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人工の夜空で聞いた言葉が静かに胸に降る日

文芸部展示の廊下は、いつもより少しだけ空気が薄い気がした。


三階の東側廊下。普段はほとんどの生徒が素通りする場所に、模造紙とコピー用紙がずらりと貼られている。詩、短編、俳句、短歌、よくわからない実験小説、そして部長が書いた「この世界はすべてカレーで説明できる」という謎の評論。


文芸部は、だいたい自由すぎる。


けれど今日は、その自由すぎる展示の端に、ゆらの物語も貼られていた。


タイトルは、「触れそうで触れられなかった星空の向こうに」


白い紙に印刷された文字を前に、ゆらは廊下の角からこっそり様子を見ていた。完全に不審者だった。自分の作品の前に堂々と立てばいいのに、どうしてもできない。自分の文章が他人に読まれる瞬間は、自分の内臓を廊下に貼って、通行人に「よかったら見てってください」と言っているようなものだった。


グロい。精神的に。


一年生らしき女子が二人、ゆらの作品の前で立ち止まった。


「これ、なんかタイトルかわいい」


「星のやつ?」


「うん。触れられないって何?」


「さぁ? なんだろね? なにかの動物? 猫かな。あと一歩で逃げちゃったとか!」


「それか、恋だったりしてさ?」


やめて。


ゆらは柱の陰で小さく崩れた。正解。大正解。でも本人の前で当てないでほしい。いや本人は隠れている。隠れている自分が悪い。


女子たちは文章を読み始めた。


ゆらは息を止めた。


物語には、あの日のことをそのまま書いたわけではない。名前も場所も変えた。シルは黒猫ではなく、夜の欠片という不思議な生き物にした。コンビニは月面基地にした。歩道橋は星へ渡る橋にした。律に似た少年は、星の写真を撮る旅人にした。


でも、変えれば変えるほど、本当のことに近づいてしまった。


触れなかった指。

言えなかった言葉。

急に消えた人。

胸の奥に残った光。


全部、そこにあった。


女子のひとりが最後まで読み、少し黙った。


「……なんか、しんど」


もうひとりが言った。


「でも、わかる」


その「わかる」が、ゆらの胸に届いた。


自分だけの痛みだと思っていたものが、別の誰かの中にも少しだけ置き場所を見つけた。その事実に、ゆらは驚いた。自分の言葉は、ただの未練の排水溝ではないのかもしれない。誰かがそこに、自分の影を映せる水たまりくらいにはなるのかもしれない。


放課後、展示の前に小さな付箋が貼られていた。


「言えなかったことも、言葉になるんだね。K」


K。


カナだ。


ゆらはその付箋を見た瞬間、少しだけ笑った。カナの字は雑だ。まるで急いで走ってきた文字みたいに、右へ左へ揺れている。でも、書かれていることはいつもまっすぐだった。


「泣いてんの?」


背後から声がした。


ゆらは慌てて振り返った。


カナがいた。首には黒いヘッドホン。手には購買のプリン。いつものカナだった。


「泣いてない」


「でも、目が湿度八十パー」


「梅雨じゃん」


「ゆらの文章も湿度高めだから、セットでちょうどいい」


ゆらは付箋を指で軽く押さえた。


「これ、カナでしょ」


「さあ? Kって書いたから、ケビンかもしれない」


「うちの学校にケビンいる?」


「探せばいるかも。うち、国際科あるしね」


「雑」


カナはプリンのふたを開けながら、ゆらの作品を見た。


「よかったよ」


「ほんとに?」


「うん。だいぶ刺された。責任取って」


「どうやって?」


「プリン半分」


「むしろ、ありがたい」


カナはスプーンを差し出した。


ゆらは少し笑って、プリンを一口もらった。甘い。やわらかい。さっきまで胸の奥にあった痛みとは別の場所に、ちゃんと甘さが届く。


「律に読ませたかった?」


カナが急に言った。


ゆらはスプーンを止めた。


「……うん」


嘘はつけなかった。


「読ませたかった。けど、読まれたくもなかった」


「何それ。めんどくさ」


「知ってる」


「でもわかる」


カナはプリンを食べながら頷いた。


「好きな人にだけ届いてほしいけど、届いたら死ぬやつね」


「そう。それ」


「恋って通信障害多すぎ」


ゆらは笑った。


笑えるようになっていた。

それが少し寂しいと感じた。


律がいなくなった痛みは消えていない。むしろ、言葉にしたことで輪郭ははっきりした。けれど、輪郭が見える痛みは、真っ黒な塊より少しだけ扱いやすい。名前をつけられた怪物は、まだ怖いけれど、少なくともどこにいるかはわかる。


