(2)
スイッチを押す硬い音がして、パッと頭上の電灯が点く。
「雪さん、熱があるんですか?」
明るくなった部屋で私の顔を見た都が、そんなことを言う。
けれども、私に不用意に触れはしない。
私はそんな彼の常識的な態度に切なくなった。
「ううん、発情期……」
もごもごと、私がみじめさいっぱいになりながら告げれば、都は大げさなまでに驚いてみせる。
「ええっ。発情期なのに、俺の家に来たんですか? ダメですよ。危ないですよ」
それは、わかっている……つもりだった。わかっていて、それでも都に求められたくて都の部屋に来たのだ。
けれども都はそんな私の本心を知ってか知らずか、あわてた様子で薬は飲んだのかとか聞いてくる。
みじめだった。気合いを入れてお気に入りの下着を身に着けてきたことだとか、気にして控えめなサマーニットのワンピースを選んだことだとか。そのすべてが馬鹿馬鹿しく思えて、嫌になった。
都は悪くない。それは、わかっている。わかっているつもりだ。
悪いのは私だ。勝手に発情期になって、勝手に巣作りして、勝手に期待して。それが裏切られたから、身勝手にみじめな気持ちを抱えている。
けれども感情は波打つように制御しがたく、まなじりから涙がこぼれそうになる。私はそれを隠したくて、誤魔化すように都のベッドの上にある掛け布団を引き寄せて、頭からかぶった。
「雪さん? そんなに具合悪いんですか? 薬は? 持って来ましょうか?」
私は発情期に入って、誘引性のフェロモンを垂れ流しているだろうに、都はまったく平気そうだ。
都はベータ。アルファではないから、私のフェロモンがわからないのだ。
それを突きつけられて、私はまた悲しくなった。
「いらない。いい」
拒絶の言葉は、みっともなく上擦って、震えていた。
「……どうしました? もしかして、ここに来るまでになにか怖いことでもありましたか?」
今のわたしは子供っぽい癇癪を起こしているようなものだったが、それでも都は面倒がる素振りを見せず、柔らかい声をかけてくれる。
そんな都の声を聞くと、単純なもので、彼が好きだという気持ちが溢れてくる。
「だれとも会ってない。……ただ、初めての発情期で怖いから、今日は泊まってもいい?」
私が布団を引っかぶったまま甘えた声を出せば、都から小さなため息が聞こえたような気がした。それだけで少し心臓が痛くなったような気持ちになる。
「わかりました。ただ、寝るときは部屋の内鍵を掛けてくださいね」
「そんなの――」
「ダメです。俺だって男なんですから」
知ってる、と言いたかった。
でも私にひどいことなんて絶対にしないくせに、と言いたかった。
了承してもらえないとわかっていながら、「いっしょに寝ようよ」と誘えば、やはり丁重に断られた。
都が相手なら、どんなひどいことをされてもいい。けれど、そんなことを言えば都が悲しむのはわかっていた。
都は寝室のクローゼットから来客用の布団を持ち出し、リビングへと抱えて行く。今さらながら、家主である都を寝室から追いやってしまう事態に後ろめたさを感じたが、もうどうしようもできない。ベッドを共にする提案は、先ほど断られたばかりだ。
初めての発情期を迎えたが、なにも変わりはしない。急に私が大人相応になることもないし、都が振り向くこともない。これも、冷静に考えればわかりきっていたことなのだろう。ただ、私が冷静じゃなかったから、見通せなかっただけで。
「夜ご飯食べましたか?」
「いらない。食欲ない」
「……わかりました。じゃあこれ、水置いておきますね」
私が寝転ぶベッドのサイドに設置された小さなチェストの上に、都がミネラルウォーターのペットボトルを置く。
「鍵、ちゃんとかけてくださいね。……おやすみなさい」
「……うん。おやすみ」
寝室の扉が閉まるのを確認し、私はベッドからのそのそと起き上がって、言われたとおりに内鍵を閉めた。
そしてまたのろのろとベッドに戻る。ベッドの上に並べた都の衣服は、すべて彼が回収してしまい、パジャマなどは洗面所の洗濯カゴに逆戻りしたことだろう。
巣を褒められなかったこと、巣をあっさりと破壊されたことが、さざ波のように打ち寄せてきて、悲しくなった。
私は都を求めているが、都にとって私はいいとこ妹分なのだろう。つまり、そういう対象に入ってすらいない。
初めての発情期で、私は浮かれていたのだろう。体がようやく大人になったと思って、これで都に求められると勘違いしたのだ。
私が求めれば、都も求める。それが私にとっては理想的な関係だったが、現実は厳しかった。都には私の巣作りは見えておらず、単なる奇行にしか映らなかったことだろう。
都はアルファではない。都はベータだ。
でも、そんなことはない、違う、と私の中のなにかが言っている。
こんなにも私は都を求めているのだから、都はアルファで「運命のつがい」ってやつなのだ――と。
「はあ……」
すぐに空気に溶けるような、ため息を吐く。
……実のところ、私は一度は玉砕している身なのだ。
私が都にひと目惚れして、『ぜったい、アルファになる』などと宣言した当時、都には恋人がいた。
それもオメガの。
私も遠目に見たことがある。小柄で可憐で柔らかそうな、オメガらしいオメガ……。そんな印象を、幼心に抱いた覚えがある。
私は逆だった。クラスで一番背が高くて、当時は髪をショートカットにしていた。私立の女子校に通っていたから、背が高く年齢の割には体格の良い私は、クラスメイトたちから頼りにされるお姉さんポジションだったのだ。
そんなポジションに当時は不満などなかった。むしろ鼻高々だった。だが、それはオメガと診断され、病院の情報漏洩事件により誘拐未遂が引き起こされると、一変した。
己がか弱く、下劣な目を向けられることもある存在だと、早くも小学生にして私は知ってしまった。
しかし同時に、それは私が都にひと目惚れするきっかけにもなった。
柔道部員らしいがっしりとした手指、太い首に、たくましい肩回り……。軽やかに誘拐犯を制圧し、颯爽と私を救い出したその姿。もっとも近しい男性であった兄とはまた違った「男性」の都に、私はひと目惚れしたのだ。
しかしそんな都には当時、オメガ女性の恋人がいた。
私の初恋は一瞬にして砕け散った――はずだったのだが、ほどなくして都は恋人と破局した。
……さすがに私も当時は小学生であったから、詳細は知らないのだが、都の恋人は、なんというか、寝取られたらしい。相手はアルファの男性だったらしい。都のオメガ性の元恋人は、ベータ男性の都ではなく、アルファ男性の間男を選んだのだ。
正直に言おう。私はチャンスだと思った。ひどい話だが。
しかし当時は繰り返しになるが、小学生。大学生の今だって上手くアプローチできていない恋愛下手なのだから、小学生のときのことなど、お察しである。
私は都を励ました……つもりだったが、都の態度はその前後でひとつも変わりはしなかった。
稚拙だっただろう私の励ましで憤ることもなく、都はひどく落ち込んでいただろうに、優しく「ありがとう」と言ってくれたことだけは今でも覚えている。
私はもう一度ため息をついた。
実る気配のない初恋。これは、もういい加減にあきらめるべきなのだろうか?
わからないが、今の私がすっかり自信を喪失していることだけは、たしかだった。




