第1話 離婚した夜、私は地方スナックのカウンターに立った
離婚した夜、帰る場所を失った明日香がたどり着いたのは、海沿いの小さな町にあるスナックでした。
「大丈夫」と言われ続けてきた女性が、もう一度、自分の人生を始める物語です。
第1話では、明日香の再出発と、毎晩ウーロン茶を頼むことになる男性との出会いを描いています。
「明日香は、俺がいなくても大丈夫だろ」
最後まで、あの人は私をそういう女だと思っていた。
強くて。
泣かなくて。
ひとりでも生きていけて。
誰かにすがるような面倒な女ではない。
「大丈夫」と言われるたび、本当は少しずつ削られていた。
私は強かったのではない。
強い役を、ずっと任されていただけだった。
離婚届を出した帰り道、私は駅のベンチに座ったまま、膝の上のバッグを両手で握りしめていた。
初夏の夕方だった。
改札の向こうから、仕事帰りの人たちが流れてくる。
誰かは家に帰る。
誰かは待っている人のところへ行く。
誰かは、今日あったことを話せる場所へ帰る。
私には、もう帰る場所がなかった。
六年暮らした部屋は、私の部屋ではなくなった。
元夫の荷物はほとんど運び出されていたし、私ももう、あの部屋に戻る理由を失っていた。
荷物はスーツケースひとつ。
貯金は少し。
仕事は、結婚後に続けていた短時間のパートだけ。
それでも、あの人は言った。
「明日香なら大丈夫だろ」
大丈夫なわけがなかった。
でも私は、その場で泣けなかった。
泣いたら、負けた気がした。
すがったら、惨めになる気がした。
だから最後まで、平気な顔をしていた。
平気な顔をするのだけは、昔から得意だった。
スマホを開くと、数時間前に送ったメッセージに返信が来ていた。
『来なよ。何も聞かないから』
送り主は、美沙。
学生時代の友人で、今は海沿いの小さな町でスナックをやっている。
私はそのメッセージを何度も読み返したあと、立ち上がった。
どこへ行けばいいのか分からない。
なら、何も聞かないと言ってくれる人のところへ行こう。
そう思った。
電車を乗り継ぎ、町に着いたのは夜だった。
駅前に降りた瞬間、私は少しだけ足を止めた。
暗い。
東京の夜に慣れていたせいかもしれない。
けれど、それだけではなかった。
駅前の商店街には、シャッターの下りた店がいくつも並んでいた。
看板の電気が消えたままの喫茶店。
古びた写真館。
ガラスに「閉店のお知らせ」が貼られた衣料品店。
風が吹くと、アーケードの端に吊られた色褪せた旗が、かさりと鳴った。
寂れている。
そう思ってから、胸の奥が少し痛んだ。
この町は、自分みたいだと思った。
誰かに置いていかれた場所。
まだ形は残っているのに、もう必要とされていないような場所。
けれど、商店街の奥に、小さな灯りがあった。
スナック美沙。
紫色の古い看板に、そう書かれている。
ドアの前まで行くと、中から笑い声が聞こえた。
明るすぎない、でも消えない灯り。
私は深呼吸をして、ドアを開けた。
「いらっしゃ……あ、明日香!」
カウンターの中にいた美沙が、目を丸くしたあと、すぐに笑った。
昔と変わらない笑顔だった。
けれど、目尻には少し皺が増えていて、髪も短くなっていた。
「本当に来たんだ」
「うん」
「荷物、それだけ?」
「うん」
美沙は、私の顔をじっと見た。
何があったのか、たぶん大体分かったのだと思う。
でも、聞かなかった。
代わりに、カウンターの奥からエプロンを出して、私に差し出した。
「とりあえず、皿洗いから始める?」
私は少しだけ笑った。
「いきなり働かせるんだ」
「うちは人手不足なの。泣くなら閉店後にして」
「厳しいね」
「優しいでしょ。考える暇をあげないんだから」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
店内には、常連らしき客が四人いた。
五十代後半くらいの、日焼けした顔の男性。
美沙が「田島さん」と呼んでいた。
白髪交じりで、穏やかな目をした男性。
商店街で文具店をやっている佐伯さん。
スーツ姿の若い女性。
市役所職員の真由ちゃん。
そして、カウンターの端でスマホを触っている二十代半ばくらいの青年、健太くん。
私はエプロンをつけ、グラスを洗い始めた。
慣れない店の匂い。
酒と、煙草の残り香と、古い木の匂い。
カウンターの中は狭くて、冷蔵庫の開け閉めひとつにも気を遣う。
それでも、何かをしていると呼吸が楽だった。
「また駅前の店、閉まったな」
田島さんがグラスを傾けながら言った。
