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仮初を生きるもの  作者: 木南一果
その手を

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95/101

15

呼び込みの声や足音が遠ざかり、代わりに風の音が大きくなる。


そして、目の前が開けた。


「……わ」


思わず、足が止まる。


視界いっぱいに広がる、青。


どこまでも続いているように見える水面が、光を受けてきらきらと揺れている。

風が吹くたび、波が揺れ動き、さざめく音が重なる。


「これが、海」


こぼれた言葉は、自分でも驚くほど小さかった。


本で読んだものとは、まるで違う。

知識としては知っていたはずなのに、目の前のそれは、まるで別のものだった。


「すごいでしょ」


隣でリュミが静かに笑う。


「初めてだと、この存在感は驚くよね」

「うん」


短く頷く。


さっきの出来事は、まだ胸の奥に残っている。

けれど今はそれすら遠くなるくらい、この景色に引き込まれていた。


風が頬を撫でる。

潮の匂いが、はっきりとわかる。



「感動落ち着いてきた?早く近くまで行ってみよ!」



弾む声と一緒に、リュミが駆け出す。


「おい、気をつけろよ」


フェリクスさんが一応声をかける。


私はその背中を追うように、でもゆっくりと歩いた。


砂の感触が靴越しに伝わる。

踏み出すたびに沈む足。体全体のバランスをとるのが難しい。靴の中に砂が入ってきて困惑する。

草でも土でもない、不安定な地面。


これが、砂浜。

その言葉をようやく実感として理解する。


ゆっくりと波打ち際がよく見える位置まで辿り着く。

寄せては返す、ただそれだけの動きなのに、ずっと見ていられる気がした。


「……」


今朝はよく眠れた。

頭はすっきりしている。


そして今は海の音が、心の中まで静かに整えていく。



旅を始めた理由が、ふとよぎる。

名前のこと。

探さなければならないもの。


忘れてはいけないこと。

なのに最近、忙しさを理由にして少しだけ目を逸らしてしまっていた。


見つからなかった時のことを考えるのが怖い。

先を知るのが怖い。


臆病な自分が、逃げようとしている。


「……負けたくないな」


小さく、呟く。


臆病になるのはいい。仕方ない。

けれど——

弱気な自分に負けたくない。


この気持ちを、忘れないようにしよう。

そう、思えた。



「……で?」


背後から、気の抜けた声が落ちてきた。


「その顔、何かに勝負でも挑んでんのか?」


振り返ると、フェリクスさんが少しだけ呆れたようにこちらを見ている。


「え」


間の抜けた声が出る。


「いや、なんか今すげぇいい感じに浸ってただろ。“私は今、海に誓いました”って顔してたぞ」

「そんなことないです」


即座に否定する。


「してたしてた。波と語り合ってたろ、絶対」

「語り合ってないです!」


思わず言い返すと、フェリクスさんは肩をすくめる。


「まあいいけどさ」


軽く笑って、海の方へ視線を向ける。


「最初はみんなそんなもんだ。海ってやつに、いちいち感動して、勝手に何か決意して…」


少しだけ間を置いて片眉をあげてにやりと笑う。


「だいたい3日で忘れる」

「ひどい」


思わず漏れた恨み言にも動じない。


「現実的って言ってくれよ」


あっさりと返された言葉。

今後忘れないとは言い切れないけれど、3日で忘れるとまで言われると、意地でも忘れられない気がしてくる。


「人間そんなもん。気負わずにいけってことさ」


鼻歌まじりに言われて、なんだか力が抜けてしまう。

なんとも言えない目でフェリクスさんを見ていると、砂浜を走って波打ち際で海と遊んでいたリュミが戻ってきた。


「2人とも、早く!」


軽く手を叩きながら急かされる。


「どうしたの?」

「せっかく来たんだよ、近くまでいかなきゃ」

「え、これ以上?」


リュミの顔と波打ち際を交互に見て、少し身構える。

そんな私を見てフェリクスさんが鼻で笑う。


「何怖がってんだよ。波に食われるわけじゃねぇ」

「さっき“気をつけろ”って言ってたの誰ですか」

「リュミのお転婆とはまた別だろ」


ほら、とリュミが手を差し出してくる。

少しだけためらってしまう。


さっきまで見ていた波が、思ったよりも近くで音を立てている。


靴だけで済まず、服まで濡れてしまうかもしれない。

転ぶかもしれない。

でも、進みたい。その手を、とる。



「よし!」


リュミがぱっと顔を明るくして、そのまま私の手を引く。


「ちょ、ちょっと待って」

「待たない!行くよっ」


砂に足を取られながら、半ば引きずられるように波打ち際を更に海へと近づいていく。


「おい、本当に転ばすなよ」


後ろから少し慌てたフェリクスさんの声。


「はーい」


軽い返事。全然大丈夫そうに聞こえない。待って欲しい。

砂に足がとられて、今にももつれて転びそう。

走ることに必死で何も話せない。


次の瞬間、波が足元まで寄せてきた。

思わず足を止める。


水が、すぐそこまで来ている。

透明で、けれど底が揺れていて、距離がうまく掴めない。



「ほら、来るよ」


リュミが楽しそうに言う。

逃げる間もなく、波が触れた。

ひやりとした感触が、靴の先を濡らす。


「つめた……!」


思わず声が漏れる。


「だろ?」


いつの間にか隣に来ていたフェリクスさんが笑う。


「見てるだけの時と、入った時で別物なんだよ」

「……ほんとですね」


靴の先を見ながら、呟く。

さっきまで遠くにあったものが、今は触れられる場所にある。

触れて、冷たくて、確かに存在している。


波が引いていく。

足元の砂がさらさらと流れて、少し沈む。

不安定なのに、不思議ともう怖くはなかった。

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