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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高橋 なぎ
第5章 桜の季節
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5第2話 見えない手

ざわめきは、なかなか収まらなかった。

倒れた顧問はすぐに運び出され、応急処置が施されている。

医師も呼ばれたらしい。

それでも、場の空気は戻らない。


(……毒、か?)


千束恭介は、少し離れた場所からその様子を見ていた。

胸の奥に、妙な引っかかりが残っている。


(何が引っかかった?)


グラス。

動き。

間。

どれも決定打ではない。

だが、どこかズレている。


「顔に出ているぞ」


横から、低い声。

ヴァレリーだった。


「……何がだよ」


「考えている顔だ」


「そりゃ考えるだろ、あんなの見たら」


恭介は苛立ち混じりに言う。


「毒だろ、あれ」


「おそらくな」


「……はっきりしねぇな」


「断定するには早い」


ヴァレリーは視線を動かす。

人の流れ。

ざわめきの中心。

その外側。


「だが――本命ではない」


「は?」


「目を引くための動きだ」


その一言で、空気が変わる。


(……じゃあ、何が本命だ?)


視線が、屋敷へ向く。

さっきの男。

混乱から離れて――中へ入った。


「……あいつだ」


ヴァレリーは何も言わない。

ただ、尾を一度だけ揺らした。

 



——その頃。


藤堂は、ざわめきの外縁に立っていた。

倒れた顧問を一瞥する。

一瞬。

それだけで、十分だった。


(……なるほど)


目を伏せる。


「こちらへ」


近くの使用人に声をかける。


「裏手の動線を、少し整理しておきましょう」


「は……?」


「念のためでございます」


穏やかな声音。

だが、逆らう余地はない。


「……承知しました」


使用人が去る。

藤堂は顔を上げる。

人の流れ。

視線。

空白。


——そして。


ほんのわずかに、輪から外れた人物。


「……」


何も言わない。

だがその目の奥で、何かが定まる。


(まだ、動く段ではない)


「整えましょう」


静かに呟いた。





桜は、嫌いだ。

あまりにも無防備に、咲きすぎる。


——散るくせに。


庭に人が溢れている。

笑い声。グラスの音。

祝福の言葉。

全部、上滑りだ。


(滑稽だな)


あの家の何を知っている。

あの帳簿に何が書かれているかも知らずに。

私はグラスを持ち上げる。

指先は、わずかに震えていた。


——落ち着け。


計画は完璧だ。

毒は致死量ではない。

騒ぎを起こすには十分。

その隙に帳簿を回収する。

それだけだ。


「——失礼」


標的の男が、グラスに口をつける。


一拍。


二拍。


喉を押さえ、崩れ落ちた。

悲鳴。

ざわめき。

人の流れが歪む。


(……よし)


私は視線を切る。

誰もこちらを見ていない。

当然だ。

誰も“ここ”を見ていない。


——今だ。


屋敷の中へ入る。

廊下は静かだった。


(鍵は……)


知っている。

この家のことは、知り尽くしている。


——なのに。


(……?)


わずかな違和感。


(気のせいだ)


開く。

問題ない。

中に入る。

帳簿は――あった。


(簡単すぎる)


私は帳簿を手に取る。


(終わった)


だが……


——妙だ。


静かすぎる。


(人が……いない?)


外へ出る。


——出られない。


裏口。

開かない。


(なぜだ)


「何か、お困りですか」


背後から声。

振り向く。

一条寺家の家令が静かに立っていた。


「その帳簿、お持ちのままで結構でございます」


穏やかな声。


だが――


(まずい)


私は走る。

が、

曲がるたびに、塞がれる。


(誘導されている?)


違う。

そんなはずはない。

外へ。


桜。


その先に――警察。

足が止まる。


「……どうしてだ」


「簡単でございます」


家令が笑みを浮かべた。


「あなた様が、“そう動くように”整えただけでございます」


(最初から……?)


「いえ、確信したのは、途中からでございます」


——嘘だ。


(最初からだ)


私は――

捕まっていた。


——あの黒猫は、最初からこちらを見ていた。

まるで、すべてを知っているかのように。




廊下は、外の喧騒が嘘のように静かだった。

藤堂はゆっくりと歩く。


「こちらは通行を控えてください」


使用人に告げる。

視線を流す。

扉。

窓。

鍵。


——ひとつ。


わずかに指をかける。


「……」


そのまま手を離す。


(これでよい)


「急がずとも、間に合います」


小部屋。

藤堂は棚の前に立つ。

帳簿を、わずかに整える。


「人は、見たいものを見るものです」


足音が近づく。

藤堂は振り返らない。

そのまま部屋を出る。


「……あった」


恭介が足を止める。

扉の隙間。

中に、人影。


(あの男……!)


「——行くぞ」


ヴァレリーが低く言う。


(……間に合うのか?)


遠くで、サイレン。


(なんで、もう来てるんだ……?)


胸の奥に、確信に近い違和感が形を取る。


(……これ)


ただの事件じゃない。

——仕組まれてる。

恭介は、無意識に駆け出していた。


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