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送信ボタンを押すときには深い崖がそびえたっている

家に帰ると、玄関の匂いがいつもと違った。


母が作った味噌汁の湯気。洗剤の匂い。雨でもないのに少し湿った制服の布。そこに、ほんの小さく、動物病院の消毒液と、シルの温かい毛の匂いが混ざっていた。


「ただいま」


ゆらが言うと、母がキッチンから顔を出した。


「おかえり。……その箱ね?」


「うん」


ゆらは両手で抱えていた小さな箱を、そっと玄関に置いた。中では黒い子猫――シルが、毛布に包まれて丸くなっている。動物病院でもらった箱は軽いのに、ゆらの腕にはまだ妙な重さが残っていた。命を持ち帰るって、こういう重さなんだと思った。


母はしゃがみ込み、箱の中を覗いた。


「小さいねえ」


「うん」


「名前は?」


「シル」


「シル?」


「しるし、のシル。律……じゃなくて、朝倉がつけた」


言ってから、しまったと思った。


母の眉が少しだけ上がる。


「朝倉くんって?」


「クラスの人。一緒に見つけたの」


「ふうん」


その「ふうん」は、絶対にただの「ふうん」ではなかった。母親という生き物は、娘の声の揺れを地震計より正確に測る。恋愛感情の震度一でも、余裕で検知する。危険すぎる観測装置だ。


「べ、別にそういうのじゃないから」


「私は何も言ってないけど」


「言ってないけど、顔が言ってた」


「顔は自由だから」


母はさらっと言って、シルを見た。


「とりあえず、今日は私の部屋に毛布敷こう。ミルクのやり方も病院で聞いたんでしょ?」


「うん。あと薬も」


「ちゃんとメモした?」


「した」


「じゃあ、今日からゆらも保護者だね」


保護者。


その言葉に、ゆらの胸がきゅっとした。


恋のことばかりで破裂しそうだった胸の中に、別の責任がそっと座った気がした。シルは小さく鳴いた。返事みたいに。


「よろしくね、シル」


ゆらが指先で箱の縁を撫でると、シルは大きな目でこちらを見た。黒いビー玉みたいな目。その奥に、川沿いの夜と、律の手の温度がまだ残っているように見えた。


部屋に入ると、今日の出来事が一気に押し寄せてきた。


机の上に、コンビニのレシートを置く。

その隣に、星の刺繍のハンカチを置く。

ベッドの横には、シルの箱。

スマホの画面には、律とのトーク画面。


証拠品が多すぎた。


まるで、今日という事件の現場検証みたいだった。犯人は朝倉律。罪状は、無自覚に人の心臓を乱した罪。情状酌量は、笑顔が優しいので悩む。


ゆらはベッドに座り、スマホを握った。


シルの写真、送るね。


さっき駅でそう言った。

律も「見たい」と言った。


つまり、送っていい。

いや、むしろ送るべき。

猫の成長報告は名付け親への義務。猫法で決まっている。たぶん。たぶん猫法第二条あたりにある。


ゆらはシルの写真を撮った。


箱の中で丸くなる黒い毛玉。病院でもらった毛布に鼻を埋め、片耳だけぴょこんと立っている。かわいい。あまりにもかわいい。宇宙規模でかわいい。地球、まだ捨てたもんじゃない。


写真を選んで、律のトーク画面に貼る。


《シル、無事に家に着いたよ》


送信ボタンの手前で、指が止まった。


たったそれだけの文章なのに、なぜこんなに緊張するのか。猫の報告だ。恋文ではない。いや、でも猫の報告を装った「あなたと今日を共有したいです」ではある。バレるか。バレないか。むしろバレてほしいのか。いや待て、落ち着け、脳内会議がまた感情論で荒れている。


