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天文学部の部室の片隅に置いてあった封筒

冬のネオン星図館は、夜になるのが早い。


五階の窓の外では、駅前の街路樹が細い枝を震わせていた。葉はほとんど落ちて、イルミネーションだけが妙に元気だ。下のラーメン屋からは豚骨スープの匂いがエレベーターの隙間を抜けて上がってくる。宇宙を売っている場所なのに、足元はだいぶ生活感がある。星と豚骨。ロマンと脂。現実、クセ強すぎ。


最終公演が終わったあとのネオン星図館には、独特の静けさが残る。暗闇を見上げた人たちの呼吸、誰かがこらえきれずに泣いた気配、椅子の布に残った体温。投影機は低く唸りながら冷えていき、事務室の蛍光灯だけが、急に現実へ戻れと言うみたいに白かった。


ゆらは机で、その日の感想カードを読んでいた。


《亡くなった父に、やっとありがとうと言えた気がしました》


《昔の友達に連絡してみようと思います》


《未送信のままでも、消えたわけじゃないんですね》


どの文字も、知らない誰かの胸から剥がれてきた薄い皮膚みたいだった。触れると痛い。けれど、ちゃんと温度がある。


「星野さん」


受付スタッフが、事務室の入口から顔を出した。


「郵便物、追加で届いてました」


「ありがとうございます」


差出人は、東京都立星ノ瀬高等学校。

その下に、最近マジックで書かれた小さく添えられた名前。


三崎カナ。


ゆらの指先が止まった。


ミチルが赤い眼鏡越しにこちらを見る。


「母校ですか?」


「はい。友達からです」


「顔が、税務署か初恋のどちらかですね」


「選択肢が極端すぎます」


「どちらも封筒で人を動揺させます」


ゆらは笑った。けれど、封筒を持つ手には少し力が入っていた。


星ノ瀬高校。


その名前だけで、時間の底に沈めたものが一斉に浮かんでくる。


放課後のチャイム。昇降口。川沿いの道。朝倉時計店。コンビニの白い光。歩道橋。ガラス越しの「またね」。シルの小さな鳴き声。


それらはもう、きれいな思い出になったはずだった。いや、正確には、きれいな箱に入れて棚の奥へしまったつもりだった。けれど、箱というものは厄介だ。外から叩かれると、中身がまだ生きていることがバレる。


ゆらは封を切った。

A4サイズの茶封筒の中には、カナらしい雑な字で書かれた便せん一枚と、古い茶色い紙袋が入っていた。紙袋は古く、文化祭の備品みたいに角が擦れている。表面には薄く埃っぽい匂いが残っていた。体育館裏の倉庫、画用紙、ガムテープ、古い段ボール。高校の文化祭準備室にしかない、あの雑多な匂い。


まずメモを読む。


《文化祭準備室を大掃除してたら発掘。旧・天文写真部の展示素材箱に紛れてた。たぶん、ゆら案件。開けて爆発しても責任は取らん。あと、生きてるなら連絡しろ。恋の神、まだニートしてるぞ。三崎カナ》


「……あいつ」

笑ったのに、喉がきゅっと縮んだ。


カナとは、広告の仕事が忙しく、ここ、2,3年は疎遠になっていた。

さらに、信じられないことに、三崎カナは、高校の教師になった。驚きはしたが本人の口から聞いていた知っていた。だが、まさか、域内の高校に、しかも母校に赴任しているとは考えてなかった。


紙袋の中には、さらに薄い封筒があった。そこには、担任だった教師の字でメモが貼られている。


《朝倉律くんより学校宛に送付。宛先不明瞭のため文化祭展示物として一時保管。その後、準備室保管箱に混入したものと思われます。朝倉君の住所も引っ越しの為、不明となっており返信もできませんでした。》


ゆらは息を止めた。


十年前。


律が送った。


けれど、届かなかった。


もう一枚、小さな説明メモが入っていた。カナが教師として調べてくれたのだろう。


《当時、律は転校後に現像した写真と録音を学校へ送ったらしい。封筒の表に「星野さんへ」とだけ書いてあって、クラス名も住所もなし。時期が文化祭直前で、天文写真部と文芸部の合同展示準備物に紛れたっぽい。しかもその年、準備室の移動があって箱ごと奥へ。つまり、青春の迷子。雑に言うと、学校の整理整頓力が終わってた。ごめん》


