第3話 普段着の彼が、スーツを着ていた日
毎晩スナックに通い、ウーロン茶だけを頼んでいた颯真。
少しずつ彼に惹かれ始めていた明日香でしたが、町で開かれた説明会で、思いがけない形で彼の正体を知ることになります。
第3話では、甘く近づいていた二人の関係が、一度大きく揺れ動きます。
それからも、颯真さんは毎晩来た。
私はまだ、彼の正体を知らなかった。
彼はいつも普段着で、いつもの席に座り、いつものウーロン茶を頼む。
町では、データセンターの噂がどんどん大きくなっていた。
「説明会があるんだって」
美沙が、開店前のカウンターでチラシを見ながら言った。
「町役場?」
「うん。商工会館のホール。東京の会社の社長が来るらしいよ」
「へえ」
「行ってみる?」
「私が?」
「どうせ店でもその話ばっかりになるんだし、見ておいて損はないでしょ」
私は少し迷った。
この町の人間ではない。
でも、もう無関係とも思えなかった。
田島さんの不安。
佐伯さんのため息。
真由ちゃんの焦り。
健太くんの諦め。
それらを毎晩聞いているうちに、この町の未来が、自分に関係のない話とは思えなくなっていた。
「行こうかな」
「じゃあ一緒に行こ」
その夜、颯真さんが来た時、私は説明会の話をした。
「噂の社長さん、町の人の声を聞いてくれるといいですね」
颯真さんは少しだけ視線を落とした。
「聞く気がなければ、来ないと思います」
「でも、聞くふりだけならできます」
「厳しいですね」
「この町の人たち、優しいから」
私はカウンターの奥で、グラスを拭きながら言った。
「優しい人たちが損をするのは嫌なんです」
颯真さんは、何も言わなかった。
ただ、私を見ていた。
その視線があまりに静かで、私は少し落ち着かなくなった。
「……変なこと言いました?」
「いえ」
「じゃあ、どうしてそんなに見るんですか」
「また、あなたのことを好きになる理由が増えたので」
手が止まった。
「……今、何て」
「ウーロン茶、おかわりを」
「ごまかしましたね」
「はい」
颯真さんは真顔だった。
私はおかわりを注ぎながら、心臓が少しうるさくなっていることに気づいた。
この人は、時々こういうことを言う。
まるで当たり前の事実のように。
私はまだ、それをどう受け止めればいいのか分からなかった。
翌日、説明会の会場には、思っていたより多くの人が集まっていた。
商工会館のホール。
古いパイプ椅子が並び、前方には長机とマイクが置かれている。
田島さんもいた。
佐伯さんもいた。
健太くんは後ろの方で腕を組んでいる。
真由ちゃんは市役所側のスタッフとして、忙しそうに資料を配っていた。
「みんな来てるね」
美沙が小声で言う。
「やっぱり気になるんだね」
「そりゃそうよ。この町に久しぶりに来た大きな話だもん」
私は椅子に座った。
胸がざわざわしていた。
壇上には市長と担当者が並んでいる。
やがて司会者がマイクを持った。
「本日は、株式会社レイグリッド代表取締役、如月颯真様にお越しいただいております」
その名前を聞いた瞬間、私は顔を上げた。
如月颯真。
壇上に現れたのは、スーツ姿の颯真さんだった。
いつもの白いシャツではない。
濃紺のスーツ。
きちんと締められたネクタイ。
隙のない立ち姿。
スナックのカウンターでウーロン茶を飲んでいた人とは、まるで違う。
でも、同じ人だった。
私は息をするのを忘れた。
「……嘘」
隣で美沙が小さくつぶやく。
私は何も答えられなかった。
颯真さんは壇上で深く一礼し、マイクの前に立った。
説明は分かりやすかった。
データセンターとは何か。
なぜこの町が候補地なのか。
必要な土地、電力、通信環境。
災害対策。
行政との協議。
いつもの静かな声なのに、そこには迷いがなかった。
町の人たちは、最初こそざわついていたが、次第に聞き入っていった。
質問の時間になり、田島さんが手を上げた。
「雇用って言っても、どうせ専門職ばかりなんじゃないですか。俺らみたいな地元の人間に仕事はあるんですか」
