ネオン星図館へようこそ
ネオン星図館は、駅前のきらびやかなビルではなく、古びた雑居ビルの最上階にあった。
一階はラーメン屋、二階は整体院、三階は謎の英会話教室、四階は夜になると看板が赤く光るバー。そのさらに上、五階の細い廊下の突き当たりに、小さな銀色のプレートが貼られている。
NEON STAR MAP — ネオン星図館
ゆらは、そのプレートの前で立ち止まった。
手には履歴書と職務経歴書。バッグの中には、自分の書いた過去の台本と、念のため入れてきた星座の本。さらに、財布の奥にはいまだに律と行ったコンビニのレシートが入っている。印字はほとんど薄れて、もはや考古学の出土品みたいになっていた。
「面接にレシート持ってくる人、なかなかいないよね」
ゆらは小さく呟いた。
もちろん、見せるつもりはない。
でも、持っていないと落ち着かなかった。あの薄い紙は、ゆらにとってお守りであり、呪いであり、心に開いた小さな穴だった。
エレベーターの中には、ラーメン屋の豚骨スープの匂いと、どこかの階の香水の匂いが混ざっていた。到着音が鳴る。扉が開く。
廊下は驚くほど静かだった。
受付らしき小さなカウンターの奥から、低い機械音が聞こえる。空調の音ではない。もっと角が丸くて、遠くで眠っている獣の呼吸みたいな音。プラネタリウムの投影機だろうか。
「失礼します」
ゆらが声をかけると、奥から女性が顔を出した。
真っ赤な眼鏡。銀色のネイル。黒いワンピース。髪は肩口で切りそろえられていて、まるで満月を切り抜いたみたいにきっぱりしている。
「星野ゆらさん?」
「はい。本日は、面接に参りました。」
「小野寺ミチルです。館長です。あと、経理と広報と掃除係も兼任しています」
「……大変ですね」
「星はきれいですが、運営は泥沼です」
初対面の第一声としては、なかなかインパクトがあった。
ゆらは思わず笑いそうになり、慌てて表情を整えた。だがミチルは、笑っても怒らない顔をしていた。むしろ、笑わない人間を信用していないような目をしている。
「どうぞ。狭いですが、宇宙は広いので」
「はい」
ゆらは促されるまま、館内へ入った。
ネオン星図館は本当に小さかった。
受付横には、手書きの上映スケジュール。壁には観客から届いた感想カード。棚には星座早見盤、ポストカード、古い天文学の本、小さな月球儀。奥には四十席ほどのドーム型シアターがあり、扉の隙間から暗い空間が見えた。
広くはない。
新しくもない。
でも、空気が不思議だった。
紙の匂い。機械の熱。少し古い布張りの椅子の匂い。誰かが泣いたあとのような、湿った静けさ。
ゆらは思った。
ここには、言葉が残っている。
広告会社の会議室とは違う。あそこでは言葉はすぐ消費され、修正され、納品されていった。ここでは、言葉が少し立ち止まっている気がした。暗闇の中で、誰かに見つけられるのを待っている。
小さな事務室に通されると、ミチルは机の向かいに座った。机の上には、履歴書のコピーと、ゆらが応募時に送った作品の束がある。
「読ませていただきました」
「ありがとうございます」
「誰にも送られなかった未送信の物語ばっかりですね」
ゆらは一瞬、返事に詰まった。
「……暗いですか」
「いいえ。しつこいです」
「しつこい」
「かなり」
ミチルは真顔で言った。
「褒めています」
「褒め言葉に聞こえるまで、少し時間が必要です」
「人の心に残るものって、だいたいしつこいんです。忘れられない、許せない、言えなかった、戻れない。そういう感情は、消えたふりをしてもしつこく残る。あなたの文章は、それを無理に浄化していないところがいい」
ゆらは、膝の上で手を握った。
広告会社の面接なら、たぶん「強み」や「実績」や「即戦力」が聞かれる。だが目の前の館長は、ゆらの中に沈んでいるものを、いきなり棒でつついてきた。
「言えなかったことが、あるんですか」
ミチルが聞いた。
直球だった。
ゆらは笑ってごまかそうとしたが、うまくいかなかった。
「あります」
「恋ですか」
「……はい」
「高校生?」
「どうしてわかるんですか」
「あなたの文章、放課後の匂いがします」
ミチルは作品の一枚を指で叩いた。
「チャイム、夕焼け、帰り道、コンビニ、触れそうで触れない手。ああ、これは高校生が一生引きずるやつだなと思いました」
「一生」
「大げさに言いました。でも、十年くらいはいける」
ゆらは苦笑した。
「もう、だいぶ近いです」
言ってから、自分で少し驚いた。
初対面の相手に何を言っているのだろう。でも、この場所ではなぜか、隠しても意味がない気がした。ミチルは占い師ではない。ただ、言葉の奥に残っている温度を測るのが異様にうまい人だった。
「その人とは?」
「連絡、取れません」
「亡くなった?」