カナの字は最後だけ妙に大きかった。


青春の迷子。


軽い言い方なのに、胸に刺さった。


律は私に何かを送っていた。

でも、宛先が足りなかった。

学校は受け取った。

でも、渡せなかった。

文化祭準備の段ボールに紛れ、天文写真部の過去展示素材だと思われ、準備室の奥で十年眠っていた。


誰かひとりの悪意ではない。


小さな不備と、タイミングと、忙しさと、整理されない段ボール。そういう地味すぎる偶然が、人の人生を十年遅らせることがある。


現実は、エグい。


ゆらは紙袋を開けた。


中から出てきたのは、数枚のフィルム写真だった。


それから、小さなカセットテープ。


クラウド間をデータでやり取りする今となっては懐かしい。側面には、黒いペンで「A.R.」と書かれていた。


朝倉律。


その文字を見た瞬間、部屋の音が遠のいた。


投影機の低い唸り。ミチルが紙を置く音。窓の外の車の走行音。全部が水の中の音みたいにぼやける。


「星野さん」


ミチルの声が、少し低くなった。


「大丈夫ですか」


「……たぶん」


「たぶんは、大丈夫じゃない人がよく使う便利な布です」


「布?」


「傷口をとりあえず隠せます」


ゆらは返事をしなかった。


最初の写真を手に取る。


川沿いの道だった。夕暮れの光が水面に細く伸びている。写真の端には、ゆらのスカートの裾が少しだけ写っていた。律は空だけを撮っているふりをして、あの日の輪郭を残していた。


次の写真。


朝倉時計店。くすんだ金色の看板。ガラス戸の奥に並ぶ時計たち。夕陽が反射して店内はほとんど見えないが、奥に澄江の影がある。止まっている時計と、動いている時計が同じ空間に並んでいる。その写真だけ、時間の匂いがした。


次は、動物病院の前。


ゆらが小さな箱を抱えている。箱の中には、まだ名前のない黒い子猫。シルになる前のシル。ゆらは記憶よりもずっと柔らかい顔で箱を覗き込んでいた。自分では、あの日ずっと慌てていたつもりだったのに、写真の中のゆらは、泣きそうなくらい優しい。


「こんな顔、してたんだ」


声が漏れた。


十年後の今、部屋でふてぶてしく原稿の上に乗るシルにも、こんな時代があった。小さくて、濡れていて、頼りなくて、それでも必死に生きていた。


次の写真は、コンビニの入口だった。


自動ドアの横に立つゆらが写っている。手にはレモンティー。顔は横を向いていて、笑いかける直前みたいな表情をしている。撮ったのは律だろう。だから、当然ふたりは写っていない。


冷蔵ケースに映った二人の写真なんて、あるはずがない。


あのとき律はカメラを構えていなかったし、仮に構えていても、ふたりが同時に写る角度は無理がある。ゆらは、少しだけほっとした。記憶の中の冷蔵ケースだけは、写真にならずに胸の奥に残っていていい気がした。あの数センチの距離は、データにも紙にもならないからこそ、ずっと生々しい。


最後の写真をめくる。


歩道橋だった。


夜の駅前。手すりの冷たい銀色。遠くへ伸びる線路。ホームの灯り。そこに、ゆらがひとりで立っている。


律の電車が出る直前か、出た直後か。ゆらは小さな箱を胸に抱え、片手を中途半端に上げている。手を振っているのに、どこか追いつけなかったみたいな姿。顔ははっきり写っていない。ただ、印象だけでわかる。


何か大切な言葉を伝えられなかった人の姿だ。


写真の裏に、律の字があった。


《この時の君に、何を言えばよかったんだろう》


ゆらは息を吸えなかった。


冷蔵ケースの距離ではなく、歩道橋にいるわたし。


こちらのほうが、ずっと痛かった。


あの夜、ゆらは律を見送った。けれど、律もまた、ゆらを見ていたのだ。自分だけが取り残されたと思っていた。ガラスの向こうに消えていく律を見て、ひとりでホームに立っていたと思っていた。


でも律は、去っていく側からも、何かを残していた。


言えなかったのは、ゆらだけではなかった。


「……ずるい」


ゆらは小さく呟いた。


「たしかに写真って、ずるいですね」


ミチルが静かに言った。


「一瞬しか写していないのに、その前後まで連れてきますから」


ゆらは頷いた。


写真は声を出さない。でも、沈黙の圧がある。そこに写っている一秒の周りに、匂いも音も温度も戻ってくる。歩道橋の鉄の冷たさ。駅のアナウンス。シルの箱の軽さ。電車が動き出す風。律の「またね」。


全部、戻ってくる。


ゆらは、館内に置いてある古いカセットレコーダーに手を伸ばした。

再生ボタンの上に指を置く。


押せば、律の声が聞こえるかもしれない。


あるいは、聞こえないかもしれない。


ただのノイズかもしれない。天文写真部の記録かもしれない。文化祭の音声かもしれない。けれど、もし律の声だったら。


聞いた瞬間、もう戻れない。

なにから?


