第2話 白峰館
山道に入ると、雪は一段と深くなった。
舗装された道の両脇には、背の高い杉が並んでいる。
枝の上に積もった雪が、ときどき風に落とされて舞った。
ワイパーが一定のリズムで動く。
シャッ。
シャッ。
窓は外気との気温差で曇っていた。
助手席のヴァレリーは丸くなっている。
「まだ着かないのか」
「もうすぐだ」
「寒い」
「車の中だぞ」
「気分の問題だ」
恭介は苦笑した。
カーナビの画面を見ると、山道の終点が近い。
やがて木々が途切れ、視界が開けた。
山間の鄙びた集落。
その先に、ひときわ大きな古民家が建っていた。
屋根には分厚い雪。
木造の柱と梁が外からも見える。
「ここか」
恭介は車を止めた。
玄関には木の看板が掛かっている。
白峰館
古い字だが、手入れは行き届いている。
「いい宿じゃないか」
ヴァレリーは外を見上げた。
「古い」
「褒めてるのか?」
「寒そうだ」
そのとき、玄関の戸が開いた。
「いらっしゃいませ」
年配の女性が頭を下げた。
柔らかい物腰の女将だった。
「お待ちしておりました。千束様ですね」
「はい」
恭介は軽く会釈した。
「お仲間の方々はすでにお見えですよ」
「もう来てるのか」
玄関に入ると、空気が一変した。
外の冷気が嘘のように消える。
「暖かい……」
恭介は思わず言った。
女将が微笑む。
「古い宿ですが、最近断熱を入れましてね。暖かいでしょう?」
確かに暖かい。
木造の古い建物なのに、空気が柔らかく保たれている。
ヴァレリーは床に降りると、すぐに辺りを見回した。
耳が動く。
天井近くの小さな格子の穴――換気口。
外気を取り込むためのものだが、雪の多い地域では塞がりやすい。
「……空気の穴」
恭介だけに聞こえる声。
「換気口かな」
女将がうなずいた。
「ええ。暖房を使いますので、空気の通り道なんです」
ヴァレリーはわずかに目を細めた。
「ふむ……雪がつきやすい形だ」
恭介は気づかない。
「お部屋はこちらになります」
廊下を歩く。
古い木の床が、静かにきしむ。
廊下の奥から、にぎやかな声が聞こえてきた。
「お、来た!」
ロビーの暖炉の前で、三人が振り向いた。
真島 実。
梶原 亘。
久我 雄二。
最初に立ち上がったのは真島だった。
昔と変わらない、明るい笑顔。
「恭介!久しぶり!」
「久しぶりだな」
握手する。
「相変わらず真面目そうな顔してるな」
「お前は相変わらず軽そうだ」
二人は笑った。
ソファに座っていた男が手を上げる。
「よう」
梶原だった。
学生時代より少し落ち着いた雰囲気だ。
「久我もいるぞ」
暖炉の横の椅子に座っていた男が、軽く会釈した。
久我。
無口で、昔からあまり表情を変えない。
「久しぶり」
「久しぶりだ」
そのとき、後ろから声がした。
「ほんと久しぶり!」
振り向くと、女性が立っていた。
佐伯恵子。
明るい笑顔は学生時代と変わらない。
「恭介くん、元気だった?」
「まあな」
佐伯の視線が、ほんの一瞬だけ恭介に留まった。
柔らかく、どこか言いたげに。
その柔らかさに、恭介は気づかない。
真島が笑う。
「メンバー全員集合だな」
「懐かしい」
暖炉の火がぱちぱちと音を立てている。
外の雪とは別世界の暖かさだった。
真島がスマートフォンを取り出す。
「そうだ、写真撮ろうよ」
「またSNSか?」
梶原が笑う。
「いいじゃん。思い出ってやつだ」
恭介は苦笑した。
そのとき。
ヴァレリーがテーブルの上に飛び乗った。
「猫?」
佐伯が身を乗り出す。
ヴァレリーは小さく鳴いた。
「ニャ」
その直後。
恭介の足元で低い声。
「この女はよく笑う」
恭介は慌てて咳払いをした。
「恭介くんの?」
「まあな」
「かわいい!」
真島がスマートフォンを向ける。
ヴァレリーはスマートフォンのカメラをじっと見た。
「ニャ」
恭介の耳元で、低い声がした。
「写真は嘘をつく」
その言葉に、暖炉の横の久我がわずかに眉を動かした。
しかし誰も気づかなかった。
梶原が吹き出した。
「面白い猫だな」
恭介は頭を抱えた。
「気にするな」
真島が笑う。
「うちのゼミ、昔から変わり者多いし、恭介の猫もそうか」
暖炉の火が静かに揺れている。
梶原がスマートフォンを取り出した。
「そうだ、これ見た?」
画面を皆に見せる。
真島と佐伯が並んで写っている写真。
佐伯が少し顔を赤くする。
「やだ、それ消してよ」
真島が笑う。
「なんでだよ。いい写真じゃん」
恭介が覗き込む。
「仲いいな」
真島がニヤリと笑った。
「よし、誤解されたな」
笑いが起きる。
そのとき。
梶原はスマートフォンを引っ込めた。
そして小さく言う。
「……誤解、ね」
恭介は聞き返す。
「ん?」
梶原はすぐ笑った。
「いや、なんでもない」
その笑顔は軽かったが、
スマートフォンを握る指だけが、少し強く力んでいた。
ぱちり、と暖炉の火が弾けた。
ヴァレリーの耳が動く。
(写真は)
恭介は黙ったまま暖炉を見つめた。
(よく人を誤解させる)
そして。
この暖かな宿で。
その夜、ひとつの死が起こることを――
まだ、誰も知らなかった。