「いえ。たぶん、生きています。ただ、突然いなくなって」
「急な転校?」
「……本当に、どうしてわかるんですか」
「物語の事故は、だいたい急に起きます。特に青春は、説明不足で人を消すのが得意です」
その言い方に、ゆらは少し笑った。
ミチルは履歴書に目を落とした。
「広告会社を辞めたい理由は?」
「言葉が、苦しくなりました」
「ほう」
「書くことは好きだったはずなのに、いつの間にか、誰かの目を引くためだけの言葉ばかり考えるようになって。感情に訴えかけるけど、でも暗すぎず。刺さるけど炎上せず。若者向けだけど安っぽくなく。そういう調整をしているうちに、自分の中の言葉が、薄くなっていく感じがして」
「よくわかります」
ミチルは深く頷いた。
「コップに感情の粉末と水を入れて、飲みやすくして、ラベルを貼って売る仕事ですね」
「言い方が……」
「でも、そういう仕事も必要です。私も昔やっていました」
「え?」
「前職はイベント会社です。夢と感動を演出しながら、毎日エクセルに殺されかけていました」
「エクセル……」
「宇宙より怖いですよ、セル結合は」
ゆらは吹き出してしまった。
ミチルも少し笑った。
場の空気が、ふっとゆるむ。真剣な話の合間に、こういう隙間を作れる人なのだと思った。重さを重いまま持たせない。ギャグで軽くするのではなく、呼吸できる場所を作る。
ミチルは立ち上がった。
「ドーム、見ますか」
「はい」
ふたりは事務室を出て、小さなシアターへ入った。
中は暗かった。
四十席ほどの椅子が半円状に並び、天井は低めのドームになっている。大きな施設のような迫力はない。けれど、椅子に座ると、外のビルも、駅前の騒音も、ラーメン屋の匂いも、急に遠くなった。
ミチルが操作盤に触れる。
低い機械音が響く。
天井に、星が灯った。
ゆらは息を呑んだ。
人工の星。
あの日、商店街の移動式プラネタリウムで見たものよりも、ずっと細かい光だった。濃紺の闇に、小さな白が無数に散っていく。星は本物ではない。けれど、本物ではないからこそ、人の手で誰かのために置かれた光だとわかる。
「うちは、最新設備ではありません」
ミチルが客席の後ろで言った。
「大手みたいな迫力もない。予算もない。グッズも、たまに売れ残ります」
「正直ですね」
「マーケティング上、弱みは先に言うと信頼になります」
「なるほど」
「でも、ここに来る人は、ただ星を見たいだけじゃないんです」
ミチルは少し間を置いた。
「何かを置きに来るんです」
ゆらは天井を見上げたまま、黙って聞いた。
「言えなかった言葉。渡せなかった手紙。謝れなかった人への後悔。亡くなった家族へのありがとう。昔の自分への、遅すぎる大丈夫。そういうものを、ここに置いていく」
ドームの星が、ゆっくり流れ始めた。
「私たちは、それを物語にします。暗闇の中で、星と一緒に届ける。誰かの言えなかった言葉を、ただの後悔で終わらせないために」
言えなかった言葉……
その言葉に、ゆらの胸が反応した。
律に送れなかった「好き」。
送ったのに返らなかった「昨日、楽しかった」への返信。
消えたアカウント。
シルに残った名前。
ハンカチ。
レシート。
全部が、胸の奥で小さく鳴った。
「誰かの後悔を、星にする仕事です」
ミチルは言った。
その瞬間、ゆらは思った。
私は、ここで働きたい。
それは理屈ではなかった。給料や勤務時間や将来性より先に、体がそう思った。もちろん生活はある。家賃もある。シルのごはん代も病院代もある。現実は星空だけでは払えない。だが、それでも。
ここなら、自分の痛みを捨てなくていい。
ここなら、言えなくて心の中に残ったままの言葉にも、居場所を作れるかもしれない。
「できますか、私に?」
ゆらは聞いた。
ミチルは即答しなかった。
その沈黙が、逆に信頼できた。簡単に「できますよ」と言われたら、嘘みたいだったから。
「楽ではありません」
ミチルは言った。
「人の後悔を読む仕事ですから。手紙を開くたびに、誰かの傷に触れます。あなた自身の傷口も、何度も開くかもしれない。」
「はい」
「それでも、できますか」
ゆらは天井の星を見た。
律のことを思い出した。
もう連絡も取れない人。けれど、彼が残した言葉や名前は、今も自分の中で光っている。シルは元気に生きている。自分も、なんとか生きている。痛みは消えなかった。でも、書くことで呼吸になった。
なら、もしかしたら。
自分の痛みは、誰かの夜に置ける小さな灯りになるかもしれない。
「やってみたいです」
ゆらは言った。
「誰かの言えなかった言葉を、ちゃんと扱える人になりたいです」
ミチルは少し笑った。
「採用です」
「え」
「え、じゃないです。採用!」
「今ですか?」
「今です」
「そんな即決でいいんですか」
