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仮初を生きるもの  作者: 木南一果
その手を

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17

扉が閉まる音がして、部屋にひとりになった。


ベッドに腰かけて、ぼんやりと窓の外を眺める。空はもう橙に染まっていて、海の反射光がやわらかく滲んでいる。遠くから、かすかに人の声と波の音が混じって届いてくる。


今日のことを、順番に思い返してみる。


あの少年と、店主の慌てぶり。

海。砂浜の歩きにくさ。波の冷たさ。

広場で食べた、緑色のペーストが入ったパン。

バネ留め。


……色々あったなぁ。


ひとつひとつは小さな出来事なのに、どれも妙に鮮やかで、胸の奥に残っている。

そう思ったら、じわりと眠気がきた。


体の奥に溜まっていた疲れが、今になってゆっくりと浮き上がってくるみたいだった。


————コン、コン


扉を叩く音に、はっと顔を上げる。


「団長が戻った。皆で飯だ、行くぞ」


ブラムさんの声だった。


「はい!」


慌てて立ち上がり、軽く身なりを整えてから扉を開ける。


廊下にはすでに、ブラムさん、リュミ、アナスタシアさん、ユーシリアさんが揃っていた。


「お待たせしました」

「大丈夫、今集まったところよ」


ユーシリアさんがやわらかく笑う。

そのまま皆で食堂へ向かうと、また個室に案内された。


扉を開けて中に入ると、テーブルの端に団長が座っていた。エルドさんもすでに席についている。


「おかえりー!」


リュミが開口一番に声を上げる。

団長が顔を上げ、軽く手をあげて応じた。


「おかえりなさい。ねぇ団長?すでに酒臭いってどういうことなの」


アナスタシアさんが挨拶に続けてぴしりと言う。


「すみませんね」


悪びれない声音で、団長は短く返した。

本当に悪びれていない。


そのやり取りに、私とユーシリアさんは顔を見合わせてくすくすと笑う。


椅子を引く音がして、私も空いた席に腰を下ろした。


少し待つと、セヴランさんとフェリクスさんも合流した。

それからしばらくは、とりとめのない話が続いた。


リュミが今日の出来事を勢いよく話し、団長が時折相槌を打つ。

なんだかさっきの私とブラムさんみたいだ。

アナスタシアさんが細かく指摘し、フェリクスさんが茶化す。

セヴランさんは静かに聞きながら、時折短く言葉を挟む。

エルドさん、ブラムさん、ユーシリアさんは変わらず落ち着いた様子で耳を傾けている。


いつもの空気。


さっきまでの街のざわめきや、昨日から時々感じる冷たい視線が、少し遠いものに思える。


ごく、当たり前の夜の時間だった。

だからこそ。


「……ん」


不意に、団長が言った。

ほんの短い一音。

けれど、その瞬間、空気がわずかに張りつめる。


さっきまでと同じ姿勢のままなのに、何かが切り替わったのがわかった。


「骨休みになったようだな、ならいい。次の話だ」


リュミの声がぴたりと止まる。


笑っていた空気が、静かに引いていく。


ユーシリアさんの目が前を向いた。

アナスタシアさんも姿勢を正す。


私も、自然と背筋が伸びていた。


「この街でしばらく仕事を受けることにした」


団長がテーブルの上で指を組み、全員をゆっくりと見渡す。


「アストラ商会からの依頼を2件受けた。まずは上客向けの演奏、数日間。明日から準備に入る」


淡々とした口調。


けれど、その一言一言が、はっきりと重みを持って落ちてくる。


「もう1つはまだ調整中だが、それも数日間だ。よって、しばらくはこの街に滞在する」


さっきまで酒の匂いをさせて背筋を丸めていた人と、同じ人物とは思えない。


声も、視線も、すべてが研ぎ澄まされている。


「上客、ですか」


ブラムさんが短く尋ねる。


「詳しくは明日話す。今夜は頭に入れておくだけでいい」


それだけ言って、団長は杯を手に取った。

——話は終わり。


そう、はっきりとわかる区切りだった。


「明日からか」


フェリクスさんがぼそりと呟く。


「遊びは終わりだな」


セヴランさんが静かに返す。


その言葉に、胸の奥が引き締まる。

今日のような自由な時間が、もう終わるのだと実感する。


でも。


「じゃあ今夜は美味しいもの食べよ!骨休めの締めくくりに!」


リュミの声が、ぱっと張り詰めた空気を戻していく。

さっきまでの緊張が、嘘みたいにほどけたのがわかる。


「もう食ったろ」

「夕飯は別!」

「別の意味がわからん」


フェリクスさんが呆れたように言い、リュミが笑う。


その横で、団長が小さく肩を揺らした。

笑っているようだ。

その様子に、つられて皆の表情も緩む。


さっきまでと同じ、緩やかな空気。

けれど、明日からは仕事開始。

そして皆の雰囲気からしてその仕事はおそらく、大きな仕事になるのだろう。

その事実だけが、静かに胸の奥に残っていた。


私はそっと息をついて、席に座り直した。

海の音が聞こえたような気がした。

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