第五章 エドワード司教の困惑 1.クリスの教育カリキュラム
クリスの体調も――不可解な行動で上層部各位を困惑させる程度には――戻ったようだし、そろそろ基礎教育を始めようかという話になった。小人閑居して不善を為す。余計な事をさせないためには、真っ当な事で暇を潰してやるのが一番です。
教会上層部の思惑はともかく、クリスとしても基礎的な知識や情報が足りていない自覚はあるので、温和しく授業を受ける事にする。
そんなクリスの前に現れたのは、グレーの修道服を身に纏い、真っ白な髪をアップに結って微笑みを――修道女生活で身に着いた愛想笑いではなく、本心から興味を持っていそうな笑みを――浮かべた老女であった。
「小母さんがあたしの先生? ……ですか?」
前世仕込み村育ちの伝法な口調――クリスのデフォルト――でつい話しかけたものの……ここは村ではなくて教会であり、自分はそこに雇われた身、況して師となる年長の人物には相応の敬意を払うべきだという事を思い出したらしく、クリスは後付けで丁寧語の語尾を付ける。
そんなクリスの態度が可笑しかったのか微笑ましかったのか、老女はその笑みを深めつつ答を返す。
「えぇそうよ。シスター・クリスタルね? クリスと呼んでいいかしら? 私の事はダニエラと呼んで頂戴」
「……ダニエラ先生? クリスです」
「クリスタル」などという聞き慣れない名前で呼びかけられて戸惑ったクリスであったが、そう言えば対外的には「クリスタル」という名前になったんだっけ――と思い出す。自分でも男か女か判らない名前だとは思っていたので、クリスとしても歴とした女性名に改名するには吝かでない。その〝女性名〟が「クリスタル」だった事には少し面喰らったが、これ以上同名異人を作らないための配慮であると聞かされて納得していた。
とは言え、まだ慣れない名前には違いないので、馴染みのある「クリス」呼びの方が助かるというのも、これまた掛け値無しの本音である。
ともあれ、クリスはこうしてシスター・ダニエラ――教導局のベテラン教師――から、基礎教養の講義を受ける事になった。
今後の授業計画を立てるためにも、まずはクリスの知識と教育程度の確認という事に相成ったのだが……
「一応読み書きと計算はできるのね?」
「うん……はい、簡単なものだけなら」
「その歳でなら充分以上よ。今直ぐにでも勤めに出られる――と、言いたいところだけど……書字はあんまり上手くないのね?」
「ペンとか使った事、無かったから……」
クリスの前世である緋牡丹お駒は、女博徒の身にありながら達筆で鳴らしていた。〝水茎の跡も麗しい〟文字を書き綴る事など朝飯前であったのだが……それは飽くまで毛筆と墨を使っての、それも縦書き草書の話である。こっちのような――お駒目線では――卦体な文字を横書きに綴るとなると、能書の腕も活かしようが無い。しかも鵞ペンにインクなど、前世現世を通じて使った事が無い。村では板切れに木炭の破片で間に合わせていたのだ。
「基本的な読み書きは大丈夫みたいだから……綴り方の授業は、字のお稽古と修辞を中心に進めましょうか」
「習字?」
「あら……いいえ、『習字』ではなくて『修辞』よ。何と言えばいいのかしらね……つまり、言葉を綺麗に上手に使って言い表す方法よ。解るかしら?」
「ん~……あぁ、美辞麗句とか巧言令色とかってやつ? 詐欺師の必須技能みたいな?」
「……詩作とかにも使うのよ?」
「要するに、今のあたしと先生の会話みたいなもんでしょ?」
「……そこまで解っていたら、それが必要だという事も解るわよね?」
「何となく」
修辞に関連して、有名どころの古典などにも少し触れておく事をシスター・ダニエラが提案し、クリスもそれをすんなり受け容れた。本人に言わせると、
「どっかで聞いたような言い回しって、使ってみたい時ってあるよね?」
「えぇ、そうね」
――この時両者が抱いていたイメージは、シスター・ダニエラの場合は「名言」とか「名台詞」とかいうものであったのに対して、クリスの場合はどちらかと言うと「啖呵」とか「決め台詞」とかいうものに近く、両者のイメージには微妙な齟齬があったのだが……幸か不幸か、両名がそれに気付く事は無かった。
「計算の方は全く問題無しね。正確だし速いわ。……どこでお稽古したのかしら?」
「そりゃあ、辺地の村だって、取れ高や割り前を計算する必要があるのは同じだからね……です」
「そう……そうね」
確かに、加減乗除の四則演算くらいならそうかもしれないが……図形の面積を求める幾何計算まで身に着ける必要があるのかという気もする。クリスにそう問い質すと、畑の形から取れ高を概算するのに使うのだと返されたが。
無論、クリスがこういう計算を身に着けているのは、前世の記憶あっての事である。そこまで高等な教育を受けたわけではなかったが、博徒は馬鹿では務まらない。点数計算を間違えて、折角の稼ぎを騙し取られるようでは、賭博師稼業はやっていけないのである。
「生き物に関する知識は深いみたいだけど、地理と歴史は絶望的ね」
「……村にいると、そっち方面のネタが話題に上る事ってほとんど無かったから……」
――これらは確りと学んでおいた方がいいだろう。
「あとは……礼法かしらね。礼儀の基本は解っているようだけど、作法の中には歴史的な事柄や習慣に由来するものとかもあるから、そういうのは憶えておいた方が良いわ」
「宜しくお願いします……」




