……)


「お茶でございます」


足音も気配もなく現れた家令の藤堂が、恭介の前に紅茶を置いた。

ふわりと立ちのぼる香りが、眠気をさらに誘う。

ヴァレリーが前足を伸ばして体を起こし、後ろ足で耳の裏を掻く。

舞い上がった黒い毛が陽光を受けてきらりと光った。

藤堂の細い目が、わずかに光る。


「ヴァレリー様」


「なんだ」


(この空気……前にもあったな。確か、あれは……予防接種……)


恭介は自然と身構えた。

藤堂が胸元に手を入れる。


「藤堂」


ヴァレリーが身を低くする。


「失礼いたします」


藤堂が取り出したのは、銀色の櫛だった。

それをヴァレリーの体に沿わせると、黒い毛がごっそりと抜け落ちる。

恭介は目を丸くした。


「お前、嫌に大人しいな」


ヴァレリーはちらりと恭介を見た。

櫛には抜けた毛が山のように付いている。


「禿げるんじゃないか?」


「猫だから問題はない」


「換毛期でございます」


藤堂が淡々と答え、抜けた毛を丁寧にハンカチへ包む。


「……まさかお前、換毛期を知らないわけじゃないだろうな?」


ヴァレリーが胡乱げな目を向ける。


「……」


恭介は視線を逸らした。


「衣替えのようなものでございますよ。……ヴァレリー様、明日もブラッシングさせていただきます」


「ああ、頼む」


藤堂は櫛をしまい、足音もなく部屋を出ていった。

恭介は何か言われる前に、手元の書類へ視線を落とす。

その中の一枚に、違和感があった。


「……ん? おい、これ……」


「なんだ?」


ヴァレリーが机に飛び乗り、書類を覗き込む。

不自然な空白。

整えられているようで整えられていない書類。

そして――不自然な空白。

——見覚えがある。

けれど、思い出せない。

ヴァレリーの鍵尻尾が揺れた。


「……始まったか。やれやれ、かくも人間とは面倒な」


恭介の胸の奥に、ひやりとした感覚が落ちた。


(……また、か)


静かな午後に、影がひとつ落ちた。


第7章を書き始めることができました。ありがとうございます。プロローグと第1話を同時投稿していましたが、書き溜めがちょっと不安でして、今回より1話投稿とさせていただきたいと思います。すみません。

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