数週間後、文化祭が来た。


星ノ瀬高校の文化祭は、妙に全校が本気になる。体育館には軽音部のステージ。中庭には焼きそば、フランクフルト、謎に毎年人気の「占い研究会の恋愛相談」。教室のあちこちから、ホットプレートの匂いと、風船のゴムの匂いと、青春の熱気が混ざって流れてくる。


カナは軽音部のボーカルとして、体育館ステージに立っていた。


曲名は、「銀河で既読スルー」。


タイトルを見た瞬間、ゆらは膝から崩れそうになった。


「やめてくれーっ」


ステージ袖のカナに言うと、カナは親指を立てた。


「安心して。地球の男全員に捧げるから」


「範囲が広すぎーだー」


「地球規模の失恋ソングだから」


「スケールだけ無駄にでかいな」


カナはマイクを握ると、体育館中に響く声で叫んだ。


「銀河の果てまで届けー! 既読無視された地球人たちー!」


体育館が笑いと歓声に包まれる。


イントロが鳴った。ギターが勢いよく鳴り、ドラムが少し走り気味に入る。カナは全力で歌った。


  既読ついても返事ない。

  宇宙より遠い君の返信。

  ブラックホールに吸われたスタンプ。

  地球の男、まじで通信環境見直せ。


ゆらは笑った。


笑いながら、胸が痛かった。


既読。返信なし。消えたアカウント。


全部、自分のことだった。でも、カナがそれを歌にして叫ぶと、少しだけ痛みの形が変わった。笑いに変わるというより、痛みの上に派手なシールを貼られたみたいだった。完治ではない。でも、直視はしやすくなる。


隣にいた文芸部の部長が真顔で言った。


「これは現代短歌にも通じるね」


「どこがですか」


「既読という二文字に宿る不在の美学」


「部長、だいたい何でも文学にしますよね」


「文学は世界の揚げ物だから。何でも衣をつけられる」


「その比喩、胃もたれします」


ステージの上で、カナは最後のサビを歌いきった。


「銀河で既読スルー! でも私は歌う!

返信ないなら、星になってスターライトを降り注ぐ!」


体育館が拍手で揺れた。


ゆらも手を叩いた。手のひらが熱くなる。カナはステージの上からゆらを見つけ、片目をつぶった。雑で、派手で、優しいウインクだった。


その日の帰り、ゆらは商店街に寄った。


文化祭の熱がまだ体に残っていて、耳の奥ではカナの歌が鳴っている。手には文芸部の展示で使った紙袋。中には余ったコピー用紙と、カナの付箋を剥がしてしまったものが入っている。捨てられなかった。


商店街の空き店舗の前に、丸い看板が出ていた。


「移動式プラネタリウム 本日最終上映」


小さな文字で、そう書かれている。


ゆらは足を止めた。


星。


律が好きだったもの。


いや、好きだったのかどうかも本当は知らない。天文写真部だった。空を撮っていた。こと座の話をしてくれた。それだけだ。でも、ゆらの中では、律と星はもう切り離せなくなっている。


入るか迷った。

迷ったとき、紙袋の中で付箋がかさりと鳴った。

言えなかったことも、言葉になるんだね。


ゆらは受付で三百円を払い、丸いビニール製のドームに入った。


中は思ったより狭かった。床にはクッションが並び、十人ほどの観客が座っている。子ども連れの親子、老夫婦、制服姿の中学生。ビニール特有の少し甘い匂いと、機械の熱っぽい匂いが混ざっていた。


