第2話 毎晩ウーロン茶を頼む人
毎晩、スナックに現れてはウーロン茶だけを頼む不思議な男性、如月颯真。
静かで、強引ではないのに、なぜか明日香の心に入り込んでくる彼。
第2話では、少しずつ近づいていく二人の距離と、颯真が抱えている“もう一つの顔”の気配を描いています。
翌日、彼は本当に来た。
前日と同じくらいの時間。
同じ白っぽいシャツ。
同じ静かな顔。
そして、同じカウンターの端。
「いらっしゃいませ」
私が言うと、彼は軽く会釈した。
「ウーロン茶で」
「はい」
私はグラスに氷を入れながら、美沙の視線を感じていた。
ほらね、と言いたげな顔。
絶対に言わないでほしい。
私はウーロン茶を出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
彼はそれだけ言って、静かにグラスを持った。
無口な人なのかと思った。
でも、こちらが話しかければきちんと答える。
名前を聞いたのは、三日目だった。
「そういえば、お名前を聞いてもいいですか?」
私が言うと、彼は少しだけ考えたあと、答えた。
「颯真です。如月颯真」
「如月さん」
「颯真でいいです」
「いえ、お客様なので」
「では、明日香さん」
「どうして私の名前を?」
美沙が後ろで吹き出しそうになっている。
颯真さんは、カウンターに置かれた小さな名札を見た。
美沙が勝手に私につけた名札。
そこには、手書きで「明日香」と書かれている。
「ああ……」
「見ていますから」
あまりに真顔で言われて、私は返事に困った。
彼は毎晩来た。
雨の日も。
風の強い日も。
常連が多い日も、少ない日も。
注文はいつもウーロン茶。
酒を飲むわけでもない。
誰かと騒ぐわけでもない。
カラオケを歌うわけでもない。
ただ、カウンターの端に座って、私や美沙や常連たちの話を聞いている。
ある夜、私は思わず聞いた。
「毎日来て、飽きないんですか?」
颯真さんはグラスから顔を上げた。
「飽きる理由がありません」
「ウーロン茶ですよ?」
「はい」
「ウーロン茶なら、コンビニでも買えますよ」
颯真さんは、少しだけ首を傾げた。
「あなたが出してくれるものとは違います」
手に持っていたおしぼりを落としそうになった。
「……同じウーロン茶です」
「違います」
「どこがですか」
「あなたが、そこにいるので」
美沙がカウンターの奥で、とうとう小さく咳き込んだ。
私は頬が熱くなって、冷蔵庫の方へ逃げた。
「変わってますね」
「よく言われます」
そう言って、彼は少しだけ笑った。
「明日香、今の聞いた?」
美沙が小声で言う。
「何が」
「あれで口説いてないつもりらしいよ」
「やめて」
「やめない。面白いから」
入口のベルが鳴るたび、私は顔を上げるようになっていた。
それが颯真さんではないと分かると、ほんの少しだけ胸が沈む。
颯真さんだと分かると、慌てて平気な顔を作る。
待っているわけじゃない。
そう思うほど、待っている自分が見えてしまう。
私はその気持ちを、まだ認められなかった。
「今日は髪を結んでいるんですね」
ある日、颯真さんが言った。
私は自分の髪に触れた。
「暑かったので」
「似合っています」
言い方があまりに自然で、私はまた手元を乱しそうになった。
「……ありがとうございます」
「昨日より顔色もいいです」
「そんなところまで見るんですか?」
「見ていますから」
また同じ答え。
私は困って、美沙の方を見た。
美沙は口元を押さえて、完全に楽しんでいる。
常連たちも気づき始めていた。
「颯真さん、今日もウーロン茶?」
田島さんがからかう。
「はい」
「酒飲まないなら、何しに来てるんだい?」
颯真さんは迷わず答えた。
「ここに来たくて」
田島さんが目を丸くした。
美沙が小さく口笛を吹いた。
私はおしぼりを畳み直すふりをした。
やめてほしい。
でも、嫌ではなかった。
嫌ではない自分に、少し戸惑っていた。
スナックで働くうちに、私は常連たちのことを少しずつ知っていった。
田島さんは昔、町の部品工場で働いていた。
若い頃は夜勤明けにこの店で飲むのが楽しみだったらしい。
「昔はこの時間、二交代明けの連中で店がいっぱいだったんだよ」
田島さんは懐かしそうに言った。
「今じゃ、ラインが止まる日の方が多い。息子も戻ってこねえしな」
「息子さん、東京ですか?」
「ああ。帰ってこいとは言えねえよ。この町じゃ、若いのが食っていけねえ」
佐伯さんは、商店街で文具店をしている。
「学校が減ると、ノートも鉛筆も売れないんだよ」
佐伯さんは静かに笑った。
「子どもがいない町は、店も年を取る」
真由ちゃんは市役所職員で、企業誘致の担当も少し手伝っているらしい。
「町を残したいんです。でも、残したいだけじゃ予算は降りないんです」
その言葉は、妙に重かった。
健太くんは、いつも少し斜に構えている。
「どうせ、この町にいても何もないっすよ」
