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星の刺繍が入った白いハンカチで黒い子猫を抱く

動物病院の自動ドアが開いた瞬間、消毒液の匂いがふたりを包んだ。


コンビニの白い光とは違う、もっと硬くて、もっと清潔で、少しだけ怖い白。蛍光灯は天井で静かに唸り、受付の奥からは小さな犬の鳴き声が聞こえた。壁には、猫のワクチン案内と、迷子ペットのポスターが貼られている。そこだけ世界が「命を預かっています」と真顔で言っているみたいだった。


律は、星の刺繍が入った白いハンカチで黒い子猫を包んだまま、受付へ駆け寄った。


「すみません。この子、川沿いで見つけて。まだ小さいんです」


いつもの律より、少し早口だった。


ゆらはその横で息を切らしながら、何度も頷いた。走ったせいで頬が熱い。ローファーの中のつま先がじんじんする。けれどそんなことより、ハンカチの中で小さく震えている命のほうが、ずっと気になった。


受付の女性はすぐに表情を変えた。


「見せてください。保護した子ですね」


律がそっとハンカチを開くと、黒い子猫は「にゃ」とも言えないくらい弱い声を出した。夜のかけらみたいな体。濡れて固まった毛。大きすぎる目。その目だけが、まだ必死に世界を見ようとしていた。


ゆらの胸が、ぎゅっと痛くなる。


「大丈夫ですか?」


思わず聞くと、受付の女性は落ち着いた声で言った。


「先生に診てもらいますね。おふたりは、ここで少し待っていてください」


子猫は奥へ連れていかれた。


ドアが閉まる。


その瞬間、急に力が抜けた。ゆらは待合室の椅子に座り込み、膝に手を置いた。プラスチックの椅子は冷たくて、走って熱くなった体にやけに現実的だった。


律も隣に座った。


ふたりの間に、さっきまで子猫がいたぶんの空白ができた。


「間に合ったかな」


ゆらが呟く。


「うん。たぶん」


律はそう言ったけれど、その声には少しだけ祈りが混じっていた。


待合室の時計が、秒針を刻んでいる。チク、チク、チク。朝倉時計店で聞いた針の音とは違う。ここにある時間は、命の結果を待つ時間だった。たった数分が、やたら長い。


ゆらは落ち着かなくて、膝の上で指を組んだりほどいたりした。


「私、猫のこと全然わかんない」


「俺も詳しくはない」


「じゃあ、なんであんなにすぐ動けたの?」


律は少し考えた。


「動かないほうが怖かったから」


その言葉に、ゆらは黙った。


律はときどき、簡単な言葉でまっすぐなことを言う。派手じゃない。大げさじゃない。でも、ちゃんと胸の奥まで届く。ゆらはそんな律の言葉に何度も救われて、何度も困らされていた。


好きが増えるからだ。


今もまた、増えた。


胸の中で、好きが勝手に増築される。しかも違法建築。耐震基準が心配である。


「星野?」


律がこちらを見る。


「え、何?」


「なんか、今すごい顔してた」


「してない」


「してた。プールの監視院と区役所の職員が同時に来たみたいな顔」


「どんな顔?」


「俺も初めて見た」


ゆらは思わず笑った。


病院の静かな空気の中で、笑い声は少しだけ小さく響いた。こんなときに笑っていいのかと思ったけれど、笑えたことで少し呼吸が楽になった。


しばらくして、診察室のドアが開いた。


白衣の獣医師が顔を出す。


「保護してくださった方ですね」


ゆらと律は同時に立ち上がった。


「はい」


「少し低体温でしたが、命に別状はなさそうです。栄養状態はよくないので、しばらく通院とミルクが必要です。まだ生後一か月くらいですね」


「よかった……」


ゆらの声は、自分でも驚くほど小さかった。


胸の奥で、何かがほどける。泣くほどではない。けれど、泣く一歩手前の温かいものが喉まで上がってきた。


律も、深く息を吐いた。


「よかった」


その横顔には、さっきまでの緊張が少し残っていた。額にはうっすら汗がにじんでいる。制服の襟も少し乱れている。いつもの静かで涼しい律ではなく、必死に走って、小さな命を守ろうとした律だった。


ゆらは、その姿を見てしまった。


見てしまったら、もうだめだった。


好きだ。


今日、何度も思った言葉が、今度は逃げ場なく胸に落ちた。冷蔵ケースの前で指が触れそうになったときよりも、夜空を見上げたときよりも、もっとはっきりと。


好き。


この人の、こういうところが。


先生は続けた。


「この子、今後どうされますか? 病院で里親募集もできますが、保護主さんが決まるまで少し時間がかかるかもしれません」


ゆらは、反射的に律を見た。


律もこちらを見た。


ふたりの間に、また沈黙が落ちる。


けれど今度の沈黙は、冷蔵ケースの前のように苦しいものではなかった。小さな命を前にして、ふたりが同じ質問を受け取っている沈黙だった。


どうする?


この子を、どうする?