「小さい館なので、意思決定が早いんです。大企業なら稟議で三週間かかるところを、うちは館長の情緒で三秒です」
「情緒で採用されるの、不安なんですけど」
「安心してください。あなたの履歴書と作品はちゃんと読みました。情緒は最終確認です」
ゆらは笑った。
笑いながら、少し泣きそうになった。
広告会社で削れていた自分の言葉が、ここではまだ使えると言われた気がした。しつこい痛みも、言えなかった恋も、捨てなくていいと言われた気がした。
その日から、ゆらはネオン星図館で働き始めた。
最初の仕事は、観客から届いた手紙を読むことだった。
事務室の棚には、封筒がたくさん並んでいる。白い封筒、茶封筒、花柄の便箋、コンビニで買ったらしいシンプルなレターセット。中には、メールで届いたものを印刷した紙もある。
ゆらは一通ずつ開いた。
亡くなった母に謝れなかった男性。
中学時代の友達に「助けられなくてごめん」と言えなかった女性。
別れた恋人に「幸せになって」と送れなかった人。
子どものころ飼っていた犬に「ありがとう」と言いたかった老人。
結婚式の前日に喧嘩したまま父を亡くした花嫁。
読むたびに、胸が痛んだ。
他人の言葉なのに、全部どこかで自分に触れる。ミチルは「泣くのは勤務時間外にしてください」と言ったが、初日から無理だった。
「星野さん、もう泣いてます?」
「これは……目の結露です」
「私のネタを取らないでください」
「すみません」
ミチルはティッシュ箱をゆらに優しく渡した。
「泣けるのは悪いことじゃありません。ただし、泣いたあとに構成してください。感情だけでは番組になりません」
「構成」
「はい。どこで観客の呼吸を止めるか。どこで笑わせるか。どこで星を出すか。どの言葉を残して、どの説明を削るか。後悔にも演出が必要です」
その言葉は、厳しかった。
けれど、ゆらにはわかった。
ただ泣かせるだけではだめなのだ。誰かの痛みを消費するのではなく、ちゃんと届く形に整えなければならない。広告会社で学んだ「伝える技術」は、ここでも必要だった。ただし目的が違う。売るためではなく、届かせるために使う。
最初にゆらが担当した手紙は、亡くなった祖母に「大好き」と言えなかった女性のものだった。
ゆらは何度も台本を書き直した。
最初は感情を入れすぎて、ミチルに「泣かせに行きすぎです。涙の押し売りは返品されます」と言われた。
次は淡々としすぎて、「ニュース原稿ですか」と言われた。
三回目で、ようやくミチルが頷いた。
「ここで星を一つだけ出しましょう」
「一つだけ?」
「はい。全部の星を出すと、感情が散ります。最初は暗闇。最後に一つ。大好きと言えなかった言葉が、やっと光るように」
ゆらはその演出に鳥肌が立った。
映像、音、暗闇、声、言葉。
全部を合わせて、ひとつの未送信の言葉を届ける。
初めての本番の日、ゆらはナレーションブースに座った。マイクの前で手が震える。暗い客席には、手紙を書いた本人も来ているという。
ミチルがインカムで言った。
「星野さん」
「はい」
「売ろうとしないで。届けて」
ゆらは深呼吸した。
ドームが暗転する。
音楽が静かに流れる。
ゆらは、声を出した。
最初の一文は少し震えた。けれど、読み進めるうちに、声が暗闇に馴染んでいった。観客の息づかいが聞こえる。どこかで誰かが鼻をすする音がする。最後の言葉のあと、天井に星が一つ灯った。
公演後、ロビーの感想カードに、一行だけ書かれていた。
「やっと言えた気がしました。」
ゆらはそのカードを見て、しばらく動けなかった。
やっと言えた。
それは、手紙を書いた人の言葉であり、ゆら自身がいつか言いたかった言葉でもあった。
その夜、家に帰ると、シルが玄関で待っていた。
「ただいま」
シルは「みゃ」と鳴き、ゆらの足に体をこすりつけた。もうすっかり大人の猫なのに、鳴き声だけは相変わらず少し子猫みたいだった。
ゆらはシルを抱き上げた。
「今日ね、誰かの未送信を星にしたよ」
シルは興味なさそうにあくびをした。
「まあ、あなたはごはんのほうが大事だよね」
ゆらは笑った。
部屋に入ると、机の引き出しを開けた。
そこには、律のハンカチとレシートがある。
ゆらはそれをしばらく見つめた。
他人の未送信は、星にできる。
でも、自分の未送信だけは、まだ触れられない。
それでいいのかもしれない。
まだ、今は。
ゆらは引き出しを閉めた。
ネオン星図館での日々が始まった。
誰かの言えなかった言葉を預かり、構成し、声にし、星にする。広告会社で失いかけた言葉が、少しずつ戻ってくる。痛みは消えない。でも、痛みを扱う手つきは変えられる。
ゆらは少しずつ、自分の仕事を好きになっていった。
ただひとつだけ、自分自身の未送信を除いて。
その箱だけは、まだ開けられないままだった。




