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都会の恋は障害物だらけ

コンビニを出ると、夜が一段濃くなっていた。


さっきまで店内の白い光に包まれていたせいで、外の空気は少しだけ冷たく、少しだけ本物に感じられた。自動ドアが背中の後ろで閉まり、ピンポーンという電子音が遠ざかる。ゆらの手の中には、律から渡されたレシートがある。薄くて、頼りなくて、でも今日を証明するには十分すぎる紙だった。


律は炭酸水のキャップを開けた。


プシュッ。

小さな音が、夜の中で弾ける。


「世界、リセットされた?」


ゆらが聞くと、律は一口飲んでから、少し考えた。


「半分くらい」


「半分なんだ」


「全部リセットしたら、今日のことも消えそうだから」


その言葉に、ゆらは一瞬だけ息を忘れた。


今日のこと。


律の口からそう言われると、たったそれだけで胸の奥が熱くなる。遠回りしたこと。コンビニに寄ったこと。冷蔵ケースの前で指が触れそうになったこと。三ミリの恩で笑ったこと。律にとっても、それらはただの放課後ではないのだろうか。そう期待してしまう自分がいる。


でも期待は危険だ。

期待は、心の中に勝手に階段を作る。そして一段上がったあとで、そこに床がなかったと気づくことがある。ゆらはレモンティーのキャップを開けた。甘酸っぱい匂いが、夜風に少し混ざる。


「じゃあ半分でいいね」


「うん」


ふたりは並んで歩き出した。


商店街の明かりは背中側に遠ざかり、川沿いの道へ戻ると、街灯の数が急に減った。アスファルトは昼の熱をほとんど失っていて、ローファーの底からじんわり冷たさが伝わってくる。どこかの家から夕飯の匂いがした。焼き魚か、味噌汁か、それとも誰かの家庭の普通の幸せか。ゆらには少しだけ眩しかった。


空を見上げると、星は少なかった。


星ノ瀬町なんて名前のくせに、この町の夜空はいつも遠慮がちだ。街灯とビルの明かりに押されて、星たちは薄いインクの奥へ隠れている。見えるのは、強情に光っている数粒だけ。


「今日、こと座が見えるかも」


律が言った。


「こと座?」


「うん。琴の星座。ベガがあるやつ」


「ベガって、織姫?」


「そう。七夕の」


「じゃあ彦星は?」


律は夜空を少し探して、遠くのビルを指さした。


「たぶん、あのビルの向こう」


「隠れてるじゃん」


「都会だからね」


「都会の恋、障害物多すぎ」


律が笑った。


その笑い声が、夜の川に小さく落ちた。ゆらも笑ったけれど、自分で言った言葉が胸に残った。


都会の恋は障害物だらけ。


ビルに隠れた星。街灯に負ける光。すぐ隣にいるのに、言葉だけが届かないふたり。


まさに今の自分たちじゃん、とゆらは思った。いや、自分たちとか言うな。まだ何も始まっていない。始まっていないのに、もう切なさだけは一人前に育っている。コスパが悪い。恋、感情のサブスクなら即解約したい。でも律が隣にいる限り、解約ボタンは見つからない。


「星野ってさ」


律が空を見上げたまま言った。


「うん」


「星、好き?」


「嫌いじゃないけど、詳しくはない」


「名前、星野なのに?」


「そこ言われると弱い。名字負けしてる」


「名字負け」


「朝倉は朝に強いの?」


「弱い」


「じゃあ名字負け仲間じゃん」


「仲間だ」


ふたりで笑う。


笑いながら、ゆらは思った。こういう会話が好きだ。意味があるようで、ない。ないようで、少しある。くだらない言葉を投げ合っているだけなのに、その下にちゃんと温度がある。


好き、と言うなら今かもしれない。


星の話をしている。夜空がある。帰り道は静か。コンビニのレシートはポケットにある。さっき指は触れなかったけれど、だからこそ、今なら言えるかもしれない。


ゆらは息を吸った。


「朝倉」


声に出した瞬間、心臓が派手に鳴った。


律がこちらを見る。


「なに?」


街灯の光が、律の目に小さく映っていた。その目は、星よりまぶしいと思った。そんな表現、ベタだ。ベタすぎる。カナに言ったら「恋愛脳、フル稼働じゃん」と爆笑される。でも本当にそう見えたのだから仕方ない。


