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『うちに来て』
土曜日の朝。
いつもならまだ寝ている時間に、そんなメッセージが届いた。
まだぼやけていた頭が正直に回り始める。カーテンを開けると隣の成瀬さんの二階建ての家が見えた。彼女の部屋はカーテンが閉まっていて、中は窺えなかった。
「おはよう」
二階から降りて挨拶をすると、誰も返してくれなかった。
うちの両親は仲が悪い。きっと昨日喧嘩でもしたんだろう。よくあることだ。
それでも冷めたトーストはテーブルに置いてあって、急いで口に詰め込んで、歯磨きとかの身支度を済ませた。
鏡を見ると肩の上でざっくり切ったどうにもぼんやりした髪型のわたしが映っている。成瀬さんから着けてもらったヘアゴムは机の中に仕舞ってある。
だから、今日もそのままの髪でいくことにした。
「いってきます」
「あんた。こんな朝早くにどこいくの」
母が、玄関で靴を履いている途中のわたしの背中に声をかけた。
「成瀬さんの家」
「まだ仲良かったんだねぇ」
母が驚いたような、けれど感心したような声色が背中越しに聞こえた。
「うん」
「迷惑かけるんじゃないよ」
「わかってる」
迷惑は、きっとずっとかけてきた。
両親の怒鳴り合う声が聞きたくなくて、そういう時は成瀬さんがわたしをずっと部屋に居させてくれた。成瀬さんはずっと、わたしの味方だった。
成瀬さんの家に最後に行ったのは、たしか中学生のはじめの頃。
そこから、成瀬さんの部屋は随分様子が変わっていた。
お菓子の香りがしていた部屋は、化粧品や香水の匂いに変わった。壁に貼ってあったVシンガーのポスターがなくなって、そこには姿見が置かれている。
「こはる。何じろじろ見てるの」
成瀬さんは袖のふんわりしたブラウスと淡いベージュのロングスカートを履いていて、わたしの適当に選んだ、中学生のころから着ているTシャツとデニム姿と全然違っていた。
「久しぶりだから」
「ふーん。全然来てくれなかったもんね」
成瀬さんはベッドに座って、その前に立つわたしの腿あたりを足先で軽く蹴った。
スカートの裾から伸びた脚が無防備に動いて、小学生がするじゃれあいみたいだ。わたしはくすぐったくてちょっとだけ身をよじった。
「隣座って」
わたしが黙って蹴られるままになっていると、やがて彼女は、自分のすぐ隣を指さした。
「うん」
「こはる、私があげたヘアゴムは?」
「部屋に仕舞ってる」
「なんで着けないの?」
「なくすと……いやだから」
「へー。ふーん」
成瀬さんが隣から、またわたしの脛あたりを軽く蹴った。
「成瀬さん」
「あかりって言って。二人っきりのときは」
「……あかり。部屋に匿ってくれて、嬉しかった。両親がケンカしたとき」
「何急に。こわ」
「うん。ごめんね」
本当は、小学生でまだお互い小さかった頃、結婚しようねって言い合ったこと覚えてる? って言いたかった。
もちろん冗談だってわかってる。
たしか、何かの家族ドラマが流行ってた頃、彼女がパパになりたいとか言い出した。
そんなの話の延長線上だったと思う。一週間もたてば成瀬さんは話題にすらしなくなったけど。
わたしはずっとそれを思い出に持っている。ずっと一緒に居られる、とそう思っていたからだ。
流石に気持ち悪すぎて言えなかった。
「こはるは、まだあの頃と推し一緒なの?」
彼女がここに貼ってあったポスターのVシンガーの名前を言って、わたしは頷いた。
「そうだよ。あかりは、もう違うの?」
「うん。嫌いになったわけじゃないけど、なんかフェードアウトしちゃった。シンプルに飽きちゃったのかも」
「そっか」
変わっちゃうのは仕方ない。さっきから目に映る、姿見に貼られた、佐久間湊と成瀬さんの二人のチェキ、とか。
「こはるは変わらないね」
彼女がわたしの髪を撫でる。
陰キャ女子のカタログがあれば、わたしの髪型はきっとそこに載っている。
そんなわたしの髪でも、彼女が触れたらちょっとはきれいになった気がした。
「ちゃんとすれば、かわいいのに」
そう言われながら、頭を撫でられる。
撫でられながら、なんでもない話をした。最近の話。高校の話。彼氏の話。誕生日にサプライズされた話。成瀬さんの推しは実写のダンスをする人達に変わったこと。そんなことを昔みたいに話した。
「ねえ。こはる、なんで私に告白したの?」
まるでその雑談の一部みたいに、何でもないふうに成瀬さんは言った。
「だって」
「だって?」
「ずっと、話してなかったから。このまま……他人になっちゃいそうで」
「それだけ? じゃあ、そっちから話しかければよかったんじゃん」
成瀬さんがわたしのすねを強く蹴った。痛くて、でも声を出しちゃいけない気がした。
「ごめん」
「どうして言わなかったの? 言えなかったの? 言えないんだよね、いつも。いっつもそう」
わたしはただ、頷いた。
「あかりは……だって。どんどん変わっていくから。どんどんかわいくなって、みんなから好かれて、遠くなっていくから」
「うるさいな」
成瀬さんがわたしの頬をつねった。そのまま、ぐい、と顔を成瀬さんの方に向かせる。
目と目があって、わたしは目線を落とした。
「でも、いいよ。こはるは、そのままで」
「いいの?」
「うん。いい。こはるは、そのままがいい。ずっとそのままでいてね」
成瀬さんが、唇を寄せた。しばらく、そのままでいた。
家に帰った夜も、成瀬さんの言葉を何度も頭の中で繰り返した。
このままで良い。けれど、このままの意味がよく分からなかった。
部屋の机の上のタブレットには、青い髪の推しが映っている。
Vシンガーグループのあかりが好きだった、中性的な女性ヴォーカルだ。
わたしは赤い髪の男性ヴォーカルの方が好きだったけれど、いつのまにか配信はあかりが好きだった方ばかりを見ている。
成瀬さんはもう見ていないと言っていた。わたしだけが昔に取り残されているみたいだ。
「また、話したかったな」
タブレットをつつきながら、つい独り言が漏れた。
昔みたいに、こういう話がしたい。
『あかりって呼んで。二人っきりの時は』
彼女の顔と共に、頭の中に言葉が浮かんだ。
「あかり」
口に出すと、自分の声じゃないみたいだった。
成瀬さんと呼ぶ方が、いつのまにかしっくりくるようになってしまった。
どうして、わたしは成瀬さんと呼んでしまったんだろう。
中学の時、別の友人ができた彼女に「一緒に話そうよ」と飛び込める勇気があれば何か変わっていたんだろうか。
変わらなくていい。成瀬さんからはそう言われた。
「髪」
ふっと、立ち上がる。鏡をみるとぼさぼさの前髪が、我ながらうっとうしいぐらい長い。
手櫛を通してみても、成瀬さんみたいに艶やかになるはずもないのだけれど、何度も何度も自分の髪を撫でた。
結局、さえないわたしのままだ。
「仕方ないなあ」
自虐的に口の端を歪めた。
鏡に映った表情が、どこか成瀬さんに似ていた。もしかしたら、ただの願望だったのかもしれない。
また、話したいな。もう一度、呟いた。




