君の瞳は星よりまぶしい
駅前の歩道橋は、夜になると少しだけ宇宙船みたいに見える。
鉄の階段は冷えていて、上へ進むたびにローファーの底がかつん、かつんと乾いた音を立てた。手すりには昼間の温度がもう残っていない。触れると、指先から小さな冬が入ってくるみたいだった。
ゆらは、胸に抱えた小さな箱をそっと持ち直した。
中では黒い子猫――シルが丸くなっている。動物病院でもらった毛布に包まれて、時々かすかに「み」と鳴いた。そのたびに、ゆらの心臓はきゅっと縮む。今日からこの子は、自分の家族になる。まだ実感はふわふわしているけれど、箱の軽さだけが妙に現実的だった。
隣には律がいる。
律が名づけたシル。
律が包んだ星の刺繍のハンカチ。
律がくれたコンビニのレシート。
律と歩いた遠回り。
今日という日は、あまりにも証拠が多すぎる。
歩道橋の上まで来ると、線路が夜の中へまっすぐ伸びていた。ホームには人が少なく、遠くの電車の音だけが、地面の下から響いてくる。街灯が律の横顔を照らし、その目の中に小さな光を落としていた。
ゆらは思った。
今だ。
今なら言えるかもしれない。
コンビニでは言えなかった。
夜空の下でも言えなかった。
でも、シルを一緒に助けたあとなら。
今日の証拠をこんなに抱えた今なら。
「朝倉」
声に出した瞬間、心臓が派手に跳ねた。
律が振り向く。
「なに?」
その「なに?」が優しすぎて、ゆらは一瞬で泣きそうになった。別に泣く場面ではない。むしろここは、恋愛ドラマなら告白の山場だ。なのに、胸の中では感情が渋滞していた。好き。怖い。言いたい。壊したくない。シル落とさないようにしなきゃ。いや今そこ? いや、そこも大事。
ゆらは箱を抱える腕に力を込めた。
「今日さ」
「うん」
「その……いろいろ、ありがとう」
まず出たのは、逃げ道みたいな言葉だった。
律は少し笑った。
「俺も。星野がいたから、シル助けられた」
シル。
律がその名前を呼ぶだけで、ゆらの胸の奥が温かくなる。自分の家に来る猫に、律が名前をくれた。その事実が、まるでふたりの間に細い糸を結んだみたいだった。
「成長報告、ちゃんとするから」
「うん。楽しみにしてる」
「写真とか送る」
「見たい」
「たぶん、めちゃくちゃ送る」
「画像の容量空けとく」
「猫ハラスメントになるかも」
「歓迎します」
律がまじめな顔でそう言うから、ゆらは笑ってしまった。
笑ったら、少しだけ緊張がほどけた。
けれど、ほどけた緊張の奥から、もっと大きな言葉が顔を出す。
好き。
言わなきゃ。
今、この流れで言えばいい。
「シルの写真送るね」のあとに、「それで、私、朝倉のことが好き」って言えばいい。
いや流れおかしい? 猫から恋への急カーブ、事故る?
でも青春なんてだいたい事故だ。
いけ。
踏め。
あと一歩。
ゆらは息を吸った。
「朝倉、あのね」
律がまっすぐこちらを見る。
街灯の光が、彼の瞳に映っている。星よりまぶしい、なんて表現はベタすぎる。だが、恋をしている人間はベタに敗北する生き物だ。ゆらはその瞬間、本当にそう思ってしまった。
「私――」
そのときだった。
律のスマホが震えた。
ぶうん、と低い振動音。
ただの通知かもしれない。けれど、その音はゆらの言葉を真ん中から切った。まるで、薄い紙に入った裂け目みたいに、空気がすっと割れた。
律は一瞬、動かなかった。
それからポケットからスマホを取り出し、画面を見た。
表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
ゆらはそれを見逃さなかった。
恋をしている人間の目は、時々、防犯カメラより性能がいい。好きな人のまばたき一つ、息の浅さ一つ、笑顔の端のわずかな歪みまで勝手に録画してしまう。そして、あとで何度も見返して自滅する。最悪の高画質だ。
「ごめん、出てもいい?」
律が言った。
「うん。もちろん」
ゆらは笑った。笑うしかなかった。
律は歩道橋の端へ少し移動して、電話に出た。
「……うん」
風が吹く。ゆらの髪が頬に当たる。腕の中でシルが小さく身じろぎした。箱の底から、かすかな温度が伝わってくる。今ここに確かな命があるのに、ゆらの心は少しずつ不安に冷えていった。
律の声は小さくて、全部は聞こえない。
「わかった」
「でも、明日……」
「うん」
「ちゃんと話す」
「ごめん」
断片だけが、夜風に乗って届く。
ちゃんと話す。
その言葉が、ゆらの胸に引っかかった。
誰に?
何を?
どうして、そんな顔をしているの?
