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コロッケパンと可能性の毒

律がいなくなってから、学校の時間は変な進み方をするようになった。


チャイムは鳴る。授業は始まる。先生は黒板に文字を書く。誰かが消しゴムを落として、誰かがそれを拾う。購買の焼きそばパンは相変わらず秒で売り切れるし、体育のあとには教室が制汗剤と汗と若さの混ざった、なんとも言えない匂いになる。


世界は普通に続いていた。


その普通さが、ゆらにはいちばんきつかった。


朝、教室に入るたびに、律の席を見てしまう。もう誰か別の生徒がその近くに荷物を置いていて、机の位置も少しずれている。それでも、ゆらの目は勝手に探す。紺色のスクールバッグ。少し猫背でノートを取る背中。炭酸水のペットボトル。眠そうに前髪を指で直す仕草。


ない。


何度見ても、ない。


なのに、ないことに慣れない。


人の不在って、穴じゃない。むしろ逆だ。そこだけ輪郭が濃くなる。いない人の形が、やけにくっきり見える。律が座っていた席は、律がいないことで、前より律の席になっていた。


昼休みになると、ゆらは教室を抜け出すようになった。


向かう先は、屋上前の踊り場。


星ノ瀬高校の屋上は基本的に立ち入り禁止で、扉にはいつも鍵がかかっている。だから生徒たちはそこにあまり来ない。階段の途中にある踊り場には、小さな窓がひとつだけあって、そこから空が四角く切り取られて見える。


屋上には行けない。


空には届かない。


でも、教室よりは少しだけ息ができる。


ゆらは階段に座り、膝を抱えた。コンクリートの冷たさがスカート越しに伝わってくる。遠くから、体育館のボールの音が聞こえる。どこかの教室で笑い声が弾ける。窓の外には、薄い雲がゆっくり流れていた。


スマホを開く。


律のトーク画面は、もう開けない。


アカウントがありません。


その文字を見るのが怖くて、最近はスマホ自体をあまり見なくなった。それでも癖でポケットを探ってしまう。通知が来ていないか確かめてしまう。来るはずがないのに。


代わりに、シルの写真だけが増えていった。


ミルクを飲むシル。

毛布に埋まるシル。

くしゃみをして自分でびっくりするシル。

ゆらの指を小さな前足で押さえるシル。


シルは日に日に少しずつ元気になっている。母は「この子、思ったより生命力あるね」と言った。シルは夜中に鳴き、朝方に寝て、ゆらの生活リズムを容赦なく破壊した。かわいい。けれど眠い。眠いけれどかわいい。かわいいは労働である。猫育児、完全にブラック寄りだった。


でも、その忙しさに少し救われてもいた。


ミルクを作る。トイレを替える。体重を量る。病院へ連れて行く。シルの小さな命は、ゆらを昨日に閉じ込めてくれなかった。ちゃんと今日の予定を突きつけてくる。


それでも、シルの名前を呼ぶたびに律を思い出す。


しるし、のシル。


今日のしるしみたいだから。


律の声が耳の奥でよみがえる。


「……名前つけ逃げじゃん」


ゆらは小さく呟いた。


自分で言って、少し笑いそうになって、でも笑えなかった。


そのとき、階段の下から足音が聞こえた。


「いた」


カナだった。


片手にコロッケパンを二つ、もう片方の手に紙パックのいちごミルクを持っている。首にはいつもの黒いヘッドホン。昼休みなのに、すでに放課後のバンドマンみたいな空気をまとっていた。


「ゆら、捜索対象になってんぞ」


「誰に?」


「私に」


「狭い捜索網」


「精度は高い」


カナは隣にどかっと座り、コロッケパンをひとつゆらの膝に置いた。


「食べな」


「いらない」


「人間、パン食えばだいたい何とかなる」


「本当かよ? ならないこともある」


「あるけど、空腹よりマシ」


カナは包み紙を雑に破り、自分のコロッケパンにかぶりついた。ソースの甘い匂いが、踊り場の埃っぽい空気に混ざる。ゆらのお腹が小さく鳴った。


カナがにやっとする。


「ほら、胃袋は生きる気ある」


「うるさい」


「心が死んでても胃は働く。人体、わりとブラック企業」


ゆらは少しだけ笑った。


笑った自分に驚いた。


笑えるのか、と思った。律がいなくなっても、シルが夜中に鳴いても、スマホの中から名前が消えても、コロッケパンの匂いでお腹は鳴るし、カナの雑な言葉に少し笑える。


それが薄情な気もした。


でも、たぶん生きるってそういうことなのだ。


ゆらは包み紙を開いた。コロッケパンはまだ少し温かかった。ひと口かじると、甘いソースとじゃがいもの匂いが広がる。おいしい。こんなときでも、おいしいものはおいしい。それがまた少し悔しい。