ゆらは文章を消した。


《シル、寝てます》


短すぎる。業務連絡か。


消す。


《今日はありがとう。シル、落ち着いてる》


普通。普通すぎる。でも普通でいいのでは? いや、「今日はありがとう」が少しだけ重い? でも本当にありがとうだし。いやいや、ありがとうの裏に好きが透けてない


消す。


《名付け親さんへ。シルは無事です》


ふざけすぎ。


消す。


《朝倉》


呼びかけただけで終わった。怖い。怖すぎる。こんなの通知に出たらホラーである。


消す。


スマホを伏せる。


「無理」


シルが箱の中で「み」と鳴いた。


「わかる? 無理だよね?」


シルはもう一度、小さく鳴いた。


「いや、あなたの名付け親なんだけどね」


ゆらはため息をついた。子猫に恋愛相談をしている。しかも相手は今日うちに来たばかり。初日からこんな飼い主で申し訳ない。


もう一度スマホを持つ。


律とのトーク画面を開く。


最後のメッセージは、昨日の「明日の現代文の範囲どこ?」だった。そんな実用性の塊みたいな会話の上に、急に今日のすべてを置こうとしている。ハードルが高い。


ゆらは深呼吸した。


《今日はありがとう。シル、家に着いたよ。名前、気に入ってるっぽい》


写真を添付する。


今度こそ。


指が送信ボタンに近づく。


好き。


本当は、それも送りたかった。


《あと、朝倉のことが好き》


画面の中で、その文字はあまりにもまっすぐだった。まっすぐすぎて、ゆらは息が止まった。自分の心臓をそのままスマホに乗せたみたいで、怖くなった。


もし送ったら、律はどうするだろう。


困るかもしれない。

笑うかもしれない。

「友達だから」と言うかもしれない。

今日までの帰り道が、全部違う色になってしまうかもしれない。


ゆらは、その一文だけを消した。


そして、残った文章と写真だけを送った。


送信済み。


それだけで、全身の力が抜けた。


すぐに既読はつかなかった。


ゆらはスマホを机に置き、シルのミルクを準備した。小さな哺乳瓶をぬるま湯で温め、病院で教わった量を確認する。粉ミルクの甘い匂いが部屋に広がる。シルは最初こそ戸惑っていたが、やがて必死に吸い始めた。その小さな口の動きが生きることそのもので、ゆらはしばらく見入ってしまった。


スマホが震えた。


心臓が跳ねる。


律からだった。


《よかった。シル、かわいい》


たったそれだけ。


でも、ゆらはベッドに倒れ込みそうになった。


かわいい。


シルがかわいいのか。写真がかわいいのか。いやシルだ。そこは間違えるな。でも、その文字が律から届いただけで、部屋の温度が少し上がった気がした。


続けて、もう一通。


《今日はありがとう。星野が飼ってくれて、安心した》


安心した。


その言葉で、ゆらの胸の奥がふわっとほどけた。


《こちらこそありがとう。名付け親として、今後も報告します》


送信。


今度はすぐ既読がついた。


律から返事が来る。


《お願いします。名付け親として見守ります》


ゆらはスマホを抱えて、布団に顔を埋めた。


「無理……」


シルが箱の中で小さく鳴く。


「いや、あなたの話だからね。あなたのおかげだからね」


ゆらは笑った。


今日は大丈夫。


そう思った。


ちゃんとメッセージを送れた。好きとは言えなかったけど、今日の一部は律に届いた。シルの写真も送った。明日も学校で会える。ハンカチも返せる。今日の話もできる。


まだ、次がある。


その安心が、ゆらを眠りに近づけた。


翌朝。


教室に入った瞬間、ゆらは律の席を見た。


空いていた。


最初は、ただの遅刻だと思った。律は遅刻をするタイプではないけれど、誰だって一度くらい寝坊する。炭酸で世界をリセットしきれなかった日だってある。そう思おうとした。


一時間目が始まっても、律は来なかった。


二時間目も来なかった。


昼休み、カナがゆらの机にやって来た。


「律、休み?」


「みたい」


「連絡した?」


「昨日はした。シルの写真送った」


「シル?」


「猫。うちで飼うことになった」


「待って、情報量。昨日の放課後、恋愛ドラマと動物ドキュメンタリー同時上映だったの?」


「そんな感じ」


「で、律から返事は?」


「来た。普通に」


カナは少し眉をひそめた。


「今日の朝は?」


ゆらはスマホを開いた。朝に送った《シル、朝ミルク飲んだ》というメッセージは、未読のままだった。


「未読」


「寝てるだけかもよ」


「うん」


そう言いながら、ゆらの胸の奥には小さな不安が広がっていた。


五時間目が始まる前、担任が教室に入ってきた。


いつもより少し硬い顔をしていた。


教室のざわめきが、ゆっくり小さくなる。


嫌な予感がした。


よくない知らせは、言葉になる前に空気の温度を変える。


担任は教卓の前に立ち、出席簿を閉じたまま言った。


「朝倉律くんですが、家庭の事情で、急に転校することになりました」


音が消えた。


いや、本当は消えていない。誰かが「え」と言った。椅子が軋んだ。窓の外で部活の掛け声がした。けれど、ゆらの耳には全部が遠かった。水の中に沈んだみたいだった。


家庭の事情。


しかも、急に転校。

本当に急すぎる。


詳しいことは言えません。


荷物は後日、ご家族が取りに来ます。


担任の声が、所々ブツ切れになって届く。


ゆらは椅子に座ったまま、動けなかった。


昨日、またねと言った。

昨日、シルの写真を送った。

昨日、名付け親として見守ると言った。

昨日、まだ次があると思った。


スマホを開く。


朝のメッセージは、未読のままだった。

机の下で、ゆらの指が震えた。

胸の奥に、昨夜消した一文が戻ってくる。


《あと、朝倉のことが好き》


送らなかった言葉。


送れなかった言葉。


それが今、画面の中ではなく、ゆら自身の中で光っていた。痛いくらいに。


放課後のチャイムが鳴る。


昨日と同じ音なのに、世界はもう同じではなかった。


ゆらは、初めて知った。


送信ボタンの前で立ち止まった言葉は、消したつもりでも消えない。


むしろ、届かなかったぶんだけ、胸の奥で長く光り続けるのだと。

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