18
翌朝。
まだ空気が冷たい時間に、扉を叩く音で目が覚める。
「準備開始だ」
扉の外から聞こえてきたのは、団長の短い一言。
昨日とは、まるで違う朝だった。
支度を整え、宿を出る。
街はまだ完全には目を覚ましていない。
人通りもまばらで、空気がひんやりと静かだ。
そんな中を、私たちは荷車を押しながら歩く。
言葉は少ない。
誰かが急かすわけでもないのに、自然と足が揃っていく。
やがて辿り着いたのは、大きな建物だった。
石造りの重厚な外観。美しいガラス細工の施された窓。正面の扉は高く、黄金色に輝くハンドルを握り押し開けると、内側から冷たい空気が流れ込んでくる。
中は想像以上に広かった。
高い天井。音がわずかに反響している。
奥には複数の扉が見える。
けれど、ひとつだけとても豪華だ。大きなホールへの入り口だろうか、銀細工の施された真紅の扉がある。
すでに何組かの人影が見える。
楽器を持った者、衣装を抱えた者。
他の楽団だ。
すれ違う視線が、一瞬だけこちらに向く。
値踏みするようなものもあれば、興味なさげなものもある。どれも静かで、それでも確かな熱を帯びていた。
言葉は交わさない。
それでも分かる。
ここにいる全員が、同じ目的で集まっている。
「こっちだ」
団長の一言で、私たちは入り口側の小さな部屋へと入った。
扉が閉まると、外のざわめきが少し遠のく。
そこでようやく、団長が口を開いた。
「今日の昼に、簡単な審査がある」
一人ひとりの目を見ながら、静かに言う。
「商会の人間が来る。そこで一度、演奏を見せる。通ればそのまま本番。落ちれば、ここで終わりだ」
それだけだった。
詳しい説明はない。
けれど、それで十分だった。
空気が、すっと張りつめる。
「……面白い」
「望むところだ」
セヴランさんとフェリクスさんの声が重なる。
その言葉に、皆の目がわずかに鋭くなる。
「準備するぞ」
「はい!」
私はユーシリアさんと一緒に、衣装を取り出す。
布を広げた瞬間、まず重さに驚いた。
持ち上げた手に、しっかりとした感触が伝わる。
昨日まで着ていたものとは、明らかに違う。
「……重い」
思わずこぼすと、ユーシリアさんが小さく笑う。
「その分、見栄えはするわよ」
畳まれていた衣装を解いていくと、衣擦れの音が静かに響いた。いつもの衣装より、少し高い音。
指先で丁寧に触れる。肌に触れる感覚はなめらかでひんやりとしていた。
「ほつれ、破れ、汚れ。全部見ておいて」
頷いて、指先で丁寧に確認していく。
縫い目を軽く引く。強度は十分。
動きを妨げる硬さもない。
袖口には細かなレース。裾に向かうほど刺繍の密度が増していく。小さな花の文様が、糸の重なりで立体的に浮かび上がっていた。
「……すごい技術」
思わず声が漏れる。
次々と衣装の確認を終えていく。
そして最後の一着に手を伸ばした、その時。
「くれぐれも注意して扱って」
背後から、寒気がするほど静かな声が落ちた。
振り返らなくても分かる。
アナスタシアさんだ。
彼女の衣装には、胸元に銀糸が走っている。そこにさらに、細かなガラスを編み込んだ糸が幾重にも重ねられていた。
動くたびに、細い光が揺れる。かすかに、ガラス同士が触れ合う音がした。
これはもう衣装というより、ひとつの芸術作品。美しい。
「そこ。その銀糸、少しでも傷つけたら終わりだから」
さらりと言う。
……怖い。
刺繍が繊細なのは分かっている。
もちろん細心の注意を払って扱っているけれど。
お願いだから、その鋭い視線はやめてほしい。背後にいるのに、なぜか表情が分かる。この感じは絶対に眉間に皺を寄せ、じっと私の手元を睨むように見ているはずだ。
集中しているけれど、その視線の強さに、余計な力が入りそうになる。
「わかりました」
一度目を閉じる。
ゆっくりと、深く息を吸って、吐く。
最初の頃は、衣装に触ることすら許されなかった。
それが今は任されている。特に大切なものも、最近では任せてもらえるようになった。
大丈夫。
いつも通りにやればいい。
「……確認終わりました。問題ありません」
目で見て、手で確かめて、魔力を通して仕掛けも確認する。
気がつけば、額にうっすら汗が滲んでいた。
「いいわ。ありがとう」
アナスタシアさんは短く言って、そのまま離れていく。
止めていた呼吸を、意識して戻す。力が抜けそうになるのを堪えて、背筋を伸ばした。
まだ終わりじゃない。
次は装飾布の確認だ。
楽器はいつものものを使う。けれど、打楽器にはいつもとは違う装飾が施されるらしい。
取り出したのは、深い赤の布。縁には金糸があしらわれている。
全ての刺繍を丁寧に確認してから、ブラムさんに渡す。
それを受け取ると、ブラムさんは迷いなく布を巻いていく。
端を折り込む角度。
結び目の位置。
どれも正確で無駄がない。
何度も繰り返してきた動きだと、すぐに分かった。
「触ってみるか」
声をかけられて、指先でそっと布に触れる。
つるりとした、光沢のある感触の布が冷たい楽器を包み込むようにピンと張られている。
魔力を通し確認した時にわかった。これも仕掛けが施されている。
「この布をつけて打つ時に音が変わったりは……」
「変化しないように作られている」
短い説明だった。
音を変えないための布。
そんなものがあること自体、初めて知った。
見た目が変わるというのは、それだけで大きい。
今までと同じ楽器なのに、装飾布をつけた瞬間から別のものに見える。
準備が整っていくにつれて、部屋の空気が変わっていく。
会話が減る。
誰に言われたわけでもないのに、自然と背筋が伸びている。
昨日の街の賑わい。
笑い声。匂い。光。
それらが、遠くに引いていった。




