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未送信は毒にも光にもなる。でも、光になることもある

星ノ瀬町を離れる日、ゆらのバッグには三つのものが入っていた。


一つ目は、星の刺繍のハンカチ。

二つ目は、印字が少し薄くなったコンビニのレシート。

三つ目は、シルの抜け毛がついた小さなブランケット。


正確に言えば、三つ目はシル本人のものだった。けれど黒猫のシルは、引っ越し用のキャリーケースの中で、堂々と自分の王国を主張していた。狭いケースの中から「みゃ」と鳴くたび、ゆらの母が「はいはい、女王さま」と返事をする。


「シル、君が大学生になるわけでもないのに荷物多くない?」


ゆらが言うと、母はキャリーを覗き込んだ。


「猫は存在そのものが荷物だからね。かわいいけど重い。かわいいけど毛がすごい。かわいいけど朝四時に起こすこともある」


シルは「みゃ」と鳴いた。


まるで「当然」と言っているみたいだった。


高校を卒業して、ゆらは都内の大学へ進学することになった。文芸とメディア表現を学べる学部。合格通知を受け取ったときには、この街をでる覚悟は決まっていた。

たしかに、ゆらの中にはまだ送れなかった言葉が残っている。けれど、それを抱えたまま立ち止まるのはもう嫌だった。


駅のホームで、ゆらは星ノ瀬町を振り返った。


校舎へ続く道。

コンビニ。

朝倉時計店のシャッター。

歩道橋。

川沿いのベンチ。


すべてが、少し遠く見えた。


律はいない。


それでも、律が残したものだけは、ゆらの生活の中にしつこく残っている。シルは毎朝ごはんをねだるし、ハンカチは何度洗っても捨てられないし、レシートは財布の奥で薄くなりながら、まだ今日を証明している。


今日、というにはもう遠いのに。


電車が動き出す。


窓の外で、星ノ瀬町がゆっくり後ろへ流れていく。ゆらはキャリーケース越しにシルの小さな鳴き声を聞きながら、心の中で呟いた。



大学の創作授業は、思っていたより容赦がなかった。


「はい、次。星野さん」


教授に呼ばれて、ゆらは立ち上がった。手には自分で書いた短い音声ドラマの原稿がある。タイトルは「夜空に残したメッセージ」。好きだった人に送れなかった告白文を、星座に変えていく少女の話だった。


教室は白く、窓の外には高いビルが見える。高校の教室よりずっと大人びているのに、発表前の緊張は高校時代と変わらなかった。紙を持つ指が少し汗ばむ。隣の席の学生がシャーペンを回す音がやけに大きく聞こえる。


ゆらは息を吸い、読み始めた。


少女は、送信できなかった言葉を夜空に投げる。

言葉は星にならず、しばらく暗闇を漂う。

けれどある夜、同じように未送信を抱えた誰かが、その光を見つける。


読みながら、ゆらは律を思い出していた。


直接書いたわけではない。名前も、場所も、コンビニも、シルも出てこない。けれど物語の底には、確かにあの夜が沈んでいた。冷蔵ケースの白い光。歩道橋の冷たい手すり。ガラス越しの「またね」。消えたアカウント。


読み終わると、教室が少し静かになった。


教授は腕を組み、眼鏡の奥からゆらを見た。


「感情に引っ張られすぎている部分があります」


胸がぎゅっと縮んだ。


「ただ、核は強い。未送信の言葉を星座にする、という発想はいいです。あなたはたぶん、言えなかったことを書く人なんですね」


言えなかったことを書く人。


それは褒め言葉なのか、診断なのか、呪いなのかわからなかった。


授業が終わったあと、ゆらは原稿をバッグにしまっていた。すると、同じ授業を取っている男子学生が近づいてきた。名前はたしか、佐伯。いつも後ろの席で、あまり話したことはない。


「あのさ」


「はい?」


「今日のやつ、なんか……自分の話みたいだった」


ゆらは言葉を失った。


佐伯は少し照れたように笑った。


「いや、俺、星座とか全然わかんないんだけど。でも、送れなかったメッセージっていうのが、ちょっと……ね 刺さった。昔、謝れなかった人がいてさ」


「あ……」


「だから、よかった。変な感想でごめん」


「ううん。ありがとう」


佐伯は軽く頭を下げて去っていった。


ゆらは廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。


自分だけの痛みだと思っていたものが、誰かの痛みに触れた。律に届かなかった言葉が、律ではない誰かの中に置き場所を見つけた。


それは不思議な感覚だった。


失恋のリサイクル、という言葉が一瞬浮かんで、ゆらは自分で少し笑った。いや、言い方がひどい。でも、そういうことなのかもしれない。胸の奥で腐りかけていたものを、形を変えて誰かに渡す。渡された相手は、それを自分の痛みの名前にする。


未送信は、閉じ込めれば毒になる。

でも、物語にすれば光になることもある。


その夜、ゆらはアパートの机に向かってノートを開いた。足元ではシルが丸くなっている。黒い毛はすっかり艶を取り戻し、拾った日の弱々しさはもうほとんどない。むしろ最近は、ゆらの原稿用紙の上に乗ってくるという暴挙に出る。