ゆらの頭に、家のことが浮かんだ。母は動物が好きだ。父は少し心配性だけど、きっと「責任を持てるなら」と言う。自分は書店のアルバイトがある。学校もある。子猫の世話は簡単じゃない。ミルクも、病院も、トイレも、全部ちゃんとしなきゃいけない。


それでも。


あの川沿いで、この子を見つけた瞬間から、ゆらの中にはもう答えが生まれていたのかもしれない。


「私……」


声が震えた。


「私が、飼いたいです」


言ったあとで、自分でも驚いた。


律が目を見開く。


「星野」


「もちろん、家に電話して聞く。ちゃんと相談する。でも、里親が見つかるまでとかじゃなくて……できるなら、うちの子にしたい」


言葉にすると、急に責任の重さがのしかかってきた。でも、不思議と怖くはなかった。好きと違って、この言葉はちゃんと出せた。命に関わる言葉だからだろうか。逃げたくなかったからだろうか。


ゆらはその場で母に電話した。


事情を説明すると、母は最初こそ驚いたが、最後には深くため息をついた。


『ゆらがそこまで言うなら、まず連れて帰っておいで。ただし、かわいいだけじゃ済まないよ』


「わかってる」


『本当に? 夜中に鳴くかもしれないし、病院も通うし、お金もかかるし、部屋も毛だらけになるよ』


「わかってる。たぶん。でも、ちゃんとやる」


電話の向こうで、母は少し黙った。


『じゃあ、名前考えないとね』


その言葉で、ゆらの胸が一気に熱くなった。


名前。


この子に、名前がつく。


ただの「拾った子猫」ではなく、家族になる。


電話を切ると、律が少し安心したように笑った。


「よかったね」


「うん」


「すごいね、星野」


「何が?」


「ちゃんと決められるところ」


ゆらは首を振った。


「決めたっていうか……この子をまたどこかへ預けるのが、急に嫌になっただけ」


「それも決めるってことだと思う」


律の声は優しかった。


受付の女性が、保温用の小さな箱に入った子猫を連れてきた。黒い毛は少し乾いて、さっきより目に力が戻っている。まだ頼りないけれど、小さな前足が箱の縁にかかった。


「名前、どうします?」


受付の女性に聞かれて、ゆらは固まった。


「え、今?」


「仮の名前でも大丈夫ですよ。カルテに書くので」


突然、人生の重大会議が始まった。


名前。


名前だ。


ゆらの脳内に、ありとあらゆる候補が走る。クロ。くろまめ。夜。星。ミルク。いや黒猫にミルクは混乱する。レモンティーはもっと違う。炭酸水はペット名として攻めすぎ。カナなら、そうつけそうで怖い。絶対嫌だ。


ゆらが無言で混乱していると、律が子猫を見つめて言った。


「シル」


「え?」


ゆらが聞き返す。


律は少し照れたように目を伏せた。


「しるし、のシル。今日のしるしみたいだから」


今日のしるし。


さっきコンビニで、律はレシートを「今日の証拠」と言った。そして今、この子猫にも、同じような意味をくれた。


ゆらは子猫を見る。


黒い小さな体。濡れた夜から拾い上げられた命。星の刺繍のハンカチに包まれて、ふたりの放課後に突然現れた存在。


シル。


変な名前かもしれない。


でも、妙に似合っていた。


「どう?」


律が少し不安そうに聞く。


ゆらは笑った。


「変」


「だよね」


「でも、好き」


言ってから、心臓が跳ねた。


好き。


今のは子猫の名前の話だ。名前が好き。名前が。わかっている。なのに、律の耳が少し赤くなった気がして、ゆらまで熱くなる。


受付の女性は微笑みながらカルテに書いた。


「シルちゃんですね」


その瞬間、黒い子猫は小さく鳴いた。


「にゃ」


まるで、自分の名前だと返事をしたみたいだった。


ゆらは笑ってしまった。


「気に入ったっぽい」


「よかった」


律も笑った。


病院を出るころには、夜はさらに深くなっていた。子猫――シルは、病院でもらった小さな箱の中で丸くなっている。ゆらはその箱を両手で抱えていた。軽い。あまりにも軽い。でも、今日受け取ったものの中でいちばん重かった。


律は、子猫を包んでいたハンカチを見下ろして苦笑した。


「これ、猫の毛だらけになった」


「洗って返す」


「いいよ」


「え?」


「星野が持ってて」


律はハンカチを差し出した。白い布には、まだ少しだけシルの匂いが残っている。ミルクでも、雨でもない、命の匂い。


「なんか、今日の証拠みたいだから」


また、その言葉だった。


今日の証拠。

レシート。

子猫。

ハンカチ。


ゆらは、胸の奥で今日という日がどんどん形を持っていくのを感じた。たぶん忘れられない。忘れたい日がいつか来ても、きっと忘れられない。


ゆらはハンカチを受け取った。


「じゃあ、預かる」


「うん」


「シルの名付け親として、責任重大だからね」


「俺?」


「そう。命名権を行使した人には、成長報告を受ける義務があります」


「そんな制度ある?」


「うちの猫法ではあります」


「猫法」


「第一条、シルはかわいい」


「もう法律が親バカ」


ふたりで笑った。


箱の中で、シルがまた小さく鳴いた。


その声を聞いた瞬間、ゆらは思った。


今日、私はひとつの命を連れて帰る。


そして、たぶん、ひとつの恋も連れて帰る。


どちらも軽くはない。どちらも責任がある。どちらも、かわいいだけでは済まない。でも、手放したくないと思ってしまった。


駅へ向かう道を歩きながら、ゆらは箱を胸に抱きしめた。


律が隣にいる。

シルが腕の中にいる。

ポケットにはコンビニのレシート。

バッグの中には星の刺繍のハンカチ。

今日という日は、証拠だらけだった。

だからこそ、ゆらはまだ知らなかった。

証拠が多い日ほど、失ったときに痛いということを。

そして、この小さな黒猫が、十年後もゆらのそばで、朝倉律という名前を思い出させ続けることを。

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