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仮初を生きるもの  作者: 木南一果
その手を

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扉をくぐった瞬間、光が押し寄せて思わず目を細める。

廊下の柔らかな灯りとは違う、はっきりとした明るさ。


それと同時に、匂いが来る。焼いた肉の香ばしさ、温かいスープの湯気、香草の香り。視界より先に、空腹が刺激された。


「……っ」


小さく息を呑む。胸の奥がふわりと浮き立つ。こんな場所で食事をするなんて、想像もしていなかった。


息を呑んだ、その直後。


ぐぅ、と正直すぎる音が鳴る。


「はは、いい音したな」


横でフェリクスさんが小声で笑う。


「……聞こえました?」

「ばっちりな」


顔が少し熱くなる。でも、それどころじゃない。匂いだけでこんなにお腹が空くなんて思わなかった。


食堂を改めて見回す。広い空間に整然と並ぶ卓。磨き上げられた食器が光を受けて静かに輝いている。


その中にいるのは、見慣れない服を纏った人たちばかりだった。落ち着いた色合い、それでいて質の良さが一目でわかる。声は控えめで、笑い声ひとつも品よく収まっている。


場違いじゃないだろうか。


胸の奥が、すっと冷える。


この中で、食べるの? あの光の下で? あの整えられた空気の中で? あのキラキラした食器を使って?


無理だ、と思った。音を立てずに食べる自信もない。何をどうしたらいいのかも分からない。


「こちらへ」


すぐ横から静かな声がした。振り向くと、先ほど部屋へ案内してくれた黒髪をきっちりまとめた女性が立っている。


「奥の部屋をご用意しております」


柔らかな微笑みとともに、そっと促される。案内されるままに4人で食堂の奥へ進むと、仕切られた部屋があった。


「あっ」


中にはもう、ユーシリアさん、アナスタシアさん、セヴランさん、エルドさん、他の皆が座っていた。さっき見た静かな緊張の空間とは違う、落ち着いた空気。


「よかった」


思わず小さく呟く。


「こちらでごゆっくりお過ごしください」


背後から女性の声がする。振り返ると、先ほどよりもわずかに柔らいだ表情で立っていた。


「周囲を気にされず、お食事をお楽しみいただけます」


その言葉にほんの少しだけ意味が含まれている気がした。


「助かります」


ブラムさんがそう言って静かに頭を下げる。それに合わせて私も軽く礼をした。


女性は微笑み、一礼して扉の外へと下がる。その所作は変わらず美しいのに、さっきと温度が違う。案内してもらった時よりも、今は柔らかい。

そんなことを考えながら席に座る。


皆と部屋について話しながら待っていると、料理が運ばれてきた。


蓋が開かれ、湯気とともに香りが広がる。

幸福な香りとはこのことだろうなぁと、夢見心地になる。

なぜまだ食べていないのに美味しいと思えるのか。感動する香りだ。


——その瞬間だった。


刺すような視線を感じ、顔を上げて扉を見る。

閉まりかけの扉の隙間から、ちらりと見えたのは、食事を運んでくれた従業員の冷たい瞳だった。


胸の奥が、ざわつく。


「うまそうだなこれ!」

「いい匂い……!」


フェリクスさんとリュミの声がまた重なる。

いつも通りの調子に、少しだけ力が抜ける。


「大丈夫だ、食べるぞ」


ブラムさんが短く言う。


あの視線に気づかないわけがない。

それでもブラムさんがそう言うのなら、きっとこれは、気にしなくていい(・・・・・・・・)ことなのだ。


私は小さく頷いた。


「いただきます」


そう口にしてから、ふと手が止まる。目の前には、見たことのない料理と整然と並べられたカトラリー。どれから使えばいいのか。


ちらりと周りを見る。


ユーシリアさんは迷いなく手を伸ばしている。アナスタシアさんも静かにナイフを取って、自然な動きで食事を始めていた。


すごい。

それに比べて、私は。


「……これ、どれから使うんだ?」


小声でフェリクスさんが呟く。

見れば、同じようにカトラリーを前に固まっていた。

今はフェリクスさんの存在が、どうしようもなく心強い。


「さあな。好きに使えばいい」


ブラムさんが短く返す。その手はすでにパンを取り、迷いなく口に運んでいた。


「それ、ありですか?」


思わず声が漏れる。


「そのために個室にしてくれたんだろ」


淡々とした一言。でもなるほど、そうか。

それだけで、肩の力が少し抜けた。


「良かったぁ。食べたいもん」


リュミがきらきらした目で皿を見つめていた。


私は少しだけ迷ってから、パンに手を伸ばした。

温かい。指先に伝わる熱に、安心する。


ひと口、かじる。


「おいしい」


思わず呟く。

外はほんのり固くて、中はふわりと柔らかい。ふわりと薫るバターの香り。噛むほどに甘みが広がっていく。


「だろ?」


フェリクスさんが得意げに笑う。


「いや、なんであなたが誇るのよ」


アナスタシアさんが呆れたように言う。

そのやり取りに、くすりと笑ってしまう。


少しずつ、空気がほどけていく。


次に運ばれてきた皿に手を伸ばす。

さっきほどの迷いはない。ナイフとフォークを手に取り、見よう見まねで切り分ける。


——思ったより、できる。


ほっとしたが、同時に、さっきの視線を思い出す。

扉の向こう。あの冷たい目。

歓迎されていないのがわかる目。


「どうした?」


低い声で小さくブラムさんが言う。

顔を上げる。


「……いえ」


小さく首を振る。


「美味しいです」


そう言うと、ブラムさんは短く頷いた。


「ならいい」


それだけ言って、また食事に戻った。

今は、この時間を味わえばいい。

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