カセットテープの中の告白
翌日の夜、ゆらは机の前に座ったまま、三十分ほどカセットレコーダーを見つめていた。
借りて来た銀色の古い機械は、何も言わずにそこにある。テープの側面には黒いペンで書かれた「A.R.」の文字。朝倉律。十年前、突然消えた人。シルの名付け親。歩道橋で、ゆらの「好き」を飲み込ませたまま、ガラス越しに「またね」と笑った人。
机の上には、写真も並べてある。
川沿い。
朝倉時計店。
動物病院前でシルを抱くゆら。
歩道橋。
そして、冷蔵ケースに映ったふたり。
最後の写真の裏には、律の字でこう書かれていた。
《この距離が、たぶん一番まぶしかった》
ゆらは何度もその文字を読んだ。読みすぎて、もう目を閉じても見える。
その距離感を、律も覚えていた。
その事実だけでも十分だった。十分すぎるくらい、胸の奥を揺らした。だから本当は、カセットなんて聞かなくてもいいのかもしれない。写真だけで、十年前のゆらは少し救われた。あの日を大事にしていたのは自分だけじゃなかったのだと、知ることができた。
けれど、声は別だ。
写真は黙っている。
文字は待ってくれる。
でも、声は来る。耳から入って来る、逃げ場なく、容赦なく体の中へ入ってくる。
「シル」
足元で丸くなっていた黒猫が、耳だけ動かした。
「聞くべきだと思う?」
シルはあくびをした。
「参考にならない顔してる」
シルはゆらの足元から机の上に飛び乗り、カセットレコーダーの横に座った。しっぽがゆっくり揺れる。まるで、早くしろと言っているみたいだった。
「君、名付け親に甘いよね」
「みゃ」
「いや、私も甘かったけど」
ゆらは苦笑した。
カセットレコーダーの再生ボタンに指を置く。
プラスチックのボタンは少し硬かった。押すには力がいる。十年分の沈黙が、中で固まっているみたいだった。
聞いたら、戻れない。
聞かなければ、今のままでいられる。
でも、今のままって何だろう。
他人の未送信を星として投影しながら、自分の未送信だけを箱にしまっている今。十年前の「好き」を、もう終わったことのように扱いながら、レシートもハンカチも捨てられない今。シルの名前を呼ぶたびに、律を思い出す今。
それは本当に、無事なのだろうか。
ゆらは息を吸った。
そして、再生ボタンを押した。
カチリ。
小さな機械音のあと、ざあっ、というノイズが流れた。
古い雨の音みたいだった。何も映っていない夜のテレビみたいでもあった。ゆらは思わず肩に力を入れる。シルも耳を立てた。
しばらく、ノイズだけが続いた。
失敗かもしれない。
そう思った瞬間、声が聞こえた。
『……今日、星野に言おうと思った』
ゆらの胸が、音もなく崩れた。
律の声だった。
十年前の声。
ゆらの記憶の中に残っていた声より、少し近くて、少し頼りなくて、少し震えている。
でも確かに律の声。
ゆらは動けなかった。
手も、目も、呼吸さえも。
カセットの中の律は、ぽつりぽつりと話し始めた。
『何を言うか、ずっと考えてた。帰り道で言おうと思って、でも言えなくて。コンビニで指が触れそうになったとき、手を握ろうと思った。でも、星野が引いたから……いや、俺も引いたんだけど。結局、何もできなかった』
ゆらは写真を見た。
冷蔵ケースに映る、触れそうで触れない指。
あの瞬間、律も同じことを考えていた。
手を握ろうと思った。
その一文だけで、十年前のコンビニの白い光が、部屋の中に戻ってくる。冷気。モーター音。レモンティー。炭酸水。三ミリの恩。あの数センチの距離。
ゆらは唇を噛んだ。
知らなかった。
知りたかった。
知りたくなかった。
『星野、たぶん気づいてないと思うけど、俺、星野の言葉が好きだった。文芸部の展示で読んだ詩も、授業中にノートの端に書いてた変な比喩も、コンビニで急にキャッチコピーみたいなこと言うところも』
そこで、律が小さく笑った。
『人生、シュワってしてほしい時に、ってやつ。あれ、今思い出してもいいと思う。商品名は思いつかないけど』
ゆらは、泣きそうなのに笑ってしまった。
十年経っても、あのしょうもない会話が残っていた。自分が恥ずかしくて忘れたいような冗談を、律はちゃんと覚えていた。しかもカセットに残している。やめてほしい。いや、やめないでほしい。感情が忙しすぎて、心の中が文化祭の体育館みたいになっている。
『シルの名前、勝手につけたけど、気に入ってくれてたらいいな。しるし、のシル。あの日が、ちゃんと残るようにって思った。星野が飼うって言ったとき、すごいと思った。俺はたぶん、いつも迷ってばかりだから。星野は、怖がりなのに、決めるときはちゃんと決める人なんだと思った』