「靴屋さんですか?」
真由ちゃんが聞く。
「そう。親父さん、もう無理だってよ」
佐伯さんが苦笑した。
「うちも人のこと言えないけどね。学校が減ると、ノートも鉛筆も売れないんだよ。子どもがいない町は、店も年を取る」
「工場も来月からまたシフト減るらしいっすよ」
健太くんが、スマホから目を離さずに言った。
「この町、どうなるんすかね」
誰もすぐには答えなかった。
不景気。
衰退。
過疎。
ニュースでは聞いたことのある言葉だった。
けれど、その夜のカウンターでは、それが言葉ではなく、人の顔をしていた。
私はグラスを拭きながら、黙って聞いていた。
「で、明日香ちゃん」
田島さんが、不意に私に顔を向けた。
「美沙ちゃんの友達なんだって?」
「あ、はい。少しの間、手伝わせてもらいます」
「都会から来たんだろ?」
「はい」
「若いのに出戻りかい? 寂しい夜はここで飲めばいいさ」
美沙がすぐに眉を上げた。
「田島さん」
止めようとした美沙より先に、私は笑った。
「寂しい夜に高いお酒を入れてくれるなら、喜んで聞きます」
一瞬、店内が静かになった。
それから、田島さんが大きく笑った。
「言うねえ!」
「田島さん、一本入れなよ」
美沙がすかさず言う。
「おいおい、そう来るか」
場が笑いに変わる。
私は笑っていた。
けれど、胸の奥が少し震えていた。
たぶん、傷ついていた。
でも、傷ついた顔をしないで済んだ。
泣かないで済んだ。
その時、入口のベルが小さく鳴った。
私は反射的に顔を上げた。
入ってきたのは、町の人ではなさそうな男性だった。
白いシャツに、薄いジャケット。
ネクタイはしていない。
普段着なのに、姿勢がいい。
派手ではない。
けれど、どこか目を引いた。
年齢は、私より少し上か、同じくらい。
疲れているようにも見えるのに、目だけは静かで強い。
「いらっしゃいませ」
美沙が声をかける。
男性は軽く会釈して、カウンターの端に座った。
ちょうど、私が立っている場所の近くだった。
美沙に目で促され、私は注文を聞いた。
「何になさいますか?」
男性は少し間を置いた。
「ウーロン茶で」
「お酒じゃなくていいんですか?」
「今日は、飲みに来たわけではないので」
不思議な答えだった。
私はグラスに氷を入れ、ウーロン茶を注いだ。
男性の前に置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
男性はグラスに手を伸ばし、ほんの少しだけ飲んだ。
その仕草が、とても静かだった。
常連たちはまた町の話に戻った。
「デカい仕事でも来ないかね」
田島さんがぼやく。
「来ても、東京の会社に土地だけ持っていかれるだけだろ」
佐伯さんが言う。
「雇用がなきゃ意味ないよ」
健太くんが小さく笑った。
「雇用なんて来ないっすよ。この町に」
その会話を、ウーロン茶の男性は黙って聞いていた。
表情はほとんど変わらない。
けれど、聞いていないわけではない気がした。
閉店近くになり、常連たちがひとり、またひとりと帰っていった。
最後に残ったのは、その男性だけだった。
会計を済ませたあと、私は言った。
「ありがとうございました」
男性は、少しだけ私を見た。
「また来てもいいですか」
「お客様ですから」
当然のように返すと、男性はかすかに笑った。
「客じゃなくても、来たいと思いました」
「え?」
聞き返す前に、男性は軽く頭を下げて店を出ていった。
ドアが閉まる。
私は少しの間、そのドアを見ていた。
美沙がカウンターに肘をつき、にやにやしている。
「明日香」
「何?」
「あの人、明日香目当てでまた来るよ」
「まさか」
「分かるって。長年スナックやってるんだから」
「ただのお客様でしょ」
「ただのお客様は、初対面の女に『客じゃなくても来たい』なんて言わない」
私は頬が熱くなるのを感じた。
「からかわないで」
「からかってないよ」
美沙はグラスを片づけながら言った。
「あの人、たぶん本当にまた来る」
「来ないよ」
そう言いながらも、なぜか私は、さっきの男性が座っていた席を見てしまった。
空のグラスには、少しだけ氷が残っていた。
読んでくださりありがとうございます。
離婚したばかりの明日香がたどり着いたスナック美沙。
そこで出会った、酒を飲まずにウーロン茶を頼む不思議な男性。
彼はただのお客様なのか。
それとも、明日香の人生をもう一度動かす人なのか。
次話から、毎晩ウーロン茶を頼む彼との距離が少しずつ近づいていきます。




