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消えたアカウント

放課後の教室に、朝倉律の席だけが残っていた。


机も、椅子も、窓際に差し込む夕陽も、昨日までと何も変わらない。けれど、そこに座っていた人だけがいない。たったそれだけで、教室は別の場所になっていた。


担任が告げた「家庭の事情で急に転校」という言葉は、黒板のチョークの粉みたいに空気の中へ散った。誰かが「マジで?」と言い、誰かが「急すぎじゃない?」と囁き、誰かがスマホを見た。クラスのざわめきは、すぐにいつもの放課後の音へ戻ろうとした。


でも、ゆらだけは戻れなかった。


律の席には、まだ彼の気配が残っている気がした。机の端に小さな傷がある。数学の授業中、律がシャーペンの先で無意識になぞっていた傷だ。椅子の背もたれには、少しだけ擦れた跡がある。そこにいつも紺色のスクールバッグがかかっていた。


もう、ない。


昨日、彼はここにいた。

昨日、彼は「星野の言葉、好きだよ」と言った。

昨日、彼はシルに名前をつけた。

昨日、彼は「またね」と言った。


「またね」って、こんなに信用できない言葉だったっけ。


ゆらは、机の下でスマホを握った。


朝に送ったメッセージ。


《シル、朝ミルク飲んだ》


まだ未読だった。


未読なのに、もう転校したと知らされている。その矛盾が気持ち悪かった。世界は律がいなくなったことを知っているのに、スマホだけがまだ「届いていません」という顔をしている。未読の文字は、まるで最後のドアの前に貼られた薄い紙みたいだった。


カナが隣に来た。


「ゆら」


声がいつもより低かった。


ゆらは返事をしなかった。できなかった。


「……大丈夫?」


「うん」


嘘だった。


立てるかどうかも怪しかった。けれど、ここにいたら律の席を見続けてしまう。見続けていたら、昨日の自分がどんどん惨めになる。言えなかった自分。送れなかった自分。まだ次があると思って眠った自分。


あまりにも、のんきだった。


「一緒に帰る?」


カナが聞く。


ゆらは首を振った。


「今日、ひとりで帰る」


カナは何か言いかけて、やめた。


「わかった。でも、変なとこ行くなよ」


「変なとこって?」


「宇宙とか」


「行けたら楽かも」


「帰ってこい。シルいるんでしょ」


シル。


その名前を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ現実へ戻った。そうだ。家にはシルがいる。小さな黒い命が、ゆらを待っている。律が名づけた猫。律が今日を残すためにつけた名前。


今日のしるし。


こんなに早く、痛みのしるしになるなんて思っていなかった。


ゆらは教室を出た。


廊下はいつも通り騒がしかった。部活へ急ぐ声、靴音、誰かの笑い声。世界はひどい。誰かひとりが消えても、平気で音を鳴らし続ける。ゆらの胸の中だけが非常停止しているのに、学校全体は通常運転だった。


昇降口でローファーに履き替えるとき、ゆらは昨日のことを思い出した。


ここで律に会った。

ここで「帰る?」と言った。

たった三文字なのに、あんなに勇気がいった。


今なら、もっと言えた気がする。


帰らないで。

転校するなら言って。

昨日の「またね」は何だったの。

私、朝倉のことが好き。


今なら言葉がいくらでも出てくる。遅い。遅すぎる。言葉はいつも、必要な場面が終わってから集団で押しかけてくる。遅刻してきたくせに、声だけ大きい。最悪だ。


校門を出て、ゆらは昨日と同じ道を歩いた。


まず、コンビニの前に着いた。


自動ドアが開く。


ピンポーン。


誰かが中から出てきただけだった。その音だけで、ゆらの心臓はびくっと跳ねた。


昨日は、この音が少しだけ特別だった。白い光の中に律がいて、冷蔵ケースにふたりの姿が映っていた。指が触れそうで触れなかった。律がミルクティーを覚えていてくれた。三ミリの恩で笑った。レシートをくれた。


今日のコンビニは、ただ明るかった。


その明るさが、ひどく無神経に見えた。


ゆらは店内に入れなかった。冷蔵ケースの白い光を見たら、きっと立っていられない。昨日は宇宙みたいに見えた場所が、今日はただの証拠保管庫に見える。


ポケットの中で、昨日のレシートがかさりと鳴った。


ゆらは指でそれを押さえた。


捨てられない。


捨てたら、昨日が嘘になる気がした。


でも持っていたら、昨日が本当だったことを何度も突きつけられる。


どっちにしても痛い。思い出って、もっと優しいものだと思っていた。少なくとも、歌詞とか映画の中ではそういう扱いだった。でも実物の思い出は、わりと刃物だ。しかも持ち主にだけ切れ味がいい。


コンビニを通り過ぎ、ゆらは朝倉時計店へ向かった。


商店街の端にあるその店は、昨日と同じ場所にあった。けれどシャッターは完全に下りていた。ガラス戸の奥に見えた時計たちも、澄江の姿も見えない。


シャッターの中央に、白い紙が一枚貼られている。


「しばらく休業いたします」


それだけだった。


ゆらは紙の前に立ち尽くした。


昨日、ここで律は少しだけ影のある顔をしていた。澄江が窓の奥から手を振っていた。律は「今日はいい」と言った。あとで寄る、と言った。


あとで、なんて来なかった。


ゆらは貼り紙を見つめる。手書きの文字は丁寧で、少し震えていた。律の家庭で何が起きていたのか、ゆらにはわからない。けれど、何かは起きていた。自分が遠回りだ、コンビニだ、好きだと言えないだと胸の中で騒いでいた間に、律の時間はこの町から静かに外されていたのだ。


聞けばよかった。


昨日、この店の前で。


「何かあったの?」って。


でも聞けなかった。好きだから聞けなかった。踏み込みすぎて嫌われるのが怖かった。関係に名前がないことを言い訳にして、律の沈黙を見逃した。


いや、見逃したんじゃない。


見たのに、触れなかった。


冷蔵ケースの前の指と同じだ。


触れそうで、触れなかった。


ゆらは店の前を離れた。


歩道橋へ向かう途中、スマホが震えた。


心臓が跳ねる。


律?