ゆらの視界が滲んだ。
シルが机の上で、ゆらの手に顔をこすりつけた。
「シル」
声が震えた。
律は続ける。
『本当は、転校のこと、言わなきゃいけなかった。父さんの仕事の都合で、急に引っ越すことになって。祖母の店も、しばらく閉めるって決まってた。前から話は出てたのに、俺が言えなかった。言ったら、星野と帰る時間が変わる気がした。昨日まで普通だったものが、急に最後になるのが怖かった』
ゆらは、朝倉時計店の貼り紙を思い出した。
「しばらく休業いたします」
律は知っていた。
知っていて、言えなかった。
ゆらは少しだけ怒りが湧くのを感じた。
どうして。
言ってくれればよかったのに。
最後になるなら、最後だと教えてくれればよかったのに。
そうしたら、もっとちゃんと見た。もっとちゃんと聞いた。もっとちゃんと、好きだと言えたかもしれない。
でも、同時にわかってしまう。
自分だって言えなかった。
好きだと。
手を握りたいと。
もっと一緒にいたいと。
言えなかった人間が、言えなかった人間を完全には責められない。その苦さが、ゆらの胸に広がった。
『歩道橋で、星野が何か言おうとしてたのは、わかった』
ゆらの指が止まる。
『俺も、あそこで言うつもりだった。引っ越すこと。あと……好きだってこと』
ざあっ、とノイズが少し強くなった。
まるで、テープ自体が照れているみたいだった。
ゆらは笑えなかった。
息が苦しい。
『でも、電話が来た。家から。明日の朝には学校に手続きの連絡が行くって言われて、もう逃げられないって思った。それなのに、戻ったとき、俺は「たいしたことじゃない」って言った。最低だと思う』
ゆらは首を振った。
誰に向かってなのかわからない。
律にか。
十年前の自分にか。
今の自分にか。
『電車で別れたあと、録音してる。今これ、公園のベンチで話してる。変だよな。星野に直接言えなかったことを、カセットに向かって言ってる。昭和かよって感じだけど、スマホに残すのは怖かった。消せるから。カセットなら、簡単には消せない気がした』
ゆらはカセットレコーダーを見る。
古い銀色の機械。
律はこれに、消せない言葉を入れた。
でも、その言葉は十年届かなかった。
届くはずだったのか。
届かないように隠されたのか。
それとも、届いてほしいけど届かないかもしれない場所に置かれたのか。
『明日、星野にメッセージ渡せるかな。わかんない。返したら、戻りたくなる気がする。戻れないのに、戻りたくなる。だから、たぶん俺は逃げると思う』
ゆらの胸に、鋭い痛みが走った。
逃げると思う。
本人がそう言った。
十年前の律は、自分が逃げることを知っていた。
そして実際に逃げた。
《昨日、楽しかった》
既読。
返信なし。
消えたアカウント。
あの日の画面が、目の前に浮かんだ。
ゆらは、今度こそ涙をこぼした。
怒りの涙なのか、悲しみの涙なのか、わからなかった。たぶん両方だった。嬉しさも混ざっていた。律も好きだった。その事実は、確かにゆらを救った。でも、同時にひどく傷つけた。
両想いだったからこそ、失った時間が重くなる。
『星野が、夜空に向かって何か言ったの、見えた気がした』
ゆらは息を止めた。
『電車が動き出す前。距離もあったし、声は聞こえなかった。でも、口の動きで、好きって言ったように見えた。勝手な勘違いだったらごめん。でも俺、あのとき、星野が好きって言ってくれたみたいに思った』
ゆらは両手で口を覆った。
聞こえていなかった。
届いていないと思っていた。
夜空に預けたつもりだった。
でも、律は見ていた。
ちゃんとではない。確信でもない。勘違いかもしれない。でも、受け取ろうとしていた。
『俺も好きだった』
言葉が、部屋に落ちた。
十年遅れで。
『言えなかった。ださいよな。あと一歩が、どうしても出なかった。でも、もしこの録音がいつか星野に届いたら、これだけは言いたい。踏み出せなかった一歩って、なかったことになるわけじゃないと思う。そこに立ち尽くした時間も、迷ったことも、怖かったことも、全部ちゃんとその人の一部になる』
ゆらは泣いていた。
声を出さずに。
シルが机から降りて、ゆらの膝に乗った。重い。温かい。生きている。その重さがなかったら、ゆらは十年前へ落ちてしまいそうだった。