言え。


言うんだ。


好き。


たった二文字。


日本語としては短い。テストならサービス問題。なのに、今のゆらには巨大な岩みたいに重い。口の中で転がしても、喉を通らない。


「えっと」


律が少し首を傾げる。


ゆらの指が、レモンティーのボトルをぎゅっと握った。ペットボトルが小さくへこむ。冷たさが手のひらに染みる。言葉は喉まで来ている。あと一歩。あと一歩だけ。


そのときだった。


か細い声が聞こえた。


「……にゃ」


ゆらは瞬きをした。


「え?」


律も足を止める。


「今、聞こえた?」


「聞こえた。猫?」


もう一度、声がした。


今度はさっきより弱く、夜の底から糸みたいに伸びる声だった。


「にゃあ……」


ふたりは顔を見合わせ、声のするほうへ歩いた。川沿いのベンチの下。街灯の光が届ききらない暗がりに、濡れた段ボールが置かれている。近づくと、雨でも降ったあとのような湿った紙の匂いがした。


ゆらはしゃがみ込んだ。

段ボールの中に、黒い子猫がいた。


小さかった。夜そのものを丸めたみたいな黒い毛。目だけがやけに大きく、街灯を映して濡れている。体は震えていて、鳴き声はもうほとんど空気みたいだった。


「え、どうしよう」


ゆらの声が上ずる。


律はすぐに膝をついた。迷いがなかった。スクールバッグを開け、白いハンカチを取り出す。端に小さな星の刺繍があるのが見えた。


「まだ小さい。寒いんだと思う」


「触って大丈夫?」


「たぶん、そっとなら」


律はハンカチで子猫を包むように持ち上げた。子猫は一瞬だけか細く鳴いて、すぐに律の手の中で丸くなった。その小ささに、ゆらの胸が締めつけられる。さっきまで自分の恋で心臓が大騒ぎしていたのが、急に恥ずかしくなるくらい、その命は頼りなかった。


「駅前に動物病院あるよね」


ゆらが言う。


「夜間受付、たしかあったはず」


「行こう」


律は即答した。


その言い方が、ゆらの胸に刺さった。


行こう。


好きだとか、どう思ってるとか、そういう言葉より先に、律は必要なときに動ける人だった。静かな人なのに、迷わない瞬間がある。その姿が、ゆらにはひどくまぶしかった。


「私、道わかる。こっち」


ゆらは立ち上がった。


ふたりは走り出した。


川沿いの道を、子猫を包んだ律と、その少し前を走るゆら。夜風が頬に当たる。ローファーがアスファルトを叩く音。バッグの中で文庫本とエプロンがぶつかる感触。息が白くなるほど寒くはないのに、喉の奥が冷たく痛い。


「星野、急がなくて大丈夫。転ばないで」


律が後ろから言う。


「大丈夫! 私、今日もう一回地球の重力確認してるから!」


「それ大丈夫じゃないやつ!」


こんなときなのに、ゆらは少し笑ってしまった。律も息を切らしながら笑った。笑えることが、逆に怖かった。命はこんなにも小さく震えていて、でも世界はまだ冗談を許してくれる。


商店街の灯りが近づく。


コンビニの白い光が横を流れる。


さっきまで、そこは恋の宇宙だった。冷蔵ケースの前で指が触れそうになった場所。今はただ、動物病院までの目印になっている。世界は場面転換が早すぎる。こっちは感情の編集が追いついていない。


律の腕の中で、子猫が小さく鳴いた。


「もうすぐだから」


律が子猫に向かって言う。


その声が、とても優しかった。


ゆらは振り返りそうになって、やめた。見たら、また好きが増える。これ以上増えたら、胸の中で好きが膨らみ過ぎて、いつか破裂する。


それでも、感情は止められない。


動物病院の看板が見えた。


青白い灯りで、まだネオンの文字が光っている。ゆらはほっとして、ドアの前で足を止めた。息が切れて、胸が上下する。律もすぐ後ろに着いた。額にうっすら汗がにじんでいる。


ふたりは顔を見合わせた。


言葉はなかった。


でも、さっきまでとは違う沈黙だった。


コンビニの冷蔵ケースの前の沈黙は、触れられない距離の沈黙だった。今の沈黙は、同じ方向へ走ってきたあとの沈黙だった。息が乱れていて、手は冷たくて、でも確かに何かを一緒に守ろうとしたあとの沈黙。


律が小さく言った。


「間に合うといいね」


ゆらは頷いた。


「うん。絶対」


自動ドアが開く。


消毒液の匂いと、蛍光灯の白い光がふたりを迎えた。


ゆらはその瞬間、さっき夜空に言えなかった言葉を、胸の奥でそっと形にした。


好き。


けれど今は、まだ言わない。


今はこの小さな命が先だ。


でも、たぶんもう誤魔化せない。


冷蔵ケースの白い光より、都会の星より、律の手の中で震える小さな命に向けられた優しさが、いちばんまぶしかった。


ゆらは病院の受付へ駆け寄った。


そして思った。


今日という日は、まだ終わらない。


終わってほしくない。


でも、終わらない時間なんてないことを、このときのゆらはまだ知らなかった。

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