慌てて画面を見る。


母からだった。


《シル、ミルク飲んだよ。帰り気をつけて》


ゆらはその場で立ち止まった。


シル。


小さな命は、律が消えた世界でもちゃんとミルクを飲んでいる。生きている。前へ進んでいる。たぶん、お腹が空けば鳴くし、眠ければ丸くなるし、名前を呼べばそのうち振り向くようになる。


ゆらだけが、昨日のまま止まっている。


返信する。


《もうすぐ帰る》


送信してから、ゆらは律とのトーク画面を開いた。


朝のメッセージは、まだ未読だった。


ゆらは新しく文字を打った。


《今日、学校で聞いた》


指が止まる。


消す。


《転校って本当?》


責めているみたいだ。


消す。


《何かあったなら言ってほしかった》


重い。


消す。


《昨日、楽しかった》


これだけが残った。


昨日、楽しかった。


あまりにも小さな文だ。言いたいことの千分の一にも満たない。でも、それだけは嘘じゃない。怒っていても、苦しくても、昨日が楽しかったことだけは消せない。


ゆらは送信した。


すぐに既読がついた。


本当に、すぐだった。


画面の小さな「既読」という二文字を見た瞬間、ゆらの全身から音が消えた。


読んだ。


律が読んだ。


どこかにいる。スマホを持っている。ゆらの言葉を見た。見たのに、返事はまだない。


一分。


三分。。


五分。。。

そして一時間が過ぎた。


歩道橋の上で、ゆらはスマホを握ったまま立ち尽くした。


昨日、ここで告白しようとした。律のスマホが鳴って、言葉が止まった。今日は、ゆらのスマホが静かすぎて、言葉が止まっている。


ホームに電車が入ってくる。風が制服のスカートを揺らす。アナウンスが流れる。誰かが階段を駆け上がる。


律からの返信は来ない。


ゆらは歩道橋の手すりに触れた。冷たい。


昨日、ここで一歩を踏み出せなかった。


ゆらは、試しに一歩前へ出てみた。


足音が、かつんと鳴った。


何も起きなかった。


当たり前だ。


昨日踏み出せなかった一歩を、今日踏み出しても、昨日には戻れない。タイミングは、落としたヘアピンみたいに拾えるものではない。時間は戻らない。時計店の時計なら、止まっても直せるかもしれない。でも、放課後の一瞬は修理できない。


ゆらはスマホを見た。


既読のまま。


返信はない。


家に帰ると、シルが小さく鳴いた。


「みゃ」


母の部屋に置かれた箱の中で、シルは毛布に埋もれていた。黒い毛は昨日より少しふわっとして見える。ゆらが指を差し出すと、シルは鼻先を近づけ、くん、と匂いを嗅いだ。


その小さな温度に、ゆらの喉が詰まった。


「シル」


名前を呼ぶ。


律がつけた名前。


「シル、律、いなくなっちゃった」


猫にそんなことを言ってもわかるはずがない。シルは丸い目でゆらを見ているだけだった。それでも、その目が何も聞き返さないから、ゆらは少しだけ話せた。


「昨日、好きって言えなかった」


シルは「み」と鳴いた。


「わかんないよね」


また、小さく鳴く。


ゆらは笑った。泣きそうな笑い方だった。


夜、自分の部屋でスマホを開いた。


律とのトーク画面。


既読のまま、返信はない。


ゆらは何度も画面を更新した。意味がないとわかっているのに、何度も。スマホが熱を持つ。指先が冷える。部屋の中には、シルのミルクの甘い匂いがわずかに残っていた。


日付が変わる少し前。


律のアイコンが消えた。


名前も、表示が変わった。


アカウントのマークが「不明」となっていた。


ゆらは画面を見つめた。


最初、意味がわからなかった。


次に、意味がわかった。


そして、息ができなくなった。


既読は残っている。

昨日楽しかった、という言葉は読まれた。

でも、返事はない。

もう、送る場所もない。


未読より既読のほうが残酷なことがある。


読まれたとわかるから。

届いたとわかるから。

そのうえで、返ってこないから。


ゆらはスマホを伏せた。


机の上には、レシートと星の刺繍のハンカチがある。昨日の証拠たち。シルは隣の部屋で眠っている。律がくれたもの、律が残したもの、律が名づけたものだけが、ゆらの世界に残った。


本人だけがいない。


ゆらはベッドに横になった。


天井に貼った蓄光シールの星が、ぼんやり光っていた。小学生のころに貼った安物の星。昼間の光を溜めて、夜になると弱く光る。


ゆらはそれを見上げながら、小さく呟いた。


「昨日、楽しかったよ」


今度は送らなかった。


送る場所が、もうなかった。


その夜、ゆらは初めて知った。


人が消えるとき、何もかもが消えるわけではない。


むしろ逆だ。


その人が触れた言葉だけが、その人がくれた名前だけが、その人が笑った場所だけが、やけに鮮明に残る。


そして残されたほうは、その光の中で、しばらく立ち尽くすしかないのだ。

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