プロローグ お誘い
冬の晴れ間。
冷たく澄んだ空気と、雲ひとつない青天。
一条寺家の左右対称に整えられた庭には、冬バラが静かに咲いていた。
低温で成長が遅い冬のバラは、花弁が厚く、色が深い。
その硬質な凛とした美しさは、冬の光にいっそう映えていた。
全館最新式のセントラルヒーティングが稼働する一条寺邸は、外の冷気とは無縁の心地よい温度に保たれている。
格調高い室内。
深い色味のカーテンは開けられ、柔らかな陽射しが床と机を照らしていた。
その陽の温もりは、つい眠気を誘う。
オーク無垢材の重厚な机の上には、書類の束。
椅子に座る千束恭介は、ため息をひとつついた。
窓際に目をやる。
冬用のベッドで黒猫が丸くなっている。
ヴァレリーは、気持ちよさそうに眠っていた。
(……猫は苦手だったんだよな)
反射的に肩がすくむ。
だが、ヴァレリーは別だ。
あれは猫ではない。
あれを猫の部類にしてはいけない。
――そう思い込むことで、なんとか平静を保っている。
それに引き換え、自分は――。
恭介は恨めしげに、未決済の書類の山を見つめた。
ヴヴヴヴヴ。
机の上のスマートフォンが震えた。
ヴァレリーの耳がぴくりと動く。
恭介はスマートフォンを手に取る。
大学時代のゼミ仲間、真島からのメールだった。
“恭介、元気か?
今度、ゼミの仲間で日ごろの疲れをとりに
温泉旅行に行こうぜ。
久我と梶原、それに佐伯ちゃんにはOKを貰ってる。
返事は明日までな。
じゃ、そういうことで。よろしく~”
添付された写真を開く。
一枚は、雪に覆われた古民家風の宿。
もう一枚は、仲良さそうに写る真島と佐伯。
(あいつ、これを見せたかったのか……)
恭介はスマートフォンを閉じ、机に突っ伏した。
「断ろうかな……」
「断るな」
「おおっ?!」
恭介は飛び上がった。
ヴァレリーが、いつの間にかスマートフォンの画面を覗き込んでいる。
「お前……びっくりするだろうが!」
「人間は、昔の時間に戻りたがる」
「見るなよ。プライバシーの侵害だろうが」
「猫だから、問題はない」
「その通りでございますね」
恭介の前に、藤堂が優雅な手つきで紅茶を置いた。
いつものように、音ひとつ立てない。
(いつの間に……)
「ヴァレリー様、敷毛布を交換いたしましょうか」
藤堂が手にしているのは、カシミヤの敷毛布。
見ただけで最高級と分かる品だ。
しかもヴァレリー専用に仕立てられている。
(この家のヒエラルキーで、俺は確実に下の方だな……)
藤堂はふと、恭介のスマートフォンに視線を落とした。
「真島様のメール……。暗号化が甘い方が多いですね。恭介様もお気をつけくださいませ」
「……あんた、なんでそんなこと知ってんだよ」
藤堂は微笑を崩さず、
「申し上げるほどのことではございませんよ」
とだけ答えた。
恭介は眉をひそめたが、深追いはしなかった。
いや、してはいけない気がした。
やるせない思いを、ため息でごまかした。
夜。
山間の温泉宿は、深い雪に包まれていた。
外灯の光が、降りしきる雪を淡く照らしている。
雪は次第に強まり、吹雪となった。
宿の外壁に雪が張り付く。
廊下には誰もいない。
宿の古い木でできた廊下は静まり返っていた。
その静寂の中ーー
ひとつの部屋からかすかな音がした。
コポ……。
加湿器の水が切れる音。
カチッ。
石油ファンヒータのタイマーが入る。
そのたびに、部屋の空気が僅かに揺れる。
壁上部の換気口。
外側の積もった雪が、ゆっくりと吸気口を塞いでいく。
雪片が、吸い寄せられるように貼りついた。
それを見ている者はいない。
風の音も、雪の音も次第に遠のいていく。
やがて――
部屋は、静かすぎるほど静かになった。
翌朝。
その部屋の前の廊下は、まだ、誰も気づいていない。
本日より、第4章を投稿させていただきます。梅雨、夏、秋ときたら冬。雪国でも巻き込まれる恭介。お付き合いいただければ、幸いです。
「鈍感というのは、罪ではない」
「……何の話だよ」




