5第1話 桜下のざわめき
その日、一条寺家は“よそ行きの顔”をしていた。
門から玄関へと続く石畳は磨き上げられ、庭木には控えめな照明が仕込まれている。
華加賀美の桜は、まるでこの日のために咲き誇っているかのようだった。
淡紅色の花弁が風に揺れ、ひとひら、またひとひらと舞い落ちる。
(……場違いだろ、どう考えても)
千束恭介は、借り物のようなスーツの襟元を指でつまみ、小さく息を吐いた。
玄関ホールには、すでに人が溢れている。
見覚えのない顔ばかりだ。
だが、そのどれもが“こちらを値踏みしている”ように見える。
政治家、実業家、文化人。
一条寺家と何らかの縁を持つ者たち。
その視線が、一瞬だけ恭介に集まった。
——新当主。
(やめてくれ……)
思わず視線を逸らす。
そのとき、背後から静かな声が落ちた。
「背筋をお伸ばしください、恭介様」
「……曲がってます?」
「ええ、心持ち」
振り向かなくてもわかる。藤堂だ。
「……これ以上伸ばしたら折れそうなんですけど」
「その場合は私が支えますので」
さらりと言われ、恭介は言葉に詰まる。
(この人、絶対楽しんでるだろ……)
恭介は、ざわめく会場の奥――人々の視線が自然と集まる位置を見て、足を止めた。
(……無理だろ、これ)
「……なあ」
小さく、後ろに声をかける。
「なんで俺が挨拶すんの?」
間を置かず、藤堂が答えた。
「当主ですので」
「ヴァレリーだって当主だろう」
「ヴァレリー様は、猫でございます」
(あんな偉そうな猫がいるか)
「なら、お前やれよ」
「私は執事でございます」
一歩も引かない声音だった。
(くそ……)
逃げ道を探すように視線をさまよわせる。
そのとき。
「恭介」
低く、静かな声。
ヴァレリーだった。
黒い瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
「覚悟を決めろ」
その声音には、いつもの皮肉はなかった。
——逃げ場はない。
そう言われた気がした。
恭介は小さく息を吐く。
(……やるしかない、か)
背筋を伸ばす。
「……わかったよ」
一歩、前へ出た。
パーティは滞りなく進んだ。
形式的な挨拶。
拍手。
言葉だけが滑っていくような応酬。
恭介自身、何を話したのかほとんど覚えていない。
ただ、大きな失敗はしていない——らしい、という感覚だけが残っている。
(……疲れた)
人の波から逃れるように、恭介はテラスへと足を向けた。
外の空気は、わずかに冷たく、心地よい。
桜は夜の気配を含み、昼間よりも深い色に見えた。
その下で、数人がグラスを手に談笑している。
何気なく視線を巡らせたときだった。
一人の男が、引っかかった。
年の頃は五十前後。
仕立ての良いスーツだが、どこか身体に馴染んでいない。
グラスを持つ手が、わずかに震えている。
(……緊張?)
いや、それだけではない。
男の視線は、庭ではなく屋敷へ。
人ではなく、配置を見るように動いている。
——何かを探している。
「気になるか」
すぐ横で、低い声。
ヴァレリーがいつの間にか隣にいた。
「……ああ。なんか、落ち着かないっていうか」
「当然だな」
ヴァレリーは男から視線を外さずに言う。
「ここにいる連中は、皆“見せている”」
「……は?」
「ならば、見抜く側に回ればいい」
それだけ言って、尾をゆらりと揺らす。
(いや、無理だろ……)
恭介は肩を落とした。
そのとき。
「——失礼」
男が、近くのテーブルへと歩み寄る。
そこには、一条寺家の古参顧問がいた。
穏やかな老人で、実淳の代から家を支えてきた人物だ。
男は自然な動作でグラスを差し出す。
顧問はそれを受け取った。
一拍。
二拍。
——違和感。
何かが、引っかかる。
顧問がグラスに口をつける。
次の瞬間。
その身体が、崩れた。
「——っ!?」
グラスが砕ける音。
切り裂くような悲鳴。
空気が、一瞬で歪む。
「先生!?」
「どうしたんだ!?」
人が押し寄せる。
恭介は一歩踏み出しかけて——止まった。
(……今の、何か……)
頭の奥に、わずかな引っかかりが残る。
そのとき。
「行くな」
低く、はっきりとした声。
ヴァレリーが恭介を制した。
「……でも」
「いいから、見るな」
珍しく、強い口調。
その視線は、倒れた顧問ではなく——
先ほどの男を追っていた。
男は、混乱の輪から一歩だけ距離を取っている。
駆け寄るでもなく、慌てるでもなく。
——離れている。
やがて、視線を切る。
そして。
屋敷の中へと、静かに歩き出した。
(……なんで、あっちに行く?)
胸の奥がざわつく。
「恭介」
ヴァレリーが名を呼ぶ。
「……ああ」
言われなくても、わかる。
これは——偶然じゃない。
事件だ。
桜が、ひとひら落ちた。
その少し後ろで。
藤堂が、誰にも気づかれぬまま、静かに視線を動かしていた。
——盤面が、整い始めていた。