しばらく、ふたりは黙ってパンを食べた。


沈黙は、律といたときの、いつか急にいなくなる透明な猫みたいなものとは違った。カナとの沈黙は、隣で体育座りしているでかい犬みたいだった。少し乱暴で、でも逃げない。必要以上に撫でろとは言わないけれど、勝手に隣にいる。


カナがいちごミルクを飲み、紙パックをへこませた。


「で」


「で?」


「律のこと、好きだったんでしょ」


コロッケパンが喉に詰まりかけた。


「急に何」


「急じゃない。全人類知ってた」


「全人類は盛りすぎ」


「じゃあ二年B組と購買のおばちゃんくらい」


「購買のおばちゃん巻き込まないで」


「でも、顔に出てたよ」


カナは真面目な顔で言った。


「ゆら、律の話するとき、目だけ先に走ってた」


「何それ」


「体は教室にいるのに、目がもう昇降口行ってた」


「怖いんだけど」


「恋してる人間、だいたいホラーだよ」


ゆらは反論しようとして、できなかった。


カナは責めていなかった。茶化しているようで、その声の奥は静かだった。


「好きだったよ」


ゆらは小さく言った。


過去形にしてしまった。


でも、言った瞬間、自分で違うと思った。


「……だった、じゃないかも」


カナは何も言わなかった。


ただ、いちごミルクをもう一口飲んだ。


「今も、好きかも」


言葉にしたら、胸の奥がずきっと痛んだ。


認めたくなかった。だって、好きでいたところでどうしようもない。連絡先も消えた。転校先も知らない。家庭の事情も知らない。自分に残ったのは、レシートと、ハンカチと、猫と、未読になった朝のメッセージと、既読のまま返ってこなかった「昨日、楽しかった」だけ。


好きでいるには、材料が痛すぎる。


「言えばよかった」


ゆらは言った。


「昨日、歩道橋で。スマホ鳴る前に。いや、駅でも。家帰ってからでも。送信ボタン押せばよかった。好きって。たった二文字なのに」


カナは黙って聞いていた。


「言ってたら、変わったかな」


「変わったかもね」


カナはあっさり言った。


ゆらは顔を上げた。


「そこは慰めるとこじゃないの?」


「嘘の慰めは高い女なので売ってません」


「最低」


「でもさ」


カナはコロッケパンの最後の一口を飲み込んで、包み紙を丸めた。


「言ってても、律は転校したと思うよ」


ゆらは黙った。


「家庭の事情なんでしょ。恋で引っ越し止まるなら、少女漫画は国土交通省になれる」


「国土交通省」


「道路も恋路も整備します、みたいな」


「ちょっと見たい」


「でしょ」


カナは少し笑って、それから真面目な顔に戻った。


「でも、言ってたら、ゆらの未練の形は変わったと思う」


「未練の形?」


「うん」


カナは窓の外を見た。


「言って振られた未練と、言えなかった未練は違う。どっちがマシとかじゃなくて、刺さる場所が違う」


ゆらは手元のコロッケパンを見つめた。もう半分も残っていない。食べるつもりなんてなかったのに、気づけばちゃんと食べていた。


「ゆらは今、可能性に刺されてるんだよ」


カナの声は静かだった。


「もし言ってたら。もし手を握ってたら。もしメッセージ消さなかったら。もし朝倉時計店の前で聞いてたら。そういう、存在しなかった未来に」


存在しなかった未来。

その言葉は、ゆらの胸にまっすぐ落ちた。


そうだ。


ゆらを苦しめているのは、起きたことだけではない。起きなかったことだ。言えなかった告白。触れなかった指。聞かなかった質問。送らなかった好き。存在しなかった未来たちが、幽霊みたいに周りを歩いている。


