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仮初を生きるもの  作者: 木南一果
その手を

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アナスタシアさんに促されて、私たちは建物の中へと足を踏み入れた。


開け放たれた大きな扉をくぐった瞬間、外とはまるで違う空気に包まれる。

柔らかな灯りが廊下を照らし、足元の絨毯が音を吸い込んだ。さっきまで聞こえていた街のざわめきが、嘘みたいに遠い。


「……すごい」


思わず小さく呟く。こんな場所に泊まるのは初めてだった。


「気後れすんなよ」


横からフェリクスさんが小声で言う。


「どうせ払うのは団長だ」

「いや払ってないと思いますけど……」


「じゃあなおさら遠慮いらねぇな」


適当なことを言いながら笑っているけれど、少しだけ落ち着かせようとしてくれているのが分かる。


奥から数人、同じ色の制服を着た人たちが現れ、それぞれ静かに頭を下げた。

その中でも、背筋の伸びた黒髪をきっちりまとめた女性が前に出る。


「ようこそお越しくださいました。お部屋へご案内いたします」


そのひとことで、空気がまた少し引き締まる。


3階です、と告げられて皆で階段を登り客室のある階に向かう。

階段から見た窓の外はもう暗く、遠くに街の灯りがちらちらと光っている。

3階に着くと、長い廊下に扉が等間隔で配置されていた。歩きながら名前を呼ばれ、順に案内されて1人ずつ部屋に入っていく。


やがて、私の名前が呼ばれる。


「リネ様。こちらのお部屋でございます」


扉が静かに開かれる。

中に入る。


——広い。


それが最初の感想だった。

簡素ではあるけれど、細部まで整えられた空間。

寝台も、机も、水差しも、花瓶も、置かれている。

誰にも邪魔されない、自分だけの場所。


後ろで扉が静かに閉まった。

その音で、ようやく実感する。


「……ひとりだ」


ぽつりと呟く。


静かだ。誰の気配もしない。話し声も、寝息もない。

ただ、自分の呼吸だけがある。


ゆっくりと、息を吐いた。

肩の力が抜けていく。


ベッドに腰を下ろすと、思っていたより柔らかくて沈み込む。

驚いて、慌てて立ち上がる。手で布を押してみる。沈む。戻る。それだけのことなのに、なんだかおかしくて、少し笑ってしまう。


「……すごいな」


今日だけで、何度すごいと言っただろう。


天井を見上げる。

静かな夜だった。


そうだった、と思い立って勢いよく立ち上がり、窓へ向かう。


夜で外はほとんど見えない。

それでも気になって、ゆっくりと窓を開けた。

ひやりとした風が頬を撫でる。


思わず目を細めた。


暗くて、海は見えない。ただ、遠くに灯りが点々と揺れているのがわかるだけだ。


けれど風が、違う。


草の匂いとも、森の匂いとも、川の匂いとも違う。少し湿っていて、どこか重たいような、それでいて心地よい、不思議な香り。


「……これが」


小さく呟く。

潮の匂い。

本で読んだり、人から聞いたことしかなかった海が、すぐそこにある。

見えなくても、確かにそこに。


しばらくそのまま、風にあたっていると、胸の奥の緊張や興奮がゆっくりとほどけていく気がした。

旅に出てから、こんなに心が静かなのは初めてだった。



——コンコン


扉を叩く音がして、今に引き戻された。

はっとして振り返る。

誰だろう。


リュミだろうか、それとユーシリアさんか。


「今、開けます」


窓を閉めて急いで扉へと向かう。



扉を開けると、そこに立っていたのはブラムさんだった。


「部屋の確認にきた」


低い声で静かに告げられる。


「中はひと通り見たか?」

「はい、素敵な部屋ですね」


そうか、と短く頷いて、部屋の中には入ることなく、廊下から軽く部屋の中へ視線を走らせる。

寝台、窓、奥の隅まで確認してから、私に視線を戻した。


「問題なさそうだな」

「問題、ですか?」


「ああ。信用できる環境でも、注意が必要だ」


淡々とした言い方。でも、それが当たり前というような口調。どんな時も先を見て動いているブラムさんの姿を見ると、ひとり部屋に浮かれていたなんて言いづらい。


「俺の部屋は右隣だ。何か困ったら呼べ、遠慮はいらない」


その一言だけで、さっきまでとは違う安心が胸に落ちる。


「ありがとうございます」


自然と頭を下げると、ブラムさんは少しだけ目を細めた。


「慣れない場所でひとりだ。不安なこともあるだろ」

「少しだけ。でも…嬉しい気持ちが大きいです」


正直にそう言うと、小さく息を吐くように笑う。


「それなら良かった」


短い言葉、でも声音が柔らかい。


「夕飯は食堂でとる。そろそろ時間だ。いけるか?」

「はい」


頷き、部屋を出る。

扉の閉まる音が、さっきとは違って軽く感じる。


廊下にはリュミとフェリクスさんがいた。

2人がこちらに気づいて手を振る。


「腹ペコー!」

「腹減った!」


2人の声が重なる。

表情までそっくりで思わず笑ってしまう。

となりのブラムさんも、くくっと笑っていた。


「行くか」


ブラムさんがそう言って、皆で食堂へ向かいはじめる。


廊下をすぎ、階段を2階ぶん降りるとかすかにいい匂いが流れてきた。

さっきまでの静かな夜とは違う、少しだけ賑やかな気配。

胸の奥が、少しだけ弾んだ。

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