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黒猫ヴァレリーの事件簿  作者: 高橋 なぎ
第4章 雪明り
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第1話 気が乗らない旅

冬の朝の空気は、妙に澄んでいる。

窓の外は淡く白い光に満ちていた。

一条寺家の庭には、昨夜の雪が静かに積もっている。

低く刈り込まれた生垣も、石灯籠も、すべてが白い輪郭になっていた。

その静かな景色とは対照的に、書斎の机の上は戦場だった。

未決済の書類。

契約書。

封筒。

メモ。

千束恭介は、その中心で深くため息をついた。


「……やっぱ、気が重いな」


机の上にはスマートフォン。

画面には、大学時代のゼミ仲間――真島からのメール。

恭介は読み直した。


"久々に温泉でも行こうぜ。

久我、梶原、佐伯ちゃんはOK。

返事は明日までな"


添付された写真が二枚。

一枚は雪に包まれた古い温泉宿。

もう一枚は、仲良さそうに笑う真島と佐伯。

恭介は眉間を押さえた。


(……これ、絶対わざとだろ)


真島の距離感の近さは昔からだ。

佐伯の笑顔は柔らかい。

久我は真面目で、梶原は軽い。

――久々に顔を合わせると思うと、胃が重くなる。


「断るか……?」


ぼそりと呟いた瞬間。


「断るな」


低い声が落ちてきた。


「うおっ!」


恭介は椅子ごと跳ねた。

窓際の冬用ベッドの上で、黒猫がゆっくりと身体を起こしていた。

ヴァレリーである。

ついさっきまで丸くなって寝ていたはずなのに、

いつの間にかこちらを見ていた。


「人間は、過去に触れたがるものだ」


「だからって温泉旅行かよ」


恭介は額を押さえた。


「久々の集まりって、なんか気が重いんだよ」


ヴァレリーはしっぽを一度だけ揺らす。


「行け」


「理由を言えよ」


「猫だから、言わない」


「お前な……」


恭介が反論しかけたその時。

静かにドアが開いた。


「紅茶をお持ちしました」


藤堂だった。

相変わらず、気配がない。

白い手袋をした手で、音もなくティーカップを置く。


「大学時代のご友人からのお誘いですか」


「……聞いてたんですか」


「偶然、耳に入っただけでございます」


恭介は半目になった。

藤堂は平然としている。


「直前のキャンセルは、あまり感心いたしませんね」


「人間性の問題だな」


「ぐっ……」


恭介は言葉に詰まった。

藤堂は優雅に一礼する。


「いろいろとお疲れのご様子ですし。よろしければ、ゆっくりなさってください」


ヴァレリーが小さくあくびをした。


「ゆっくり休めればな」


恭介は顔をしかめる。


「変なフラグ立てるなよ、お前は」


藤堂は微笑んだ。


「ヴァレリー様もご一緒に?」


「連れて行く」


恭介が即答した。


「寒い」


ヴァレリーが即答で返す。


「雪は嫌いだ」


「猫だろ」


「だから嫌いだ」


恭介はぼそりといった。


「……一人で行くの、なんか気が重いんだよ」


沈黙。

ヴァレリーはしばらく考えたあと、仕方なさそうに言った。


「……やれやれ。面倒なやつだ」


「駄目か?」


「同行してやる」


恭介の顔が少し明るくなる。


「助かる」


藤堂は静かに微笑んだ。


「それでは、お車を準備しておきます」




玄関へ向かう途中、恭介はふと振り返った。

書斎では、藤堂とヴァレリーが窓辺に並んで外を見ていた。

雪が静かに積もっている。

藤堂が言う。


「お寒いのは苦手でしたね」


「嫌いだ」


ヴァレリーは尻尾を一度だけ動かす。


「ですが、ご同行なさるのでしょう?」


「仕方ない」


「恭介様が不安がっておられましたから」


ヴァレリーは小さく鼻を鳴らす。


「人間は面倒だ」


藤堂はわずかに笑みを浮かべた。


「ええ。だから面白いのでございます」


しばらく沈黙。

外の雪を見ながらヴァレリーが言う。


「雪は……よく音を消す」


藤堂の手が一瞬止まる。


「……何かお気づきですか?」


「まだ分からない。だが――冬は静かすぎる」


藤堂は少しだけ視線を下げた。


「どうか、お気をつけて」


「猫だから問題はない」


玄関の外から恭介の声がする。


「ヴァレリー!行くぞ!」


藤堂は静かに微笑む。


「行ってらっしゃいませ」


伸びをひとつし、ヴァレリーは窓から飛び降りた。


「やれやれ。面倒な旅だ」



一条寺邸の門が開いた。

外の空気は、思った以上に冷たい。

恭介は肩をすくめる。


「寒っ」


足元の雪を踏む。

キュッ。

乾いた音がした。

ヴァレリーの耳がぴくりと動く。

恭介はトランクを閉めながら言う。


「そんなに雪嫌いなのか」


ヴァレリーは庭の方を見ていた。

風が遠くで鳴っている。


ゴウ……。


山の方から低い音が流れてくる。

黒い耳がもう一度動いた。


「……音が多い」


「音?」


「冬の音だ」


恭介は空を見上げた。

澄んだ青い空。

雲はない。


「普通じゃないか」


ヴァレリーは何も言わない。

ただ遠くを見ている。

やがて、ぽつりと呟いた。


「雪は……よく音を隠す」


恭介は意味が分からなかった。


「どういう意味だよ」


ヴァレリーは車のボンネットに飛び乗る。


「別に」


そして、つまらなそうに言った。


「行くぞ」


恭介は苦笑した。


「はいはい」


エンジンをかける。

車はゆっくりと雪道に出た。

白い朝の光の中へ。

――そして、旅が始まった。


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