「シル、どいて」


「みゃ」


「そこ、今いい文章が降りてきそうな場所」


「みゃ」


「踏むな。私の才能を肉球で踏むな」


シルは聞く気ゼロで、ノートの上に前足を置いた。


肉球の跡がつく。かわいい。腹立つ。かわいいが勝つ。猫はずるい。


ゆらは笑って、シルを抱き上げた。


「君の名付け親、私の人生にめちゃくちゃ関与してるんだけど、知ってる?」


シルは金色の目でゆらを見た。


もちろん返事はない。


大学の四年間、ゆらは書き続けた。


未送信の恋。

謝れなかった友達。

見送れなかった家族。

夢を諦めた自分。

返せなかった手紙。

開けられなかったドア。


書けば書くほど、律のことだけを書いているわけではないと気づいた。人はみんな、何かしら未送信を抱えている。恋だけではない。ごめん。ありがとう。さよなら。助けて。会いたい。許せない。大丈夫。そういう言葉が、胸の奥で下書きのまま保存されている。


卒業後、ゆらは広告制作会社に就職した。


最初は、言葉を仕事にできることが嬉しかった。新発売の炭酸飲料のコピー、駅ビルのセールポスター、スマホケースのキャッチフレーズ、春の旅行キャンペーン。毎日、言葉を考える。毎日、言葉で誰かを動かそうとする。


けれど、仕事の言葉は単純ではない。依頼をくれた会社の社運が掛かっていると言っていい。勿論、自分自身の人生も。


「このコピー、もっと軽く」

「刺さる感じで」

「若者っぽく」

「エモいけど暗すぎない方向で」

「星野さん、もう三案ください。午前中までに」


エモいけど暗すぎない方向。


ゆらは心の中で白目をむいた。エモに明るさ調整バーでもついていると思っているのだろうか。いや、クライアントは悪くない。仕事とはそういうものだ。だが、感情を「適量」に切り分けて、パッケージに詰めて、納品する日々は、少しずつゆらの内側を削った。


会議室はいつも乾いていた。


蛍光灯の白さ。

冷めたコーヒーの苦味。

キーボードを叩く音。

深夜の空調の低い唸り。

画面の通知音。


入社三年目の春、ゆらは深夜のオフィスでひとり、炭酸飲料のコピーを考えていた。


「人生、シュワってしてほしい時に」


ふと、高校時代に律とコンビニで冗談を言ったキャッチコピーが浮かんだ。


胸が痛くなった。


あのときは、言葉が遊びだった。ふたりの間を行き来する、軽くて温かいボールだった。今は、言葉が納期に追われる荷物みたいになっている。どれだけ運んでも、次の箱が積まれる。


スマホが震える。


上司からだった。


《明日の朝までに別案5本お願いします》


ゆらは画面を見つめた。


息が少し苦しくなる。


書くことが好きだった。


そのはずだった。


でも今は、画面を見るだけで胸が詰まる。通知音が鳴るだけで、体が硬くなる。言葉が好きだったはずなのに、言葉が自分を追いかけてくるように感じる。


ゆらは椅子にもたれ、天井を見上げた。


蛍光灯がまぶしい。


人工の光なのに、星とは全然違った。


「私、何してるんだろ」


声に出した瞬間、オフィスの静けさが少しだけ揺れた。


家に帰ると、午前二時を過ぎていた。


シルが玄関まで迎えに来た。黒い体を伸ばし、眠そうな顔で「みゃ」と鳴く。もう子猫ではない。立派な成猫だ。けれど、鳴き声だけは拾った日の名残を少し残している。


「ただいま、シル」


ゆらは靴を脱ぎ、床に座り込んだ。


シルが膝に乗ってくる。重い。命の重さ。あの日、箱の中で震えていた軽さとは違う。律が名前をつけた猫は、ちゃんと生きて、大きくなって、今もゆらの生活を占領している。


「ねえ、私、書くの向いてないのかな」


シルは返事の代わりに、ゆらの膝で丸くなった。


「猫っていいよね。納期なくて」


シルは目を閉じた。


「いや、君はごはんの納期に厳しいか」


ゆらは少し笑った。


笑ったあと、涙が出た。


疲れていた。


失恋のときとは違う涙だった。あのときは、言えなかった言葉が痛くて泣いた。今は、言葉を使いすぎて、自分の中の言葉が空っぽになった気がして泣いている。


翌朝、会社へ向かう電車の中で、ゆらはスマホをぼんやり眺めていた。


求人サイトの広告が流れてくる。


転職。

ライター募集。

広報。

編集。

イベント制作。


普段ならすぐ閉じる画面だった。けれど、その中の一つで指が止まった。


「小劇場型プラネタリウム 脚本家兼ナレーター募集」


ゆらは画面を開いた。


施設名は、ネオン星図館。


座席数四十の小さなプラネタリウム。観客から集めた手紙をもとに、星空と朗読を組み合わせた番組を制作しているらしい。


募集文の最後に、こう書かれていた。


「誰かの言えなかった言葉を、星に変える仕事です。」


電車の揺れが、一瞬だけ遠くなった。


誰かの言えなかった言葉。


星に変える仕事。


ゆらの胸の奥で、十七歳の自分が顔を上げた気がした。


放課後のチャイム。

冷蔵ケースの白い光。

シルの小さな鳴き声。

歩道橋の「またね」。

消えたアカウント。

人工の夜空で聞いた言葉。


全部が、ひとつの線でつながっていく。


ゆらは求人ページを保存した。


そして、窓の外を見た。


朝の空には、もちろん星なんて見えなかった。ビルのガラスに太陽が反射しているだけだ。それでも、その光の奥に、見えない星があることをゆらは知っている。


未送信は毒になる。


でも、光になることもある。


ゆらはスマホを握りしめた。


今度は、送信ボタンの前で立ち止まりたくなかった。

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