15
呼び込みの声や足音が遠ざかり、代わりに風の音が大きくなる。
そして、目の前が開けた。
「……わ」
思わず、足が止まる。
視界いっぱいに広がる、青。
どこまでも続いているように見える水面が、光を受けてきらきらと揺れている。
風が吹くたび、波が揺れ動き、さざめく音が重なる。
「これが、海」
こぼれた言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
本で読んだものとは、まるで違う。
知識としては知っていたはずなのに、目の前のそれは、まるで別のものだった。
「すごいでしょ」
隣でリュミが静かに笑う。
「初めてだと、この存在感は驚くよね」
「うん」
短く頷く。
さっきの出来事は、まだ胸の奥に残っている。
けれど今はそれすら遠くなるくらい、この景色に引き込まれていた。
風が頬を撫でる。
潮の匂いが、はっきりとわかる。
「感動落ち着いてきた?早く近くまで行ってみよ!」
弾む声と一緒に、リュミが駆け出す。
「おい、気をつけろよ」
フェリクスさんが一応声をかける。
私はその背中を追うように、でもゆっくりと歩いた。
砂の感触が靴越しに伝わる。
踏み出すたびに沈む足。体全体のバランスをとるのが難しい。靴の中に砂が入ってきて困惑する。
草でも土でもない、不安定な地面。
これが、砂浜。
その言葉をようやく実感として理解する。
ゆっくりと波打ち際がよく見える位置まで辿り着く。
寄せては返す、ただそれだけの動きなのに、ずっと見ていられる気がした。
「……」
今朝はよく眠れた。
頭はすっきりしている。
そして今は海の音が、心の中まで静かに整えていく。
旅を始めた理由が、ふとよぎる。
名前のこと。
探さなければならないもの。
忘れてはいけないこと。
なのに最近、忙しさを理由にして少しだけ目を逸らしてしまっていた。
見つからなかった時のことを考えるのが怖い。
先を知るのが怖い。
臆病な自分が、逃げようとしている。
「……負けたくないな」
小さく、呟く。
臆病になるのはいい。仕方ない。
けれど——
弱気な自分に負けたくない。
この気持ちを、忘れないようにしよう。
そう、思えた。
「……で?」
背後から、気の抜けた声が落ちてきた。
「その顔、何かに勝負でも挑んでんのか?」
振り返ると、フェリクスさんが少しだけ呆れたようにこちらを見ている。
「え」
間の抜けた声が出る。
「いや、なんか今すげぇいい感じに浸ってただろ。“私は今、海に誓いました”って顔してたぞ」
「そんなことないです」
即座に否定する。
「してたしてた。波と語り合ってたろ、絶対」
「語り合ってないです!」
思わず言い返すと、フェリクスさんは肩をすくめる。
「まあいいけどさ」
軽く笑って、海の方へ視線を向ける。
「最初はみんなそんなもんだ。海ってやつに、いちいち感動して、勝手に何か決意して…」
少しだけ間を置いて片眉をあげてにやりと笑う。
「だいたい3日で忘れる」
「ひどい」
思わず漏れた恨み言にも動じない。
「現実的って言ってくれよ」
あっさりと返された言葉。
今後忘れないとは言い切れないけれど、3日で忘れるとまで言われると、意地でも忘れられない気がしてくる。
「人間そんなもん。気負わずにいけってことさ」
鼻歌まじりに言われて、なんだか力が抜けてしまう。
なんとも言えない目でフェリクスさんを見ていると、砂浜を走って波打ち際で海と遊んでいたリュミが戻ってきた。
「2人とも、早く!」
軽く手を叩きながら急かされる。
「どうしたの?」
「せっかく来たんだよ、近くまでいかなきゃ」
「え、これ以上?」
リュミの顔と波打ち際を交互に見て、少し身構える。
そんな私を見てフェリクスさんが鼻で笑う。
「何怖がってんだよ。波に食われるわけじゃねぇ」
「さっき“気をつけろ”って言ってたの誰ですか」
「リュミのお転婆とはまた別だろ」
ほら、とリュミが手を差し出してくる。
少しだけためらってしまう。
さっきまで見ていた波が、思ったよりも近くで音を立てている。
靴だけで済まず、服まで濡れてしまうかもしれない。
転ぶかもしれない。
でも、進みたい。その手を、とる。
「よし!」
リュミがぱっと顔を明るくして、そのまま私の手を引く。
「ちょ、ちょっと待って」
「待たない!行くよっ」
砂に足を取られながら、半ば引きずられるように波打ち際を更に海へと近づいていく。
「おい、本当に転ばすなよ」
後ろから少し慌てたフェリクスさんの声。
「はーい」
軽い返事。全然大丈夫そうに聞こえない。待って欲しい。
砂に足がとられて、今にももつれて転びそう。
走ることに必死で何も話せない。
次の瞬間、波が足元まで寄せてきた。
思わず足を止める。
水が、すぐそこまで来ている。
透明で、けれど底が揺れていて、距離がうまく掴めない。
「ほら、来るよ」
リュミが楽しそうに言う。
逃げる間もなく、波が触れた。
ひやりとした感触が、靴の先を濡らす。
「つめた……!」
思わず声が漏れる。
「だろ?」
いつの間にか隣に来ていたフェリクスさんが笑う。
「見てるだけの時と、入った時で別物なんだよ」
「……ほんとですね」
靴の先を見ながら、呟く。
さっきまで遠くにあったものが、今は触れられる場所にある。
触れて、冷たくて、確かに存在している。
波が引いていく。
足元の砂がさらさらと流れて、少し沈む。
不安定なのに、不思議ともう怖くはなかった。