ある夜、彼がそう言った時、私はすぐには励まさなかった。
代わりに、グラスを拭きながら言った。
「何もないって言えるほど、私はまだこの町を知らないです」
健太くんは少し意外そうに私を見た。
「明日香さん、都会の人なのに変っすね」
「そう?」
「普通、田舎は何もないって言うじゃないですか」
「言うほど、私は都会で何か持っていたわけじゃないから」
言ってから、自分でも少し驚いた。
健太くんは黙った。
颯真さんが、カウンターの端で静かにこちらを見ていた。
その視線に気づいて、私は少しだけ目を逸らした。
この町は、確かに寂れている。
でも、ここにいる人たちは、町を完全に捨ててはいなかった。
諦めたふりをしている。
笑い話にしている。
でも、本当はまだ、何かを待っている。
そんな気がした。
ある夜、少し酔った客が、私に軽口を叩いた。
「明日香ちゃん、離婚したばかりなら、誰かに甘えたくなるだろ?」
私は笑って流そうとした。
こういう時、場を壊さない返しをする癖がある。
傷ついた顔をしない癖がある。
でも、私が口を開くより早く、颯真さんが静かに言った。
「その話、面白くありません」
店内の空気が止まった。
怒鳴ったわけではない。
声を荒げたわけでもない。
ただ、低く、まっすぐだった。
客は気まずそうに笑った。
「冗談だよ」
「冗談にする内容ではないと思います」
颯真さんはそれだけ言って、ウーロン茶を飲んだ。
私は何も言えなかった。
守られた。
そう思った。
でも、彼は恩着せがましい顔をしない。
私の方を見て「大丈夫ですか」とも言わない。
ただ、そこにいる。
それが不思議なくらい、ありがたかった。
その夜、店では大きな噂が広がった。
「東京のIT実業家が、この町にデータセンターを建てる土地を探しに来てるらしいぞ」
田島さんが言った。
「データセンター?」
私は聞き返す。
「でっかいコンピューターの施設みたいなもんだろ」
佐伯さんが説明する。
「雇用が増えるんじゃないかって話もあるけど、どうだかね」
「電気も水も食うらしいですよ」
真由ちゃんが言った。
「町役場にも話は来てます。まだ候補地の一つらしいですけど」
「若い社長らしいな」
「黒い車で来てたってよ」
「この町にそんなもんが来るのかね」
健太くんが鼻で笑う。
「来ても、働くのは都会の人っすよ。俺らは見てるだけ」
町の空気が、少しざわついていた。
期待。
不安。
疑い。
諦め。
いろんなものが混ざっている。
私はカウンターの端に座る颯真さんに、何気なく話しかけた。
「颯真さんは、そういう話、どう思います?」
「データセンターの話ですか」
「はい。もし本当に来るなら、この町をただの土地として見ない人だといいですね」
颯真さんは、グラスを持つ手を止めた。
「ただの土地?」
「ここに住んでいる人には、数字に出ないものがありますから」
自分で言って、少し照れた。
この町に来てまだ数日なのに、何を分かったようなことを言っているのだろう。
でも、続けた。
「この町は寂れているんじゃなくて、まだ諦めきれていないんだと思います」
颯真さんは、しばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「その見方は、なかったです」
「私は最近来たばかりですけどね」
「だから見えることもあるのかもしれません」
その言い方が妙に真剣で、私は少しだけ息をのんだ。
閉店後、颯真さんはいつものように会計を済ませた。
「また明日」
そう言って出ていく背中を、私は見送った。
美沙が隣で言う。
「完全に通ってるね」
「常連さんでしょ」
「明日香目当てのね」
「もう、その話はいいから」
私は片づけを続けた。
店の外で、車のドアが開く音がした。
その音は、商店街には少し不釣り合いなほど静かで重かった。
颯真は店を出て、角を曲がった。
そこに、黒い車が停まっていた。
運転席の横に立っていた秘書が、すぐに頭を下げる。
「社長、明日の市長面談ですが」
颯真は頷いた。
「分かっている」
「データセンター候補地の最終比較資料も、車内にございます」
颯真は一度、スナック美沙の灯りを振り返った。
古い看板。
小さな窓。
人の笑い声。
資料には載らないもの。
「資料に載らないものも、見直す必要がある」
秘書が少しだけ目を見開く。
「承知しました」
颯真は車に乗り込む前に、もう一度だけ灯りを見た。
あの場所には、明日香がいる。
そう思うだけで、明日もここへ来る理由は十分だった。
読んでくださりありがとうございます。
毎晩ウーロン茶を頼みに来る颯真。
彼のまっすぐすぎる言葉に、明日香の心も少しずつ揺れ始めました。
けれど、町で噂になっているデータセンター計画。
そして颯真を迎えに来た黒い車。
彼は本当に、ただの常連客なのでしょうか。
次話では、明日香が颯真の正体を知ることになります。