聞きたい。
けれど聞けない。
自分は何者なんだろう、と思った。シルの飼い主になる人。律と一緒に遠回りしたクラスメイト。コンビニで三ミリの恩を受け取った人。律が「成長報告を楽しみにしてる」と言ってくれた相手。
でも、それだけだ。
まだ、彼の秘密を聞ける名前を持っていない。
律が電話を切った。
戻ってきた彼は、いつもの律の顔をしていた。けれど、いつもの顔をしている人ほど、何かを隠していることがある。
「ごめん」
「大丈夫。何かあった?」
ゆらは、なるべく普通の声で聞いた。
律は一瞬だけ黙った。
その一瞬が長かった。
「たいしたことじゃない」
嘘だ、と思った。
言葉より先に、直感がそう言った。
でも、ゆらは踏み込めなかった。
自分だって、さっきまで好きと言えなかったくせに。律が言えない何かを抱えていることだけ責めるなんて、ずるい気がした。
「そっか」
ゆらはそう言うしかなかった。
歩道橋を降りると、駅前の明かりが近づいてきた。改札の電子音。タクシー乗り場のアイドリング音。自販機の白い光。人の声。世界は、告白に失敗したゆらのことなんて知らない顔で動いている。
律が自販機の前で立ち止まった。
「星野、温かいの飲む?」
「え?」
「走ったあとだし。あと、シル抱えてると手ふさがるけど」
「大丈夫。片手なら」
律はホットココアを二本買った。缶が落ちる音が、がこん、と夜に響く。その音があまりに日常的で、ゆらは少し救われた。
律は一本をゆらに渡した。
「猫法、第一条」
「ん?」
「飼い主も温まること」
ゆらは思わず笑った。
「勝手に改正しないで」
「名付け親には立法権がある」
「ないよ」
「じゃあ提案権」
「それなら検討します」
缶は熱かった。ゆらはシルの箱を片腕で抱え直し、もう片方の手でココアを包む。指先がじんわり温まっていく。さっき冷えた心の端まで、少しだけ溶けるような気がした。
「今日、すごかったね」
律が言った。
「うん。放課後の情報量じゃない」
「タイトルつけるなら?」
ゆらは少し考えた。
「『三ミリの恩と黒猫の夜』」
律が笑う。
「いいね。ちょっと観たい」
「朝倉は?」
律は缶を見つめたまま、少し考えた。
「『あと一歩の星』」
ゆらの指が止まった。
「……何それ」
「変?」
「いや、急にエモいの禁止」
「星野のほうがいつもエモいじゃん」
「私は文芸部だから。商売道具です」
「まだ商売にはなってないでしょ」
「将来なるかもしれないじゃん」
「なると思う」
律は、あまりにも自然に言った。
ゆらは返事に詰まった。
なると思う。
それは、ただの励ましかもしれない。だけどゆらにとっては、未来を少しだけ信じてもらえたみたいな言葉だった。律はいつも、ゆらの言葉を軽く扱わない。そこが好きだった。好きすぎて、苦しかった。
「星野の言葉、俺、好きだよ」
電車がホームへ入ってくる音がした。
風が吹いた。
ゆらは、今の言葉を聞き間違えたのかと思った。
好き。
でも、それは「言葉」が好きという意味だ。わかっている。わかっているけれど、ゆらの心は勝手に暴走した。好きな人から「好き」と言われた単語だけを拾って、文脈を置き去りにして走り出す。恋の脳内編集、都合がよすぎる。
「……ありがとう」
やっと、それだけ言えた。
ホームに降りると、律の乗る電車とゆらの乗る電車は反対方向だった。シルの箱を抱えたゆらは、自分のホームへ向かう前に立ち止まる。
「シルの写真、送るね」
「うん」
「あと、病院のことも」
「うん。何か手伝えることあったら言って」
「名付け親だから?」
「それもある」
「それ以外は?」
ゆらは、思わず聞いてしまった。
律が少し目を見開く。
ほんの一瞬。
その一瞬に、何か言葉が生まれかけた気がした。
けれど、律は笑った。
「友達だから」
友達。
その言葉は優しかった。
優しいのに、少し痛かった。
「そっか」
ゆらは笑った。
電車の発車ベルが鳴る。
律は自分の電車に乗り込む前に、こちらを振り返った。
「じゃあ、またね」
またね。
普通の言葉。毎日のように交わされる言葉。明日も会えることを前提にした、軽い別れの言葉。
ゆらも言った。
「またね」
電車のドアが閉まる。
ガラス越しに律が手を上げた。ゆらも、シルの箱を片腕で抱えたまま、ぎこちなく手を振った。ガラス一枚の向こうに律がいる。すぐそこにいるのに、もう触れられない。
電車がゆっくり動き出す。
律の姿が流れていく。
その横顔が、最後に少しだけ笑ったように見えた。
ゆらはホームに残されたまま、胸の奥で言えなかった言葉を抱え直した。
好き。
今日も言えなかった。
でも、まだ次がある。
明日がある。シルの写真を送る口実もある。ハンカチを返す約束もある。今日の証拠は、こんなにたくさんある。
だから大丈夫。
そう思った。
そう思いたかった。
腕の中でシルが小さく鳴いた。
「みゃ」
ゆらは箱を覗き込み、そっと笑った。
「帰ろっか、シル」
ホームの床は冷たく、夜風は少し強くなっていた。
ゆらはまだ知らない。
「またね」が、必ず次を連れてくる言葉ではないことを。
そして、今日言えなかった一言が、この先十年、胸の奥で光り続けることを。




