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仮初を生きるもの  作者: 木南一果
その手を

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10

廊下を進み、階段をひとつ登る。

それから長い廊下を進んだ先で、案内してくれていた女性が足を止めた。


「こちらでございます」


静かに扉が開かれる。

中に踏み入れる前から、空気が変わった。

あたたかい。


中に入るとほんのりと白く視界が霞む。

湯気が肌に触れ、空気が温かくてやわらかい。


「左手が女性用、直進した先が男性用でございます。それぞれに見張りと係の者がおりますので、ご不明な点がございましたら、お気軽にお申しつけください」


どうやら案内してくれた女性はここまでのようだ。


「ありがとうございます」


皆が口々に言うと、ふわっと微笑んだ。


「旅の疲れを、どうぞゆっくりほぐしてくださいね」


硬いだけの丁寧さではない。

柔らかくこちらを気遣う言葉だった。

形だけではなく、本心からのものだとわかる。

それが、素直に嬉しかった。


この人は私たちを歓迎してくれている。

そう思えたことが、胸の奥を少しあたたかくする。


女性は静かに一礼し、踵を返す。

私はその背中をしばらく見送っていた。


「さぁ、いきましょ」


いつになく伸びやかなユーシリアさんの号令で、男女に別れて浴場へ向かう。


扉の前に女性と男性の兵士が立っていた。

私たちの姿を確認し、名前を名簿と照らし合わせてから扉の鍵を開けてくれる。


そこは衣服を脱ぐための広間になっている。

故郷のカンシーラでも町の大浴場にたまに行っていたから、造り自体は同じだとわかる。

けれど、煌びやかさも広さも、まるで違った。


「中どうなってるのかな」


リュミが待ちきれず、服を脱ぐ前に浴室へ続く扉を開ける。

私も気になり、それに続いた。


「わぁ……」


中を覗き込み、2人同時に声が漏れる。


石で作られた広い浴場。壁も床も淡い色で整えられ、灯りが水面に反射して揺れている。

奥には大きな湯船があり、静かに湯気を立てていた。


「……はぁぁ……」


リュミが力を抜いたように声を出す。


「すごい……ほんとに入っていいのこれ……?」

「いいのよ、だから案内されたんでしょう」


アナスタシアさんが靴を脱ぎながら淡々と言う。

けれど、その口元はほんの少し緩んでいて、声も明るい。


私もそっと服を脱ぐ。

床はほんのり温かくて、足裏に心地いい。


服を脱ぎながら、ふとさっきの視線を思い出す。

胸の奥に残っている小さな棘。


「リネ、どうしたの?」


ユーシリアさんの声に、はっとする。

どうやら手が止まっていたらしい。


小さく首を振る。


「なんでもないです」


今は、目の前の幸せを逃したくない。


「先入るねー!」


気づけばリュミが先に脱ぎ終わり、湯船へ駆けていく。


「熱っ……あ、でも気持ちいい!」


その声に、ユーシリアさんと顔を見合わせて笑ってしまう。


私たちも浴室の中へ入る。


湯浴み専用の従業員が壁際に立っていた。

係の者がいるとは聞いていたが、3人もいることに少し驚く。


そのうちの1人に案内され、リュミは湯に入る前に体を洗われている。

さっきまでの勢いはどこへやら、大人しくされるがままだ。


「……人に洗ってもらうなんて、母さんがいた頃以来で緊張するぅ…」


心配したが、その必要はなさそうだ。

すぐに受け入れて、夢心地だわぁ、と堪能し始める。

さすがリュミ。


私は緊張したまま体を洗われ、泡を流してもらう。


ようやく湯に入れる。

旅に出てからは日々、清浄魔法で清めるだけだった。

久しぶりのお風呂。

ゆっくりと足を入れる。


「あ……」


思わず声が漏れる。


あたたかい。

じんわりと、足先から体の奥へと熱が広がっていく。


肩まで沈み、ゆっくりと息を吐く。


「……はぁ」


力が抜けていく。


さっきまで胸の奥に残っていたざわつきが、少しずつほどけていくのがわかる。


ぼんやりと水面を見つめていると、隣でユーシリアさんがふっと微笑んだ。


「リネ」


名前を呼ばれ、顔を向ける。


「疑問、たくさんあるわよね」


やわらかい声だった。


「あります」


小さく、でも確かに頷く。


団長のこと。

この街のこと。

聞きたいことは、いくらでもある。


「大きいものも、小さいものもあるわよね」


そう言って、少しだけ目を細めて天井の光を見る。


「大丈夫。明日、ちゃんと話しましょうね」


穏やかに、でもはっきりとした声音。


「今は考えなくていいわ。今日は、休む日」

「…はい」


自然とそう言葉が出る。

ユーシリアさんはただ微笑み、小さく頷いた。


そのやり取りを聞いていたのか、アナスタシアさんが言う。


「そう。今の問題は、保湿よ」


真剣な声だった。


「この宿の感じなら、何種類か置いてあるはず」


髪をまとめながら、ちらりと係の人を見るその瞳が力強く輝いている。


「普段は諦めてるけど、こういう時こそ手をかけてあげなくちゃ」


完全に意識がそちらに向いている。


「絶対、最新の物があるわ」


妙な確信をもって言い切る姿に、思わず笑ってしまう。


「えー?なにか違うの?」


リュミが顔だけ出して聞く。


「違うに決まってるでしょ。日々美容は進化しているの」


即答だった。


「へぇ……」


頷いたあと、ぱしゃっと湯を叩く。


「よくわかんないけどさ、お風呂最高だねぇ!」


ぱたぱたと腕を動かし、楽しそうに笑う。


「静かにしなさい、はしたない」

「久しぶりだからさぁ」

「それは理由にならない」


そう言いながらも、アナスタシアさんの口元も緩んでいる。

そのやり取りを見て、また小さく笑ってしまう。


さっきまで感じていた居心地の悪さが、嘘みたいに遠くなっていた。

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