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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高橋 なぎ
第6章 葉桜
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第2話 ちぐはぐな記録

本邸の書斎は、静かだった。

窓の外では、散りきらなかった桜が風に揺れている。

淡い花弁が、ゆっくりと地面へ落ちていった。


「……で」


千束恭介は椅子に深く座り込みながら言った。


「事故じゃないんだろ?」


「断定はしていない」


机の上の帳簿に目を落としたまま、ヴァレリーが答える。

器用にも前足でページをめくっている姿に、


(…こいつは、ますます猫じゃねぇ…)


と、恭介は思った。

 

「だが、整いすぎている」


「またそれか」


恭介は頭をかく。


「整ってるのがダメって、どういう理屈だよ」


「自然ではない、ということだ」


藤堂が、静かに別の帳簿を差し出した。


「こちらが、過去の記録でございます」


古い紙の匂いがする。

恭介はそれをめくった。


「あー」


思わず声が漏れた。


「雑だな」


書きなぐったような数字。

もはや日本語なのかも怪しい判読不明な文字。

書き直しの跡。

わずかにずれた行。


「これが普通だ」


ヴァレリーが言う。


「人間の記録は、こうなる」


「でもさ」


恭介は、問題の帳簿を指で叩いた。


「こっちはやけに綺麗だったぞ」


「その通りでございます」


藤堂が頷く。


「まるで——」


「「最初から、何もなかったように」」


言葉が重なる。

恭介は顔を上げた。


「……それ、どういうことだ?」


「削ったのではない」


ヴァレリーが静かに言う。


「“最初から書かれていない”形に整えられている」


「いや、それって……」


言葉が続かない。


(そんなこと、できるのか?)


「可能でございます」


藤堂が穏やかに答えた。


「記録は、後からでも整えられます」


「でもさ」


恭介は眉をひそめる。


「今どき帳簿って普通データじゃねぇの?」


藤堂は、わずかに目を細めた。


「ええ。一般的には、その通りでございます」


「ですが、先代様は——」


一瞬、言葉を選ぶように間を置く。


「電子記録は“いくらでも整えられる”とお考えでした」


「整えられる?」


「書き換えも、削除も、痕跡を薄くすることも可能でございます」


恭介が目を微かに開いた。


「その点、手書きは違います」


静かに、帳簿へ視線を落とす。


「一度外に出せば、戻りません」


「誤りも、癖も、そのまま残る」


ヴァレリーが、ゆっくりと尾を揺らした。


「だからこそ——嘘をつきにくい」


「はい」


藤堂が頷く。


「ゆえに先代様は、必ず手書きでの提出を求めておられました」


恭介は、帳簿を見下ろした。


(……だから、あれは、変だったのか)


「人間は」


ヴァレリーが静かに言う。


「消せるものほど、信用する」


一拍の間を開け、


「そして、残るものほど、恐れる」


「……怖ぇこと言うなよ」


恭介は小さく呟いた。

しばらく、沈黙。

紙をめくる音だけが響く。


「神代さんだっけ…」


ふと、恭介が口を開く。


「……あの人さ、やたら正確だったよな。時間とか、全部ぴったりで」


「印象操作だ」


ヴァレリーが即座に答える。


「“誤りがない”と見せるためのな」


「でも、それって逆に変じゃねぇか?」


「その通りだ」


黒い瞳が、わずかに細まる。


「人間は、そこまで綺麗に揃えられない」


恭介は小さく頷いた。


「やれやれ、やっと頭を使うようになったか」


「ほっとけよ」


そのとき。

藤堂が一枚の紙を差し出す。


「こちらをご覧ください」


別邸の管理記録。


「……あれ?」


恭介が目を細める。


「ズレてる」


「どこがだ」


「巡回の時間と、あの人の話……微妙に合ってない」


ヴァレリーが満足そうに眼を細めた。 


「三分」


ヴァレリーが言う。


「その三分が、不自然だ」


「でも、それくらい誤差じゃねぇの?」


「問題は誤差ではない」


藤堂が静かに言う。


「“誤差がないように見せている”ことが問題なのです」


恭介は言葉を失った。


(……ああ)


「わざと、整えてるのか」


「そうだ」


ヴァレリーが短く答える。

沈黙。

恭介は、帳簿を見つめたまま呟いた。


「……なんで、そこまでやるんだよ」


その問いにヴァレリーはすぐには答えなかった。

代わりに、藤堂が静かに言う。


「崩したくないものが、あるのでしょう」


「……崩す?なにを?」


「評価、でございます」


恭介の脳裏に、神代の姿が浮かぶ。

無駄のない動き、正確な言葉、揺れない表情。


「ひとは”あの人はミスをしない”という周囲の評価に縛られます」


「そして、一度の綻びで、すべてを失うと思い込むのが、人間だ」


恭介は、何も言えなかった。


「だから整える」


ヴァレリーが続ける。


「記録も、行動も——事実さえも」


窓の外で、桜がひとひら落ちた。


(……あれ)


恭介の中で、何かが繋がる。


「……事故じゃないな」


ぽつりと呟く。


ヴァレリーは、わずかに目を細めた。


「ようやく、そこまで来たか」


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