照明が落ちる。


世界が暗くなる。


ゆらは息を呑んだ。


頭上に、星が広がった。


本物ではない。人工の星だ。小さな投影機が作った光。わかっている。わかっているのに、胸の奥が静かに震えた。


星ノ瀬町の夜空では見えなかった星が、そこにはあった。


都会のビルに隠れた彦星も、街灯に負けた小さな星も、全部ここでは見える。暗いドームの中で、ゆらはまるで、世界の裏側に入ってしまったような気がした。


ナレーターの声が流れる。


「私たちが見ている星の光は、遠い過去から旅をして届いています」


ゆらの指が、膝の上で止まった。


「今、あなたの目に届いている光は、何年も、何十年も、時には何百年も前に星を出発したものです。星の光は、過去から届く手紙のようなものなのです」


過去から届く手紙。


その言葉が、ゆらの胸の奥に落ちた。

律からの返信は来なかった。

アカウントも消えた。

もう送る場所もない。


でも、もし。


もし言葉にも、星の光みたいに遅れて届くものがあるなら。


自分が今書いた「触れそうで触れなかった星空の向こうに」という「想い」も、いつかどこかへ届くのだろうか。届くとしたら、それは、律だろうか。未来の自分だろうか。知らない誰かだろうか。それとも、もしかしたら、今、同じように言えなかった言葉を抱えている人かもしれない。


ゆらは天井の星を見上げた。


涙は出なかった。


代わりに、胸の奥に小さな明かりが灯った。


それは救いというにはまだ弱く、希望というには頼りなかった。けれど、真っ暗な場所で目印にするには十分だった。


上映が終わると、外はすっかり夜だった。


商店街の店はほとんど閉まり、道路には街灯の光が伸びている。ゆらは帰り道に、アルバイト先の書店「雨音堂」へ寄った。


店内には、紙とインクの匂いが満ちていた。雨は降っていないのに、この店はいつも雨音が似合う。奥のレジで、店長が文庫本にカバーをかけていた。


「おや、星野さん。今日はバイトじゃないよね」


「はい。ちょっと本、見たくて」


「文化祭帰り?」


「そうです」


「青春の匂いがする」


「どんな匂いですか」


「焼きそばと制汗剤と未練」


「最後だけ重いです」


店長は笑った。


ゆらは星座の本が並ぶ棚の前に立った。神話、天文学、プラネタリウムの歴史、星の名前の辞典。知らない世界が、背表紙になって並んでいる。


一冊を手に取る。


ページをめくると、紙の匂いがふわりと立った。


「星野さん、名前からして星だもんね」


店長が言った。


「名前負けしてます」


「負けてる名前に追いつくのも、人生だよ」


その言葉に、ゆらは本を持つ手を止めた。


追いつく。


星野という名字に。

律が見上げていた空に。

自分が書いた「あと一歩の星」に。

まだ言葉にできていない、自分の未来に。


ゆらは星座の本を三冊、カウンターに持って行った。


「買います」


「お、急に星の人になる?」


「まだ仮入部です」


「人生の?」


「たぶん」


店長は笑いながら、丁寧にカバーをかけてくれた。


帰宅すると、シルが部屋の毛布の上で丸くなっていた。黒い小さな体が、少しだけ大きくなった気がする。ゆらが近づくと、シルは顔を上げて「みゃ」と鳴いた。


「ただいま、シル」


ゆらは買ってきた星座の本を机に置いた。


その横には、律のハンカチと、コンビニのレシートがある。痛みの証拠たち。その隣に、新しい本が並ぶ。未来の入口みたいだった。


ゆらはノートを開いた。


「あと一歩の星」の続きではなく、新しいページに、新しい言葉を書いた。


「星の光は、過去から届く手紙。」


そして、その下に続けた。


「なら、言えなかった言葉も、いつかどこかへ届くのかもしれない。」


シルが机の下で小さく鳴く。


ゆらはシャーペンを握り直した。


律はいない。


返信もない。


それでも、言葉はまだある。


それだけは、まだ自分の中に残っている。


この夜、ゆらは初めて思った。


言えなかった恋を、ただの傷で終わらせたくない。


いつか、誰かの夜を照らすものにしたい。


人工の夜空で聞いた言葉は、ゆらの未来を静かに変え始めていた。

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