(1)
――発情期だ!
早朝、起きたら体がだるく、微熱があった。常備していた風邪薬を飲み、大学を休んでひとり暮らしの部屋のベッドでごろごろしているうちに、気づいた。
――これは、発情期だ!
私はオメガ女性。平均的なオメガ性を持つ者は、思春期ごろに初めての発情期を迎えると習った。しかし今年大学一年生の私は、発情期というものをまだ経験していなかった。
私はベッドから飛び起きるような心持ちで、上半身を起こす。なんとなく、触覚などの感覚が過敏になっている感じがしたし、むらむらと性的興奮が湧き上がって来ている……ような気がした。
でもきっと、これは風邪なんかではない。発情期だ。そういう確信が私の中にあった。
そうして私はいそいそと着替えを始める。細長い姿見の前に立ち、レース、フリル、リボンがあしらわれた、いわゆる勝負下着を身に着けた。色は淡いブルーで、ひと目見て気に入って購入に至った一品である。
服は、白いサマーニットワンピースにしよう。上品で甘すぎない感じがいい。
私は期待に胸を膨らまして、部屋を飛び出した。向かう先は、同じマンションの同じ階に住まう、都の部屋だ。数メートル先にある、私の部屋とまったく同じ見た目の扉に鍵を差し入れて、都の自宅に入り込んだ。
鍵は、合鍵だ。都にねだって――というか、半ばゆすって――手に入れた合鍵だ。私の部屋の合鍵も押しつけようとしたが、結局都は受け取らなかった。
『年頃のお嬢さんの家の鍵なんて怖くて持てませんよ』
都は、私より一〇歳上の会社員だ。もともと、私の兄の同級生だった関係で出会い、以来私はずっと都に恋をしている。
元来強面で実年齢より上に見られがちな都がそんなセリフを言うものだから、私は『おじさんみたい』と言ってしまったものだ。
都は至極真面目な顔をして、『あなたからすれば俺は立派なおじさんです』と言い切った。言外に、「だからあきらめろ」と言っているように聞こえて、私は少しへそを曲げた。
都が私との年齢差を過剰に気にするようになったのはいつからだろうか。一〇歳差なんて、私からすればびっくりするほど離れているってほどでもないと思っているのだけれど、都にとってはそうではないらしい。
それから、第二性の違いも。私はオメガだが、都はベータだった。ただ、私は都がベータであることに納得していない。
都は、アルファだと思うのだ。
都は、アルファで、私の「運命」だと思うのだ。
小学生のときに、私は突然オメガと診断された。そこまでは世にままあることだ。しかし病院で情報漏洩事件という予想外の出来事が起こった。その結果、私はよからぬことを企む輩に、誘拐されかけた。
それを助けてくれたのが、他でもない都だ。当時、都は高校生で、つい先日私の兄に見せてもらった――恐らく兄は見せびらかした――写真で、私の顔をよく覚えていたのだと言う。
私は、危機に颯爽と現れて助けてくれた、恩人である都にひと目惚れした。
そして思ったのだ。
都は「運命のつがい」だ、と。
ビビビッと私の中のなにかが、スパークを起こした。
私はそれを「運命」だと解釈した。
しかし都は「運命」を否定した。「自分はベータだから違う」「つがいにはなれない」と。
私は納得がいかなかった。
――つがいに、なれない? そんなことない!
『お前はぜったい、アルファになる』
気がつけば私はそんな言葉を放っていた。
恩人にそんな物言いをしたものだから、しつけに厳しい両親にはかなり叱られたが。
そういうわけで、以来、私は都に恋をしている。都は、そんな私をあきらめさせようとベータと診断された書類まで見せてくれたが、そこで私は都のアルファの数値がベータの数値に迫っていることを知ったため、あきらめられるはずがなかった。
都は、私の「運命」。そう信じて都にアプローチを仕掛けて早一〇年以上。私はまだ都をあきらめていないし、都はまだ折れていなかった。
そこへ、発情期が来たのだ。頭に「待望の」とつけてもいいくらいだ。
根拠は一切なかったが、発情期が来れば私はなにかが変わると思っていた。なかなか訪れなかった発情期の到来というものは、それだけ私の中でビッグイベントと化していた。
都の部屋に入ると、たしかに私の部屋とは空気が違うように感じられた。それが発情期のせいで感覚が過敏になっているからかどうかまでは、私には判断できなかったが。
とにもかくにも、なんとなくのにおいが違う。それは決して不快な差異ではなく、むしろ今の私にとっては好ましく感じられた。
ややふらつく足取りで、都の部屋の廊下を進む。途中で風呂場へと続く洗面所に入る。そこには洗濯機も置いてあり、手前には洗濯カゴがあった。カゴの中にはそっけない灰色のパジャマの上下が入っていた。
気がつけば私はその洗濯前だろうパジャマの上下を抱きかかえるようにして持ち、都の寝室へと向かった。
都が身に着けていたものすべてが、無性に恋しく、欲しかった。
寝室に備えつけのクローゼットの中身は、見覚えがあるものもあれば、ないものもあった。私はそれをひとつずつ引っ張り出して、抱きしめるようにしてかかえ込み、都のシングルベッドの上に置いた。
ひとつひとつ、一枚一枚、たしかめるようにして、ベッドへ円形に衣服を配置して行く。
それは巣だった。
私を求めて欲しいという意思の表れだった。
半ば無意識に巣を作りながら、私の中で都はアルファで、「運命のつがい」なのだという確信が強くなる。
だって、そうでなければこんな風に理性がとろけて、本能が激しく叫び回るような状態には陥らないと思うのだ。
私は巣の中心で、胸を高鳴らせながら都の帰りを待った。
部屋の中に夕日が差し込み、日が落ちて暗くなって、それからようやく都は帰宅した。
「――うわっ、雪さん?!」
寝室に顔を出した都が、驚いて上ずった声をあげる。
リビングルームの電灯を背景に、逆光の都の顔には影が落ちていて、表情はよく見えなかった。
それでも、私の胸の高鳴りは最高潮に達する。
初めての発情期。
初めての巣作り。
湯だった私の脳みそは、ただただ都に喜んで欲しがっていた。求めて欲しがっていた。褒めて欲しがっていた。
けれど――
「どうしたんですか? 俺の服なんて集めて……」
……けれど、そのどれもを得られなくて、私は泣きそうになった。
説明すればいい。これはあなたのために作った巣で、あなたに求められたいがゆえに作ったものなのだと。そしてこれを作った私を褒めて欲しかったのだと。
けれども私の頭の中は真っ白になってしまって、言葉に詰まる。このときの私は、こんな展開になるとは――愚かなことに――少しも想定していなかったからだ。