しかも厄介なのは、その未来たちは絶対に失敗しないことだ。


頭の中の未来では、ゆらはちゃんと好きと言える。律は困らずに笑う。もしかしたら「俺も」と言う。シルの写真を送り合い、ハンカチを返す約束をして、明日も一緒に帰る。


現実には存在しないからこそ、完璧でいられる。

完璧な未来ほど、今の自分を刺してくる。


「じゃあ、どうしたらいいの」


ゆらの声は、自分でも驚くほど弱かった。

カナは少し考えたあと、言った。


「書きなよ」


「何を」


「律に言えなかったこと。全部」


「手紙?」


「でもいいし、物語でもいい」


「物語」


「ゆら、文芸部じゃん。痛いやつ、書けるじゃん」


「言い方」


「褒めてる。ゆらの文章って、湿度高いんだよ。梅雨の夜みたい。でも私はその雨のにおいが好き」


ゆらは少しだけ目を見開いた。


カナが真面目に褒めるのは珍しい。普段はだいたい、褒め言葉の前後に変なギャグを挟んでくる。今日はそれがなかった。


「書いたら、何か変わる?」


「知らん」


「知らんのかい」


「でも、書かないよりはマシかも」


カナは膝に肘をついた。


「言葉ってさ、外に出さないと腐ることあるじゃん。ゆらの中に今、言えなかった言葉がめっちゃ詰まってる。たぶん、真夏に冷蔵庫に入れ忘れた牛乳くらいやばい」


「比喩が嫌すぎる」


「爆発する前に出しな」


ゆらは笑った。


今度はちゃんと笑えた。


でも、そのあとすぐに涙が出そうになった。カナの言い方は雑だ。雑すぎる。でも、だから救われる。きれいな言葉で慰められたら、たぶん今のゆらは崩れてしまう。カナの言葉は、救命胴衣というより、川に投げ込まれた浮き輪に「根性」と書いてある感じだった。ダサい。でも、ちゃんと浮く。


「書けるかな」


ゆらが言うと、カナは即答した。


「書ける」


「何でわかるの」


「ゆらだから」


その言葉は短かった。


短いのに、効いた。


律は「星野の言葉、好きだよ」と言った。カナは「ゆらだから書ける」と言った。ふたりとも、ゆらがいちばん自信を持てない場所を、なぜか当たり前みたいに信じる。


それが苦しい。


それが嬉しい。


昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。


階段の下が騒がしくなる。生徒たちが教室へ戻っていく足音。カナは立ち上がり、スカートについた埃を払った。


「戻る?」


「うん」


ゆらはコロッケパンの残りを食べきった。


胃の中に温かいものがある。それだけで、少しだけ体が戻ってきた気がした。


「カナ」


「ん?」


「ありがと」


「パン代、百四十円」


「有料?」


「嘘。今日は失恋見舞い」


「まだ失恋って決まってない」


カナはにやっと笑った。


「じゃあ、未送信見舞い」


その言葉に、ゆらは少しだけ胸を押さえた。


未送信。


自分の中に残ったままの言葉。送れなかった好き。届かなかった朝のメッセージ。返ってこなかった昨日楽しかった。


未送信。


それは痛みの名前として、やけにぴったりだった。


その夜、ゆらは机に向かった。


部屋の隅では、シルが小さな箱の中で眠っている。寝息がかすかに聞こえる。ミルクの甘い匂い。母が用意してくれた古い毛布の匂い。机の上には、律のハンカチと、コンビニのレシートがある。


ゆらはノートを開いた。


最初のページに、シャーペンでタイトルを書いた。


「あと一歩の星」


書いた瞬間、胸の奥で何かが震えた。

ゆらはその下に、少しずつ言葉を置いていく。

放課後のチャイムは、世界の終わりみたいな顔をして鳴る。


昇降口で言えた「帰る?」。


遠回りの道。


時計店の前で聞けなかったこと。


冷蔵ケースに映った距離。


触れそうで触れなかった指。


黒い子猫。


シル。


歩道橋。


またね。


消えた律。


消えたアカウント。


書きながら、ゆらは何度も手を止めた。止めるたびに涙がにじんだ。涙が落ちると、シャーペンの文字が少し黒く濃くなった。ペンじゃなくてよかった。インクだったら滲んで読めなくなっていたかもしれない。


でも、読めなくなってもよかったのかもしれない。


今書いているのは、誰かに見せるための整った文章ではなかった。胸の中で腐りかけている言葉を、外に出すための作業だった。


シルが「み」と鳴いた。


ゆらは振り向く。


「起きた?」


シルは箱の中で小さく伸びをして、また丸くなった。


「ねえ、シル」


ゆらは小さく言った。


「君の名付け親、どこ行っちゃったんだろうね」


答えはない。


でも、シルの存在は答えの代わりにそこにあった。律が残した名前。律がくれたしるし。痛いけれど、温かいもの。


ゆらはまたノートに向かった。


書いても、律は戻らない。


好きと言えなかった事実も変わらない。


それでも、一文字書くたびに、胸の奥に詰まっていたものが少しずつ形を変えていく気がした。毒だったものが、まだ光とは呼べない何かに変わり始めている。


深夜、ノートの一ページ目が埋まった。


最後の行に、ゆらはこう書いた。


「言えなかった好きは、消えたんじゃなくて、胸の奥でまだ光っている」


書いたあと、ゆらはシャーペンを置いた。


窓の外には、星がひとつだけ見えた。


都会の夜空にかろうじて残った、小さな光。


ゆらは思った。


これはまだ、救いじゃない。


だけど、呼吸ではある。


失ったものを取り戻すためではなく、失ったまま生きるために。


ゆらはもう一度ノートを開き、次のページに向かった。

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