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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高橋 なぎ
第6章 葉桜
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 プロローグ 桜のあとで

桜は、もう半分ほど散っていた。

一条寺家の庭に植えられた華加賀美は、盛りの頃の華やかさを少しだけ残しながら、風に乗って静かに花弁を落としている。


「……掃除、大変そうだな」


テラスの椅子に深く腰をかけながら、千束恭介は呟いた。

白いテーブルクロスの上には、いつものように三段のケーキスタンド。

サンドウィッチにスコーン、小ぶりなケーキが整然と並んでいる。


「風情というものだ」


向かいから、落ち着き払った声。

香箱座りの黒猫——ヴァレリーは、紅茶の香りを確かめるように鼻先をわずかに動かしていた。


「風情ねぇ……」


ひとつため息をつく。


(やっぱ慣れねぇ)


当主、という立場にも。

この妙に整いすぎた空間にも。


「その顔は不満そうだな」


「そりゃそうだろ。落ち着かねぇんだよ、全部」


「結構なことだ」


「なんでだよ」


「慣れてしまえば、それが当たり前になる」


ヴァレリーは淡々と言う。


「人間は、そうやって自分の感覚を上書きする」


「……怖ぇこと言うなよ」


恭介が顔をしかめたときだった。


「お茶のおかわりをお持ちいたしました」


静かな声とともに、藤堂が現れる。

いつものように隙のない所作で、ティーポットを傾ける。


「本日は、少し軽めのブレンドにしております」


「軽め?」


「はい。余韻を邪魔しないように」


そう言って、カップを差し出す。


(余韻ってなんだよ……)


受け取りながら思うが、口には出さない。


「そういえば」


恭介はふと思い出したように言った。


「この前の帳簿さ」


ピクリとヴァレリーの黒い耳が動いた。


「空白、あったよな」


藤堂の手が、わずかに止まる。


ほんの一瞬。


だが、すぐに元に戻る。


「ええ」


穏やかな声。


「確認いたしました」


「やっぱ変だよな?」


「そうですね」


藤堂は曖昧に微笑む。


「けれど、単なる記入漏れであれば、問題はございません」


「“単なる”って感じじゃなかっただろ」


恭介が眉を寄せる。


「あれ、綺麗すぎたぞ」


空白が。

抜けているというより、最初から何もなかったみたいに。


「……ほう」


ヴァレリーが小さく声を漏らす。


「気づいたか」


「いや、なんとなくだけどな」


恭介は肩をすくめる。


「普通さ、抜けるならもっと雑になるだろ?インクの跡とか、書き損じとか……」

 

恭介は考えるように一拍置く

 

「なのに、あそこだけやけに——」


「整っていた」


ヴァレリーが言葉を引き取る。

一瞬、沈黙が落ちた。


風が吹く。

花弁が、カップの縁に触れて落ちた。


「人間はな」


ヴァレリーが静かに言う。


「記録を残す生き物だ」


「でもさ、それ普通だろ?」


「問題はそこではない」


黒い瞳が、わずかに細められる。


「人間は——」


ヴァレリーは恭介にわからぬように藤堂へ視線を向けた。


「見たい形に整える」


恭介は、思わず口をつぐんだ。


「都合のいい部分だけを残し、そうでないものは削る」


「……編集ってやつか?」


「美しい言い方だな」


ヴァレリーは鼻を鳴らした。


「ですが」


静かに、藤堂が口を開く。


「その“整え”が過ぎる場合」


いつもの笑みを向ける。 


「それは、記録ではなくなります」


恭介は顔を上げた。


「じゃあ、なんなんだよ」


藤堂は、ほんのわずかに目を伏せる。

そして。


「意図、でございます」


その言葉は、やけに静かに響いた。

しばらくして。

一人の使用人が足早に近づいてきた。


「藤堂様」


「別邸の件で、ご連絡が」


藤堂が視線を向ける。


「申してみなさい」


「管理を任せている者が……その……」


言い淀む。


「転落事故、とのことで……」


空気が、わずかに変わった。


「……それで、怪我は?」


恭介が聞く。


「いえ……」


使用人は首を振った。


「既に……」


言葉は、そこで途切れた。

沈黙。


「事故、か」


恭介が低く言う。


「そういうことになります」


藤堂が答える。


「ですが」


わずかに間を置いて。


「一度、ご確認いただくのがよろしいかと」


視線が、恭介に向く。


「当主として」


「……またそれかよ」


小さくぼやく。


「行くしかねぇんだろ?」


「はい」


即答だった。

ため息をひとつ。


「……わかったよ」


立ち上がる。

椅子の上で、ヴァレリーがゆっくりと体を起こした。


「匂うな」


「は?」


「記録と、事故」


椅子から飛び降りる。


「都合が良すぎる」


恭介は眉をひそめた。


(またかよ)


だが。


胸の奥に、あの感覚が戻ってくる。


——何かが、少しだけずれている。


風が吹いた。

桜が、一輪。

静かに、落ちた。


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