颯真さんは、すぐにきれいな答えを返さなかった。
少し間を置いて、正直に言った。
「現行案では、専門人材は外部採用が中心です」
会場がざわついた。
「やっぱりな」
誰かが言う。
佐伯さんも手を上げた。
「東京の会社が来ても、町の店には一円も落ちないんじゃないですか」
健太くんが続ける。
「若いやつに研修とか、本当にあるんですか。それとも、完成したら東京から人を連れてくるだけですか」
颯真さんは、一人一人の顔を見ていた。
逃げるような目ではなかった。
「今日いただいたご意見は、持ち帰って見直します」
よくある言葉に聞こえた。
でも彼の声は、形だけではなかった。
私はその声を聞きながら、ずっと混乱していた。
どうして黙っていたのだろう。
毎晩、普通の客みたいな顔で来て。
私の話を聞いて。
町の話を聞いて。
彼は全部、知っていたのだ。
自分がその噂の中心にいることも。
町の人たちが期待し、不安がっていることも。
私は、また最後に知らされたのだと思った。
元夫の時もそうだった。
あの人の中では、もう全部決まっていた。
出ていくこと。
離婚すること。
私なら大丈夫だと片づけること。
私はいつも、最後に知らされる側だった。
相手の中ではもう決まっていて、私はただ、その結果を受け取るだけだった。
颯真さんは、元夫とは違う。
そう思いたかった。
でも、知らなかった。
私だけが、知らなかった。
その事実が、思ったより深く刺さった。
説明会が終わると、会場はざわざわと人で溢れた。
私は美沙と一緒に出ようとした。
その時、背後から声がした。
「明日香さん」
私は足を止めた。
振り返ると、颯真さんが立っていた。
スーツ姿のまま。
さっきまで壇上にいた人。
私の知っている普段着の客ではない。
「……社長さん、だったんですね」
自分の声が、思ったより冷たく聞こえた。
颯真さんは、言い訳をしなかった。
「すみません。肩書きで見られたくなかった。でも、あなたには最初に言うべきでした」
「私は、ただのお客様だと思って話していました」
「はい」
「町のことも、普通に話していました」
「はい」
「どうして、私にだけ言えなかったんですか」
颯真さんは一瞬、迷った。
そして、まっすぐ言った。
「嫌われたくなかったからです」
胸が揺れた。
そんなことを言われるとは思わなかった。
怒りたいのか、悲しいのか、自分でも分からない。
ただ、何かが崩れた気がした。
私が勝手に作っていた、普段着の颯真さん。
毎晩ウーロン茶を頼む、不思議なお客様。
私を静かに守ってくれる人。
その人が、急に遠くなった。
「少し、時間をください」
私はそう言うのが精一杯だった。
颯真さんは、私に責められることより、私が一歩引いたことの方が苦しそうだった。
それでも、追ってはこなかった。
「分かりました」
颯真さんは、静かに頷いた。
その夜、スナックに颯真さんは来なかった。
当たり前だと思った。
私が時間をくださいと言ったのだから。
それでも、入口のベルが鳴るたびに顔を上げてしまう。
違う。
また違う。
やっぱり来ない。
カウンターの端の席が、やけに空いて見えた。
美沙が隣で小さく言った。
「もう、ただのお客さんじゃなかったんだね」
私はグラスを拭く手を止めた。
「……分からない」
「何が?」
「怒ってるのか、寂しいのか」
美沙は何も言わなかった。
私は空いた席を見た。
そこにはもう、ウーロン茶のグラスも、静かな横顔もなかった。
読んでくださりありがとうございます。
毎晩スナックに来ていた颯真は、ただの常連客ではありませんでした。
町の未来を左右するIT実業家。
その事実を知らされていなかった明日香は、過去の傷も重なり、素直に受け止めることができません。
颯真は本当に、町と明日香をどう見ているのか。
次話では、彼の仕事への向き合い方と、明日香の言葉が町を動かしていきます。