『だから星野は、星野のまま、どこかできれいな言葉を書いててほしい。俺はたぶん、君の言葉に救われる側の人間だから』
そこで、長い沈黙があった。
ノイズだけが続く。
ざあ、ざあ。
古い雨。
遠い星の砂嵐。
それから、最後に律の声が小さく入った。
『シルの写真、もっと見たかったな』
ゆらは、とうとう声を出して泣いた。
その言葉は反則だった。
好きだった、よりも。
ごめん、よりも。
君の言葉が好きだ、よりも。
シルの写真、もっと見たかったな。
そんな日常の続きを望む言葉が、いちばん痛かった。
テープは、そこで切れた。
カチ、と小さな音がして、部屋に静けさが戻る。
ゆらはしばらく動けなかった。
机の上には、カセットレコーダー。写真。ハンカチ。レシート。膝の上にはシル。
十年間、ゆらが抱えていた未送信の箱が、内側から開いてしまった。
救われた。
たしかに救われた。
あの日、自分だけが好きだったわけではなかった。あの距離は、ふたりにとってまぶしかった。律も、手を握りたかった。律も、好きだった。
でも同時に、腹が立った。
どうして今なの。
どうして十年前に言ってくれなかったの。
どうして既読だけつけて消えたの。
どうして、シルの写真をもっと見たかったなら、見たいって言ってくれなかったの。
ゆらはシルを抱きしめた。
シルは少し迷惑そうに「みゃ」と鳴いた。
「ごめん」
ゆらは泣きながら笑った。
「君の名付け親、ほんとさあ……」
言葉が続かなかった。
スマホを取る。
カナに電話をかける。
数回のコールのあと、眠そうな声が出た。
『なに、深夜の迷惑女』
「カナ」
『声やば。爆発した?』
「した」
『被害状況は?』
「十年分」
電話の向こうで、カナが黙った。
その沈黙だけで、ゆらはまた泣きそうになった。カナはふざけるときはふざける。でも本当に危ないときは、ちゃんと黙ってくれる。
「律、私のこと好きだったって」
『……そっか』
「そっか、じゃないよ」
声が震えた。
「何これ。嬉しいのに、腹立つ。救われたのに、苦しい。今さら知って、どうしたらいいの。私、ちゃんと前に進んでたつもりだったのに。仕事もして、シルもいて、他人の未送信を預かって星にして届けて。なのに、こんなの聞いたら、また十七歳に戻っちゃうじゃん」
カナは静かに聞いていた。
『ゆら』
「何」
『泣いていいよ』
「泣いてる」
『じゃあ、もっと泣け』
「雑」
『雑でいいんだよ、こういうときは。きれいに泣こうとすんな』
ゆらはスマホを耳に当てたまま、肩を震わせた。
「まだ好きだった」
その言葉は、あまりにも簡単に出た。
十年間、言えなかったのに。
今さら、電話越しの親友に向かってなら言える。
「ずっと、好きだった」
『うん』
「終わったと思ってた。でも終わってなかった。終わらせたふりしてただけだった」
『うん』
「どうしよう」
『今夜はどうもしなくていい』
カナの声は、いつもより少し低かった。
『とりあえず泣け。シル抱け。水飲め。寝ろ。恋の神はニートだけど、明日もたぶんまだニートしてるから、急がなくていい』
ゆらは泣きながら笑った。
「恋の神さま、いつ就職するの」
『たぶん定年までしない』
「最悪」
『でも、たまに仕事するよ』
その言葉に、ゆらは黙った。
机の上のカセットを見る。
十年遅れの告白。
遅すぎる。
遅すぎるけれど、届いた。
星の光みたいに。
過去から届く手紙みたいに。
「カナ」
『ん?』
「私、これ、どうしたらいいと思う?」
『書きな』
また、それだった。
十年前、屋上前の踊り場で、カナは同じことを言った。
律に言えなかったことを書きな、と。
『今度は、自分の未送信だった想いを書きなよ』
ゆらは涙で濡れた頬を拭った。
自分の未送信。
他人の未送信を星にしてきた自分が、ずっと触れなかった箱。
開いてしまった箱。
「書けるかな」
『書ける』
「なんでわかるの」
『ゆらだから』
同じ言葉だった。
十年前と同じ。
ゆらは泣きながら、少しだけ笑った。
電話を切ったあと、部屋は静かだった。
カセットレコーダーは沈黙している。けれど、律の声はもう消えなかった。耳の奥に、胸の奥に、十七歳の自分の隣に残っている。
ゆらはノートを開いた。
まだ書ける気はしない。
それでも、最初の一行だけ書いた。
「十年遅れで、君の声が届いた。」
シルが膝の上で丸くなる。
ゆらはシャーペンを握りしめた。
未送信は毒になる。
でも、光になることもある。
その夜、ゆらは初めて、自分自身の未送信を星に届ける覚悟を持った。




