第5話 雪
警察の現場確認が終わり、
部屋の前の廊下はようやく静かになった。
宿の従業員と他の客はロビーへ移され、
警察官も一人を残して階下に降りていった。
真島の部屋には、今は恭介だけが立っていた。
窓から冬の光が差し込んでいる。
昨夜の吹雪が嘘のように、空は澄んでいた。
だが外は一面の白だった。
深い雪。
雪明りがまだ残るような、眩しい白さだった。
恭介は息を吐いた。
「……信じられないな」
ベッドを見る。
真島は、まるでまだ眠っているようだった。
昨夜、宴会場で笑っていた顔が、頭に浮かぶ。
そのとき。
足元で黒い影が動いた。
ヴァレリーだった。
黒猫は静かに部屋を歩き回っている。
恭介は小声で言う。
「おい。何かわかるか?」
ヴァレリーは答えない。
ただ窓の前で立ち止まり、ガラスを見上げた。
恭介も近づく。
窓は、びっしりと曇っていた。
水滴がガラス全体に広がっている。
まるで霧の膜が張られているようだった。
「……すごいな」
恭介は指でガラスを触る。
冷たい。
「暖房のせいか?」
ヴァレリーが首を振った。
「違う」
短く、はっきりと言う。
恭介は眉を寄せた。
「違う?」
ヴァレリーは部屋を見回した。
テーブル。
ベッド。
壁。
そして部屋の隅にある加湿器。
猫はその前に歩いていく。
加湿器はまだ動いていた。
コポ……。
水の切れる音。
タンクはほとんど空だった。
「最大だ」
ヴァレリーが言う。
「乾燥対策じゃないのか? 温泉宿だし」
恭介が言うと、ヴァレリーは答えず、今度はファンヒーターの前に座った。
古い型の石油ファンヒーター。
表示ランプがまだ点いている。
「警察も見てたな。異常なしって」
恭介が言うと、ヴァレリーはヒーターを見つめたまま言った。
「強い」
「え?」
「設定だ」
恭介は表示を見る。
確かに、運転は「強」になっている。
「……寒かったんじゃないのか」
ヴァレリーは静かに言った。
「そうだろうな。だが――それだけではない」
沈黙。
恭介は部屋の中央に立った。
なんとなく、落ち着かない。
何かが引っかかる。
だがそれが何なのか、まだ分からない。
耳を澄ませる。
廊下からは、遠くで誰かが歩く音。
階段の軋む音。
だが――
この部屋は妙に静かだった。
「……変だな」
恭介が言う。
ヴァレリーが振り向く。
「何がだ」
「音だよ。響かない」
恭介は壁を見る。
「廊下の音は聞こえるのに、この部屋……こもってる。空気が重い」
ヴァレリーの耳がわずかに動いた。
「ほう」
恭介は窓を見る。
白い結露。
そして窓の上。
小さな換気口。
「……換気」
恭介が呟くとヴァレリーは頷いた。
「空気だ。この部屋は、空気が動いていない」
恭介の胸がざわつく。
「どういうことだ」
ヴァレリーは窓の外を見た。
「外を見ろ」
恭介はカーテンを開けた。
眩しい光が入る。
庭は完全に雪に覆われている。
木々も石灯籠も、すべて白い。
「すごいな……昨夜の吹雪か」
ヴァレリーは言う。
「外へ出るぞ」
玄関から外へ出ると、空気は鋭く冷たかった。
吐く息が白く広がる。
真島の部屋の外壁まで歩く。
恭介は見上げた。
壁の上。
そこに小さな換気口がある。
そして――
その周囲には、厚い雪が張り付いていた。
「……塞がってる」
恭介が言う。
ヴァレリーは静かに答えた。
「空気が逃げない」
風が吹く。
雪がさらさらと舞った。
恭介は換気口を見つめた。
「じゃあ……部屋の空気は」
「減る」
ヴァレリーが短く言う。
「ヒーターは空気を使う」
恭介の背中に冷たいものが走った。
「まさか……」
ヴァレリーは雪を見た。
白い外壁。
張り付いた雪。
そして小さく言った。
「意図があるようで、ない」
恭介は振り向く。
「どういう意味だ」
ヴァレリーはしばらく黙っていた。
そして言う。
「事故とは言い切れない。だが――殺すつもりでもない」
風がまた吹いた。
雪が壁を滑り落ちる。
恭介は換気口を見上げた。
胸の奥に、ひとつの疑問が残る。
ヴァレリーが最後に言った。
「問題は――誰がヒーターを強くしたかだ」
白い雪明りの中で、その言葉だけが静かに残った。