ゆらは指を離した。


「今は、無理です」


声がかすれた。


ミチルは何も責めなかった。


「持って帰りますか」


「はい」


「それがいいです。爆弾は、明るい事務室で処理すると余計に痛いときがあります」


「爆弾確定なんですね」


「カナさんがそう書いています」


ミチルはティッシュ箱を机の端へ滑らせた。


「ただ、星野さん」


「はい」


「これは過去から届いたものです。でも、過去そのものではありません」


ゆらは顔を上げた。


「どういう意味ですか」


「開けるかどうか、いつ開けるか、どう受け取るかは、今のあなたが決められます。十年前のあなたではなく」


その言葉は、ゆらの胸にゆっくり沈んだ。


十年前は、選べなかった。律は消えた。メッセージは返らなかった。アカウントも消えた。学校は何も説明してくれなかった。ゆらはただ、起きたことを受け入れるしかなかった。


でも今は違う。


カセットを再生する手は、今のゆらのものだ。


ゆらは写真とカセットを、そっと紙袋に戻した。最後の歩道橋の写真だけは、しばらく手放せなかった。


《この時の君に、何を言えばよかったんだろう》


その文字を、何度も読む。


帰宅すると、玄関でシルが待っていた。


黒い体は十年前の面影なんてほとんどないくらい立派になっている。金色の目でゆらを見上げ、「みゃ」と鳴いた。あの日の弱々しい声ではない。ちゃんと十年を生きてきた声だった。


「ただいま、シル」


ゆらはしゃがみ、シルの背中を撫でた。毛は温かく、なめらかで、指の間に小さな命の熱が残る。


「君の名付け親から、やっと荷物が届いたよ」


シルは何も知らない顔で、しっぽを揺らした。


部屋に入り、机の上に紙袋を置く。引き出しを開けると、星の刺繍のハンカチと、薄れたレシートがある。そこに、写真とカセットレコーダーを並べた。


十年分の未送信が、机の上に集まった。


ハンカチ。

レシート。

写真。

カセット。

そして、シル。


律本人だけが、いない。


ゆらは椅子に座り、歩道橋の写真をもう一度見た。


十年前の背中。


あの子は、まだ知らない。


明日、律がいなくなること。

送った言葉に返事が来ないこと。

シルが大きくなること。

自分が未送信の言葉を星にする仕事につくこと。

そして、この写真が十年後に戻ってくること。


「ねえ」


ゆらは写真の中の自分に向かって、小さく言った。


「何を言えばよかったんだろうね」


答えはなかった。


代わりに、机の上へシルが飛び乗った。カセットレコーダーの横に座り、前足で、借りて来たたカセットレコーダーの再生ボタンのあたりを軽く叩く。


「ちょっと。そこ大事なやつ」


「みゃ」


「押しちゃだめ。まだ心の準備ができてない」


シルは平然と目を細めた。


ゆらは笑った。笑ったら、少しだけ怖さがほどけた。シルはいつだって、物語の核心に肉球を置いてくる。空気を読んでいないようで、実はいちばん読んでいるのかもしれない。いや、たぶん読んでいない。ただかわいいだけ。ずるい。


ゆらはカセットを手に取った。


今日は、まだ、進めない。

明日も進めないかもしれない。

けれど、進める日は来る。


そう思えた。


カーテンの隙間から、冬の夜が見えた。星はひとつも見えない。街の光が強すぎるのだろう。でも、見えないだけで星はある。過去から光が届くには、時間がかかる。


この封筒も、きっとそうだった。


十年前に出発した言葉が、文化祭準備室の埃の中で迷子になり、カナの手に拾われ、ようやく今、ゆらのもとへ届いた。


遅すぎる。


けれど、届いた。


その事実が、救いなのか残酷なのか、まだわからない。


ゆらは歩道橋の写真を、ハンカチの隣に置いた。


そして、カセットレコーダーにそっと手を重ねた。


銀色の冷たさが、手のひらにしみる。


明日、聞こう。


そう決めた瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。


それは恐怖かもしれない。


期待かもしれない。


あるいは、十年前に言えなかった言葉が、ようやく目を覚ました音だった。

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